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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 伴天連

 「伴天連」と書いて、「バテレン」と読みます。

 その意味するところは、

 ① キリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に
 対する呼称で、ポルトガル語(バーテレ)に「伴天連」 
 などの漢字をあて、その字音によって生じた語です。

 ② 日本に伝来したキリスト教の俗称、またはその宗徒
 (バテレン宗)などを指します。

 今回は、『ダ・ヴィンチの罠 兵器化』のつづきですが、
その「伴天連」(バテレン)がテーマになっています。

 さて、

 16世紀になると、我が日本国にもキリスト教の宣教師
たちがやってきます。

 キリスト教を広めるためにフランシスコ・ザビエルが
宣教師として日本(鹿児島県)に上陸したのは、1549年
(天文18年)8月のことでした。

    4月7日 は戦国時代に来日した宣教師 フランシスコ・ザビエルの ...
    フランシスコ・ザビエル ameblo.jp

 ザビエルはその後、1550年(天文19年)8月に布教の
ため肥前国平戸(長崎県平戸市)に入ります。

 さらにその年の11月には「周防国」(山口県)を訪れ、
宣教の許可を得るため守護大名の大内義隆に謁見します。

 こうして大内義隆は最初にフランシスコ・ザビエルに
会った大名となったわけですが、

     大内義隆
     大内義隆 www.touken-world.jp

 彼は、その性悪さをいとも簡単に見抜いてしまいます。

 ザビエルは手土産も持たずに、義隆の男色を偉そうに
戒めたのです。

 LGBTの先進国である日本に来てその文化も知らず、
なんという言い草だと言うわけで、このときの謁見では、
周防での宣教の許可を得ることはできませんでした。

 宣教の許可を得ることに失敗したザビエルは、懐柔策
に出ます。

 さまざまな献上品を用意し、見事山口での宣教の許可
を得ることに成功するのですが、この時の献上品のなか
に、当時「珍陀酒」(ちんたしゅ)と呼ばれた赤ワイン
もあったと言われています。

 山口でのキリスト教の宣教活動を了承した大内義隆は、
日本初のキリスト教会となる「大道寺」を与え、ここが
布教の拠点となります。

 そして大道寺において日本における最初のクリスマス
が祝われたとされていますが、結局、義隆はザビエルを
放り出すことになるのです。


    フランシスコ・ザビエルの肖像画 作者不明

 先の男色の件もそうですが、実に礼儀をわきまえない 
連中だったからです。

 それでも宣教師たちは九州の大名に取り入り、まずは
近隣諸国とのいくさに駆り立てます。

 そこで、日本人に初めて敵を捕虜に取ることを教える
のですが、同時に捕虜は売れることも教え、その売買は
宣教師たちが嬉々として行ったわけです。

 そうしたキリスト教の性悪さを、豊臣秀吉は非難して、
伴天連(バテレン)追放令を発布します。

 そして、宣教師たちに対し、「日本人を海外に売るな」
「今、手持ちの日本人がいるなら俺が買い取る」と言い、
このまま奴隷商売を続けるなら、この国からたたき出す
と勧告したわけです。

 それを、政敵だった徳川家康が引き継いで、二代将軍
秀忠が1612年に禁教令を出すわけですね!


    第二代将軍 徳川秀忠 出典:Wikipedia

 キリシタン大名の高山右近は、高槻城下の神社仏閣を
片っ端からぶっ壊し、坊主たちを殺して、その後に教会
を建てたと言います。

 それで、

 家康はキリスト教の狭量度合いに完全に染まり切って
いた右近を、日本から追放します。

 イエスの加護でマニラには何とか無事に到着しますが、
水が合わなかったのか、その後すぐに死んでしまいます。

 日本の神様のバチが当たったんでしょうか!?

 世界中のどの国も成し遂げられなかったキリスト教の
追放劇は、徳川家光(三代目)の時代までかかります。


 「嶋原陣図御屏風(戦闘図)」朝倉市指定文化財。天保8(1837)年 斎藤秋圃 画 

 キリスト教徒の最後のあがきが〝島原の乱〟でした。

 天草四郎時貞の配下には小西行長や有馬晴信など名の
あるキリシタン大名の遺臣も加わっていたわけで、ただ
の狂信者集団ではありませんでした。

 徳川方も落とすのに苦労したけれど、最後の最後には
キリスト教の狭量性に目をつけ、それを巧みに利用して
落城させます。

 この辺りは日本人の知恵で勝ったようなものでした。

 というのも、


           天草四郎時貞 mag.japaaan.com

 天草四郎はポルトガル系のカトリックの信者です。

天草四郎
           天草四郎 www.touken-world.jp

 一方の幕府側にはこのときポルトガルに代わって日本
との交易を望んでいたオランダ船が出入りしていました。

 彼らはカルヴァン派で、旧教では禁止されていた利息
を含めた商取引行為を認めるプロテスタントでした。

 そこで幕府側は、「島原の原城には旧教系のキリスト
教徒もこもっているが、お前らの軍艦の大砲で海に臨む
原城を砲撃してくれないか」と頼んだのです。

 正直に言って、同じキリスト教徒だから難しいかなと
思ったが、意に反してオランダは日本との交易ができる
ならと二つ返事で引き受け、海から二日二晩にわたって
砲撃を加えたのです。

 もう少し詳しく言うと、長崎奉行からの依頼を受けた
オランダ商館長のクーケバッケルは、幕府軍に船砲五門 
(ゴーテリング砲)を陸揚げし、さらに、デ・ライプ号
を島原に派遣して、海上から原城内に向けて艦砲射撃を
行ったのです。

 
    オランダの商船 デ・ライプ号(おそらく島原の乱)www.wikiwand.com

 しかし、

 砲撃による目立った効果は見られず、また細川忠利ら
諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まった
ために、知恵伊豆こと、老中・松平伊豆守信綱は砲撃を
中止させます。

 ところが、

 ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的
に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との
批判は的外れであると信綱が反論しているように、実際
この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を
削ぐ効果は十二分にあったと考えられているのです。

 つまり、宗派が違ったらもう虫ケラ同然の扱いという
キリスト教の狭量さが、このときは大いに役立ったわけ
で、キリスト教の心根の狭さや宗教観の違いに日本人は
ホントにあきれ返ったのでした。

松平信綱 (まつだいらのぶつな)とは【ピクシブ百科事典】 

 とかく、歴史の授業で教わる〝島原の乱〟は、過重な
年貢の負担と払えない場合に生きて火を付けられるなど
の苛烈な処罰に窮した百姓たちへの酷使や、キリシタン
(カトリック信徒)への迫害、さらには、飢饉の被害が
加わった反乱であり、改宗に応じないキリシタンに対し
て熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から勃発
した江戸時代最大の内戦であるとされていますが、

 小生には、

 〝島原の乱〟は、キリスト教のいやらしさをはっきり
と見せつけた事件だったんじゃないのかな、と思われて
ならないのです。

 いずれにしても、天草四郎は大きな痛手を負ったわけ
で、こうした事情のほかにもさまざまな出来事が落城に
繋がったものと推察されます。

 面白いことに、この原城の最後については実に正確に
後世に伝えられているのです。

 それは四郎時貞を裏切って土牢に閉じ込められていた
山田右衛門作(えもさく)という名の西洋絵師が唯一の
生き残りとして幕府側に保護されていたからでした。

 彼は落城が迫る中で、叛乱将兵はともかくも、それに
付き従ってきた女や子どもだけでも救おうと降伏を考え
、四郎時貞にも懸命に説いたが、狂信者たちは聞く耳を
持たなかったのです。

 「女や子どもたちも皆な一緒に神の御許に行くのだ」
の一点張りだったわけで、仕方がなく包囲する幕府軍と
通じて、開城の手はずを決めるのですが、それがバレて
右衛門作は四郎時貞の前に据えられ、裏切りの罰として
何の罪もない彼の妻子は、目の前で殺されたのです。

 右衛門作は土牢に戻され、最後の決戦で血祭りになる
前に、幕府軍の総攻勢で原城は落ちたのでした。

    ふむふむ。

        
 画像 www.pinterest.jp       (う~む・・・)

 この話も慈悲と寛容からいちばん遠い、キリスト教の
姿を世間に広く知らしめる結果になったのです。

 その後も、幕府は危険思想団体であるキリスト教徒の
取り締まりを続けていたのですが、わずかに残った隠れ
キリシタンがひっそりと、信仰に生きてきたのが実情で
それが明治を前に、長崎の教会に忽然と現れるのです。

 「信徒発見」ということでバチカンは大騒ぎになった
のですが、この扱いにもキリスト教の狭量さが噴出して、
現代の日本人をずいぶん鼻白ませることになります。

 というのも、隠れキリシタンのうちの、半分は教会に
戻ってミサにも出るようになったのですが、残りの半分
は江戸時代と同じくひっそりと自分の家で信仰していく
と言ったのです。

 信者が教会に来て献金をすることでバチカンの経済は
成り立っています。

 フスやアーミッシュの如く「教会には行かない」など
と戯言を言う者は一切、相手にしないとキリスト教会の
団体が言い出し、それで教会に戻って献金する者たちを
「潜伏キリシタン」と称してバチカンで顕彰する一方で
、来ないほうの「隠れキリシタン」は相手にもされなく
なるわけです。


       『聖ペテロへの天国の鍵の授与』 Wikipediaより

 どうですか? この自己中心的なるせせこましさには、
開いた口が塞がりませんよね。

 この狭量こそが、世界に冠たるキリスト教の総本山の
正体なのです!

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        カトリック教会の総本山 サン・ピエトロ大聖堂

 畢竟、日本がキリスト教化しなかったのは、当時世界
ナンバーワンの強さを誇った日本の武士たちのお陰だと
言って何らの問題もありません。

 外国から見たら、恐ろしいほどの戦闘力を持った一種
の“首狩り族”や“腹切り族”です。

 到底、太刀打ちできません。

 宣教師たちが日本の戦い(いくさ)を見て、軍事的な
制圧を諦めた理由がよくわかります。

 肉体的なパワーだけでなく、技術力にも驚愕します。

 たとえて言えば、鉄砲(火縄銃)です。種子島に伝来
した火縄銃を、日本人は分解して徹底的に研究し、改良
に改良を重ねて、独自に性能を発達させていきました。

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             火縄銃 ja.wikipedia.org 

 一時期、世界の鉄砲の7割以上が日本にあったと言わ
れているくらいですから恐ろしく強い首狩り族です。

 しかも技術力を持った、教養のある戦士ですからね。

 慈悲もあって、寛容さも十分に知ってる日本人です。

 だから、秀吉から家光までかかって、宣教師を日本に
入れちゃいけないと頑張ったわけです。

 そして、ついに、キリスト教を禁教にして邪宗にした。

 これはね、もうホントに世界でも日本だけなのです!

 おそらく当時は、軍事力がすべてだったのでしょう。

 〝太陽の沈まない国〟と呼ばれていたスペインでも、 
とても歯が立ちません。

 実際そういう報告が宣教師たちによってスペイン本国
に上がっていたわけですからね。

 それがあっての禁教だったのです。そして、その精神
は、後の明治政府にも引き継がれるのです。

 明治元年に民衆にあて最初に出した〝五榜の掲示〟と
いうものがあります。

五榜の掲示
     五榜の掲示 www.touken-world.jp

 これは明治政府が初めて出した全国民に向けての政策
で、その内容は、君臣・父子・夫婦間 などの儒教道徳を
説き、徒党や強訴などの運動、またキリスト教の信仰を
禁じるなど、旧江戸幕府の政策とほぼ変わらない内容の
ものでした。

 五榜の掲示は、その名の通り、5つの守るべきことが
掲げられています。

 その五榜を訳文で紹介すると、

 第一榜 五倫の道を正しく行わなければならない。
 第二榜 徒党を組んで強訴したり、逃散(農民が田畑を
  放棄して村を出ていくこと)をしてはならない。
 第三榜 キリスト教の信仰はこれまで通り厳禁する。
 第四榜 外国人に対して暴行することを禁ずる。
 第五榜 流浪・本国(居住する藩)からの脱走を禁ずる。

五榜の掲示・第四札(複製)

 五カ条の禁止令で、立て札みたいなものですが、その
第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」とあり、
しっかりとキリスト教を禁じています。

五榜の掲示1
    小学館「学習まんが 日本の歴史」より

 16世紀から17世紀あたりでも、日本はキチンと情報を
持っていたのです。

 スペインはポルトガルを、またポルトガルはスペイン
のことを「こいつらが世界中で何をやっているか!」と
いう内幕をお互いに暴露し合っているわけで、その後も
鎖国している割には、ちゃんと情報を持っていたのです。 

 1775年、アメリカが独立をする直前に、スウェーデン
の学者ツュンベリーがオランダ人を装って長崎にやって
来ました。

 江戸参府もやって日本を見聞していますが、体験記の
なかで「日本人はオランダ人が黒人奴隷を苛(いじ)め、
酷使するのを本気で怒っていた」と書いています。

 そういう人でなしのオランダ人を嫌って、彼らが風呂
に入らずに、体臭を漂わせるのを「登城する紅毛に蠅の
ついていき」と川柳にも詠んでいるわけです。

 だからこそ、明治になってもキリスト教を禁止したの
でしょうね!

 たとえば、 

 横浜において、〝五榜の掲示〟の立て札が出たときに
西洋人たちが「なんだ、失礼だろう」と抗議したのです
が「キリスト教は悪い宗教だから信仰を禁じている」と
説明したそうです。

 昔の日本人は、キリスト教がどんなに勢力を持とうが
欧米列強が何を言おうが、まったくそれに動じませんで
した。これは、日本の特筆すべき民族性だったのです。      

 しかしながら、
         
 〝五榜の掲示〟の中で、第三榜のキリスト教信仰禁止
の項目については、「切支丹邪宗門禁制」の部分に外国
公使からの抗議があって「切支丹禁制」と「邪宗門禁制」
をのちに書き分けています。

 そして、

 外圧により1873年(明治6年)には、キリスト教信仰
禁止の高札は撤去され、キリスト教の信仰は黙認される
ことになります。

 最終的には、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の
発布で、日本は宗教の自由を認めることになります。

 なぜ認めたかというと、西洋の中で最も遅くまで奴隷
売買をやっていたアメリカが、もうやっていないと申告
し、それを確認したからと言われていますが、果たして
どうなのでしょうか!?

 門田隆将x高山正之対談:キリスト教はなぜ「狭量」で
日本人はなぜ「寛容」なのか。より、適宜に引用・構成
して加筆・編集してみました。

 こうした情報は、

 かなり重要な日本人を解明するひとつのポイントだと
思いますが、

 それが大東亜戦争で、たった一度、アメリカに敗れた
だけで、こんなにも情けない国に成り果ててしまうとは、

      そ、そうなの? 
 
     ま、まさか、お前さん! 
 
 「保守を知らんのか?」
 ええっ   
  
  「キャッチャー(捕手)でしょ!?」
 
       そっちかい!

          なんでやねん! 
          
   「って、おい、おい、」           う~む  (^▽^;)(^^ゞ  
     
           なんだかなぁ!  
  なぜ絵師がキリシタン摘発の岡っ引きに!?「島原の乱」唯一の生き残り・山田右衛門作の生涯
    日本で初めてのキリシタン弾圧「日本二十六聖人殉教事件」
     … to be continued !!   
  
   二十六聖人の殉教(26人の処刑を描いた版画 出典 Wikipedia
 
    三本の十字架 yamanashichurch1909.blogspot.com  

 ちなみに、

 歴史上、「太陽の沈まない国」と呼ばれるのは、ハプスブルク家のスペイン王国
スペイン帝国) と七年戦争後のイギリスイギリス帝国)です。

 
     symbol2 ダ・ヴィンチの推理はまだまだ続きます。


コメント一覧

小吉
 興味深いのは当時キリスト教を武器にして西洋列強がアジア諸国を植民地化していたことで、それを見抜いていた豊臣秀吉は凄いと思う。
(武器、武器の製造、火薬、キリスト教)

 今の日本があるのも豊臣秀吉のおかげであるとも言える。

 鎖国というものについても興味がありますね。
 
 徳川家の子孫が現在「徳川家は本当の意味で鎖国をしてはいません」みたいな話をしていてなるほどなあと思いました。

 ふむふむ。
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