透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 好敵手

 近年、聖書 の物語に材を求めて脚色(脚本)した
作品や使徒(クリスチャン)の生涯を描く映画が話題
なることが多いように感じられますが …



 ラッセル・クロウが主演した『ノア 約束の舟』



 イエス・キリストを描いた『サン・オブ・ゴッド』
 少し前の『パッション』や謎解きがブームとなった
 『ダ・ヴィンチ・コード』、クリスチャン・ベール
 がモーゼを演じた『エクソダス:神と王』など、

  
     『十戒』でのモーゼ(チャールトン・ヘストン)



     日本で公開された作品も少なくありません。

          


 前回の『ダ・ヴィンチの罠 神と神』では
天才パウロとして颯爽とご登壇いただいた

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/412.html(参照)

 新約聖書記者の代表的人物のひとり聖パウロを主人公
とする『Apostle Paul(原題 使徒パウロ)の主役
として、『X-MEN』 シリーズのウルヴァリンの役や
『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンなどを演じた
俳優ヒュー・ジャックマンの出演が決まったそうで米国では
『David and Goiath(原題 ダビデとゴリアテ)
今年 2015年3月に公開され、来年には『ベン・ハー』
のリメイク版がすでに制作予定にあるとか …

 「歌は世につれ、世は歌につれ」
とか申しますが、映画世界はどうなのしょうquestion2

 世の中の情勢に敏感に反応しているのでしょうか

 世情を反映(成り行きにまかせて変化)する映画が存在
するのは当然だとしても、流行に感化されて、世のありさま
の方が映画の影響を受けるようになってくると大変ですが、
昔から映画がプロパガンダに利用されるのは周知の事実
で、特に戦時期には大量の戦意高揚映画が作られました。

 近年において、ハリウッドや欧州各国で宗教的な内容を
カバーする映画が量産される背景には、政治的な意図を
感じないではいられませんが、
 
 どちらがどちらのサイドに立っているのか、あるいは、
原理主義者ならイスから転げ落ちるような脚色
単なるエンターテインメントであるとして片付けて
しまっていいものなのかどうか …

 反面教師を装うかたちのプロパガンダの可能性も十分に
あり得るわけで、実情は奇々怪々です

 サミュエル・P・ハンチントンの『文明の衝突』以来
の要素の他にアルカイダや台頭するIS(イスラム国)など
テロ脅威とも決して無関係ではないはずですね。

 有体に言えば、

 現代の社会を形成する世界標準を作ってきたのは、英米
に代表されるアングロサクソンです。

 英語が世界の標準になっているから言っているわけでは
ありませんが、アダム・スミスの経済学にニュートンの力学
(物理学)とダーウィンの進化論 …

 それらに象徴される英国的な世界標準として、産業革命
パクス・ブリタニカ(英国による平和)の時代に培われた
英国的覇権主義とそれ以前に英国からの独立を果たした
ジェファーソン仕様の米国的民主主義の根幹にあるのは、
アダム・スミスが『国富論』で提唱した「見えざる手」
すなわち市場原理が秩序ある経済を形成するのと同様に
(神の)見えざる手」が秩序ある世界を建設する
という確信めいた信念が英米両国にはあったのです。

 ところが、

 21世紀に入ると少しばかり事情が違ってきました。

 歴史を顧みると、

 ローマ帝国によるパクス・ロマーナ(BC27年~AD180)に
始まる強力で強大な一国の覇権が相対的に世界の平和を
もたらせてからは、モンゴル帝国によるパクス・モンゴリカ
(13世紀~14世紀)、オスマン= トルコのパクス・オトマニカ
(14世紀~19世紀)を経て、英国によるパクス・ブリタニカ
(19世紀半ば~20世紀初め)となり、第二次世界大戦後の
東西冷戦を経験したあと、米国によるパクス・アメリカーナ
(20世紀半~)の時代が続いていたわけですが …

 所謂(いわゆる)、9.11(2001年9月11日に米国内で
起こった同時多発テロ)以降、表立っての脅威 としての
テロリストの存在とアングロサクソン的な価値秩序
真正面から対決姿勢を示す国家や組織の存在が世界中に
混乱のタネを撒き散らしているわけです。

 言わば、

 一方におけるに敵対する悪魔(サタン)という構図と
他方においてイデオロギー悪魔誤認
させられている国家や組織との対決です。

 中東を中心とするテロ組織であるアルカイダやISを容認
するものではありませんが

 手段や方法に問題はあるもの古くはルイ14世の時代から
近くはイラクのフセイン大統領やウサマ・ビンラディンに至る
まで英語圏文化パワーに挑んだ勢力はことのごとくに
退けられてきたわけです。

 誤解を承知で注釈すれば、

 アングロサクソンが生み出す経済的な活力変化
歓迎しない社会や人々で構成される国家や組織を悪魔化
しつつグローバル化しているのがこの世界の現実であって
それを俯瞰してみれば、どちらが真の悪魔かわからない
というのが大雑把な論旨で、その戦いの為のプロパガンダ
(世論誘導を目的とする宣伝行為)が冒頭での聖書絡みの
映画作品に込められていると勘繰っているのですがase2

 そもそも、

 プロパガンダという言葉を最初に用いたのは、1622年に
設置されたカトリック教会の布教聖省(現在の福音宣教省)
の名称でラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)
に由来するのだそうで … さもありなんの体なのです。

 しかるに、ダ・ヴィンチの時代では、それが壁画だったり、
絵画や彫刻や音楽という芸術部門がそれらを担っていた
ことは推測するに難くないことで、情報心理作戦上の思想
統制やコントロールにアーチストたちは欠かせない存在で
あり、時の権力者や有力者たちは挙って彼らのパトロンと
なったのにはそうした裏事情もあったというわけです。

 ちなみに、

 ダ・ヴィンチのパトロン履歴と主な作品を記すと …

 最初のパトロンは、

 1 ダ・ヴィンチが、26歳の頃からの数年間、メディチ家の
偉大なる君主」と称されたロレンツォ・デ・メディチのもと
で働き、ここで『東方三博士の礼拝』を手掛ける
も製作途中で突然ミラノに旅立ちますase2




 2 二人目は、30歳~47歳までの十数年間、ミラノ公国の
君主 ロドヴィコ・スフォルツァに仕えますが、31歳のときに
裁判沙汰となるパリ・ルーブル版の『岩窟の聖母』



 描き、43歳~46歳で『最後の晩餐』を仕上げます。




 3 50歳になった頃には、チェーザレ・ボルジアのもとで、
専(もっぱ)ら軍事技術者として働き、その後、フィレンツェ
の宮殿で壁画『アンギアーリの戦い』を制作する
も未完成に終わっています。


     ルーベンスの模写 『アンギアーリの戦い』

 4 かつてのパトロンであったロドヴィコ・スフォルツァ公を
失脚へと追い込んだフランス王ルイ12世の宮廷画家となる
のが55歳の頃で、『モナ・リザ』や『洗礼者聖ヨハネ』と共に
生涯手放すことのなかった『聖アンナと聖母子』
は58歳の頃の作品です。



 5 60歳を過ぎる頃に、ヴァチカンの教皇であるレオ10世
ロレンツォ・デ・メディチの次男ジョヴァンニ)の弟である
ジュリアーノ(ヌムール公)の庇護のもとで工房を構えるも、
専ら政治顧問や外交官的な立場に終始します。

 6 最後のパトロンとなるのは、フランス王フランソワ1世
で、63歳の老人に惚れ込んだ21歳の若き王が彼のために
アンボワーズ城近くに「クルーの館」を与えるとダ・ヴィンチ
はそこに未完成の『モナ・リザ』を持ち込みます。



 限界にきていた利き腕である左手の状態が悪化するなか
で、若き王の人生全般の師として、専ら話し相手となるだけ
の静かな日々を過ごし最期の時間(とき)を迎えますase

        

 ダ・ヴィンチのことを、あれだけ慕っていたフランソワ1世
でしたが、1519年5月2日に「クルーの館」でこの世を去った
ダ・ヴィンチの最期の場面には立ち会えずにいたことから、
さぞかし無念であったのだろうと勝手に斟酌したヴァザーリ
などが、あたかもダ・ヴィンチがフランソワ1世の腕の中で
永遠の眠りについたという伝説を描写し、ヴァザーリたちの
伝説にしたがって19世紀には、フランスの画家アングルが
その場面を絵画として残しています。


  アングル 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 1818年

 ミケランジェロのシンパであるヴァザーリが、何故に彼の
最大のライバル(好敵手)であるダ・ヴィンチに対して余計
とも思えるようなお節介な真似をしたのかは不明ですが 

 その天才性を認めるにやぶさかでないものがダ・ヴィンチ
自身にあったことを否定できなかったのだと思います。

 ライバル存在なくして偉業達成なしえず、



 モーゼが海を二つに割って道をつくった要因は急襲する
エジプト軍(ラムセス2世)の存在にあるわけで、

 それは、

 ダ・ヴィンチとミケランジェロ好敵手としての
競争関係にも当てはまります。

 さすれば

 兄弟同然にして育ったモーゼラムセス2世
火花を散らすような敵対(ライバル)関係やダ・ヴィンチと
ミケランジェロの確執にも似た対立(ライバル)意識
があったからこそ、ルネサンスの偉大な芸術家として並び
称される存在となったわけで、

 「絵画は、詩や音楽や彫刻に
        勝る最高の芸術である」


 と、わざわざ手稿に残していることからもミケランジェロに
対するダ・ヴィンチのライバル心が露(あらわ)だったことが
弥が上にも想像されます。
 
 なればこそ、好敵手といったら サタン
を措いてほかにはもう誰も考えられないわけで …

 その意味からは、サタンあってのであって、
サタンなくして存立無きに等しい
ものだと言えるでしょう。

 たとえば



 先の『アンギアーリの戦い』を凝視していると、
ライバル同士の熾烈な戦いや正(聖)と邪の激しい攻防に
見えてしまうのは目の錯覚や気のせいなのでしょうか

 さて、いよいよですが、

 次回からは、ダ・ヴィンチが最後まで手もとに置いていた
絵画に迫ってみたいと思いますpeace


『聖アンナと聖母子』  『モナ・リザ』  『洗礼者聖ヨハネ』

 以上3枚絵画です 
 

      「早合点は禁物だが…」
     
     「とうとう息を引き取ったか」


        

 ヴァザーリたちの思い入れによる事実とは食い違う描写が
真実の如くに絵画の世界で甦ったようなアングルの筆による



 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』

 symbol2 最後にもう一度スポットライトを当ててみましよう。

 こうして見ると、なんだか舞台劇みたいですね

 … to be continue !!

コメント一覧

皮肉のアッコちゃん
そんなアングロサクソンにおんぶに抱っこされているような
日本っていったい何んだろうね!
ルート1/2
和歌山県太地町の追い込み漁で捕獲したイルカの入手に関する問題で、世界動物園水族館教会(WAZA)に残留する決定を下したのも、突き詰めれば、アングロサクソンの横暴と言うか、西欧的秩序の前に日本的文化や考え方が屈したわけで、スッキリとしない結果ですがこれが現実です。
カフェ・俺
アングロサクソン的な秩序に対決姿勢を示す国といったら、
ロシアや中国もそうだよね。
特に周辺国にいわゆる「中華思想」でもって「華夷秩序」を
強制しつつ、太平洋を半分づつ分けようなどと画策する
共産党独裁資本主義国家の存在は脅威だけど・・・
好敵手ではないよなあ~!
やぶにらみ
いやぁ、スペクタクル物はいいよねぇ。
随分と昔の話だけど、「天地創造」や「十戒」それから、
「サムソンとデリラ」なんかも良かったな!
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