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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 超奇跡

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 超奇跡(改)』です。

 (以下、本文)

 

 西欧における中世の終わりをどこに置くかに
ついては諸説ありますが、東ローマ(ビザンツ)
帝国がオスマントルコに滅ぼされた年 ・・・

 つまり、

 首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)
が陥落した西暦1453年とするのが定説です。

  
    東ローマ帝国の版図の変遷

 その前年に、フィレンツェの郊外の村で産声を
あげていたのが、我らがレオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452年4月15日~1519年5月2日)なのですが、



 そこに時代(歴史)の何たるかを感じないわけ
にはいられないのです。

 陥落によって多くの知識人たちが西欧に流入
(亡命)し、古代ギリシアの文化やイスラム科学
の文献や知識がイタリアにもたらされます。

 その結果、

 それらの影響を背景にしたルネサンス運動が
西ヨーロッパの各地で起こるのですが、

 それは、

 キリスト教的な価値観や世界観に異を唱える
べく、多くの分野においてそれまでの権威主義
や因習に対抗する再生・復興のエモーショナル
な復活劇、または聖書回帰=原点復帰として、
イタリアはフィレンツェを中心に隆盛をきわめる
ことになるわけです。

 キリスト教世界では旧約聖書(創世記十戒)
による偶像崇拝禁止の戒律を無視してイエス
、聖母マリア、使徒、聖人などを絵画(2D)や
彫刻(3D)で聖画像(正教会ではイコン)
として表象化(シンボライズ)していましたが、



 それまでは教会からの注文生産を請け負う
だけの単なる職人稼業でしかなかった画家や
彫刻家たちの業界においてもそれは同様で、


   ミケランジェロ 『ピエタ』1498-1500年

 自らの作品によって自己を表現する作家や
芸術家としての道が拓ける時代の中で、彼ら
の興味が一神教が支配する世界から多神教
の世界に移っていくのは、もはや時間の問題
であり、自然の流れでもあったのです。


     『ピエタ』像の聖母マリア
 
 そうはいっても、

 暗黒の中世からみれば、自由度に若干の幅
が認められる方向に時代が変革したとは言え、
彼らの最大のスポンサーが 教会であることに
変わりはなく、そこに禁忌としての干渉や検閲
がなくなったわけではありませんでした。

 そこには当然の如くに 神学的な制約があり、
裸婦像その他、性的な魅力に溢れた表現など
はタブーそのものだったわけです。

 『ダ・ヴインチの罠 隠し絵』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/518.html

 

 で紹介した上の瓶の絵は、9頭のイルカを
描いた「騙し絵」の一種ですが、



 たとえ、どのような弁解を弄したところで、

 こうした性的なイメージを喚起させる作品は、
それが「騙し絵」であろうとなかろうと当然
の如くに摘発されるべき対象であって、そこに
異端性猥褻(わいせつ)の嫌疑が
あれば、否応のない修正廃棄処分
が強制的に行なわれることになるのです。


 その意味からは、ギリシャ神話に基づいて


  『レダと白鳥』の習作1503年~1507年

 ダ・ヴィンチが描いた『レダと白鳥』
オリジナルを廃棄したに、そうした事情
の一端を推察することは容易ですが、


  『レダと白鳥』の模写、ラファエロとチェザーレ・ダ・セスト

 話はそんなに単純ではありません。

 『最後の晩餐』完成した翌年の
AD1499年には、ルイ12世率いるフランス軍
がミラノに侵攻し、ロドヴィコ・スフォルツァ公
は失脚します。

 これを機にダ・ヴィンチはミラノを脱出して、
マントヴァ、ヴェネツィアなど各地を転々とし、
1500年に再びフィレンツェに戻るのですが、



 彼には気がかりなことがあったのです。

 それは、

 ミラノに残してきた『最後の晩餐』
行く末に関する不安でした。

 ダ・ヴィンチには分かっていたのです

 絶賛に迎えられた壁画も、いずれ
近いうちに絵の具の剥落腐食などの
劣化現象が始まるということ。

 そして、

 そうした称賛の評価ので宗教画には
ふさわしくない異端的要素と思想が見られる
ことを感じ取っていた人々がいることを ・・・

 要するに、

 この壁画は『ヨハネの福音書』
沿いながらも「最後の晩餐」の場面を
描くうえでルール化されていた伝統的図法を

 
    伝統的な構図で描かれている素描

 あえて用いない潜在的異端思想がベース
にあって、三位一体教会権威

 すなわち、換言すれば、

 使徒ヨハネと使徒ペテロを両立させる図法
ではない革新的で且つ確信的な構図を採用
していたわけで、聖職者や修道僧でなくとも
一般の敬虔な信者が、そこに異端の臭いを
感じ取ったとしてもおかしくはないのです。

 それがこの壁画の運命に影を落としたとも
言えなくもありませんが、

 その第一の原因は、通常のフレスコ画では
なく、レジンなどで地塗りした上にテンペラ画
(一部油彩)で描かれていることにありました。

 壁の漆喰が乾燥する前(およそ8時間以内)
に仕上げなくてはならないフレスコ画を避けた
理由としては、このシリーズにおいて繰り返し
述べているように『最後の晩餐』
「罠」最終的集大成として、
ダ・ヴィンチ渾身の作とする腹づもりで計画し
実行された超大作であったからですが、



 運命の皮肉というか、時代(ミラノの情勢)が
それを許してはくれませんでした。

 要するに、時間が足りなかったのです。

 『最後の晩餐』は、タテ 4.2m~4.5m、
ヨコ 8.8m~9.1mの大きな壁画ですが、



 遅筆のダ・ヴィンチにしては、実質3年という
短期間(1495年-98年)で完成させています。

 というよりは、完成というかたちを採らざるを
得なかったほどに彼にとっての状況は切迫の
度合いを増していたのかもしれません。

 この辺りの補足情報としては、

 『ダ・ヴインチの罠 松果体』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/480.html
 『ダ・ヴインチの罠 白日夢』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/481.html

 などを参考にしてみてください。

 大まかに言うと、


  『最後の晩餐』が描かれた頃の勢力図

 ダ・ヴィンチが壁画の制作を開始した当時の
ミラノでは、西にあるヴァロワ朝フランス王国と
北の神聖ローマ帝国が北イタリア一帯の覇権
を巡っての争いを激化しつつあった頃でした。

 壁画の依頼主にして、ダ・ヴィンチのパトロン
であるミラノ公 ロドヴィコ・スフォルツァは神聖
ローマ帝国側に味方をしており、フランス王国
とは敵対関係にあったわけです、

 そうした政情不安のなかでも千載一遇
機会と思われたのがミラノ公からの命令
によるドメニコ会系の修道院であったミラノの
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
の食堂を飾る壁画の注文だったのです。

  
 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
 
 壁画である『最後の晩餐』「罠」
集大成としようと思ったのは大画面
であり、しかも 幾通りもの場面設定(構成)や
人物たちの組み合わせの自在性や有効性が
十二分に可能な題材でなければ「罠」
総仕上げは不可能だったからで、

 絵の具の剥落や腐食などによる画面の劣化
については、ある程度までは想定の範囲内で
あり、覚悟は出来ていたものと思われます。

 それと言うのも、

 テンペラ画法が食堂などの湿度の高い環境
には適さないことは当時から知られていたこと
で、それは顔料の乳化剤として使用する卵黄
が腐食するからですが、

 経験の弟子を認ずる実践家にして科学者で
もあるダ・ヴィンチが、そのことを知らなかった
とは考え難く、なんらかの意図や魂胆を持って
、あえてそうしたか、少なくとも劣化するという
予想と覚悟はあったはずなのです。

 然るに、ダ・ヴィンチが、



 そうしたリスクを冒してまでもテンペラ画法を
用いたのは何故だったのでしょうか

 「音楽は絵画と同様に感動を
 与えるが音は消え絵画は残る。
    ゆえに絵画は音楽に優る」


      (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 という彼の言葉と照らしても矛盾するし、

 「絵画の作品は、その師である自然を永遠
 の中に留めようとするので、時間または死
 によって滅びゆく自然よりも価値がある」

  というようなことを手記に綴っていますが、

 この場合の「自然」を「人間」または「人体」
に置き換えると大変に危険で、絵画と
被造物とを対比(対置)して、画家が創造主
に優るかのような錯覚を読み手に与え得る
わけで、冒涜するものと解釈される
恐れも十分にあったわけです。


       ダ・ヴィンチの手稿

  そうなると考えられることはひとつです。

 当時もフレスコ画の一部をテンペラ画で補う
ことはありましたが、巨大全体
テンペラ画で描いたのはダ・ヴィンチをおいて
他には例がありません。

 事実、完成の後、数年を待たずして剥落が
始まり、すでにダ・ヴィンチの存命中にもカビ
が全体を覆って暗い陰影と化していたとする
記録が残っていますし、半世紀の後にはただ
の黒いシミの塊に過ぎないものになり果てて
いたわけです。

 ダ・ヴィンチ自身が言っているように、

 「十分に終わりのことを考えよ。
 まず初めに終わりを考慮せよ」


      (レオナルド・ダ・ヴィンチ)



 ダ・ヴィンチは万が一にも「罠」の秘密
が露見することを危惧して、絵の具の剥落と
腐食が進み壁画全体が崩壊してしまうことを
実は密かに望んでいたのかもしれません。

 彼自身、修復に関わったという記録は一度
もなく、幾度となく粗末な補修が行われたよう
ですが、それにより本来の姿が復元されたと
いう保証はなく、むしろ、原画とは異なる加筆
や変更が行われた結果として、かなりの部分
で原画とは違ったものになっている可能性の
ほうがより大きいと言えるでしょう。 
 
 この壁画の運命に影を落とすことになった
原因の第二には、

 伝統を無視した斬新なる構図にあります。

 それが彼らの気に沿わなかったのか

 その後の扱いを見れば容易判断
付くのですが、


  イエスの足もとをくり抜いた扉の部分

 教会や修道院は この壁画を適切に保存
しなかったばかりか、積極的な破壊を行い、
イエスの足もとは隣室への扉を作るために
壁ごと穴を開けられ、後に食堂は馬小屋と
なって壁画の運命は馬の糞尿にまみれた
最悪の環境下で、さらなる悪化の途を辿る
ことになるわけです。

 ミラノに入ったルイ12世が壁をくり抜いて
までフランスに持ち帰ろうとして断念をした



 そりゃ無茶です

 そんな

 『最後の晩餐』が何故に、このような
無惨な扱いに甘んじなくてはならないのか。

 それは、

 人知れず予感し阻害する者たちによって、

 つまり、

 「この壁画にはローマ・カトリックにとって
不都合極まりない情報が秘められている」

 と考える者たちによって妨害され続けて
いたのかもしれません。

  20世紀には、さらに過酷なる運命
が待っていました。

 
     爆撃された修道院の様子

 第二次大戦中の無差別爆撃で、修道院は
ほぼ完全に破壊され、むき出しになりながら
奇跡的に残った壁画(矢印)は、


   爆撃を受けた直後の修道院の写真

 その後、



 3年にわたりシートに覆われただけの状態で
直射日光と風雪雨に晒されることになるのです。


     爆撃された修道院の様子

 これらの経緯を鑑みると、著しい劣化をみた
とは言え、20年以上(1977年-1999年)に及ぶ
大修復を終えて、今日のかたちに復活・復元
されたことに感謝しなくてはなりません。

  

 たとえ、それが、

 原画とは違う姿に変わり果てていたとしても
この壁画は、もうすでに、その存在自体
奇跡中奇跡なのですから ・・・



 「大奇跡」、あるいは「超奇跡」
と呼んでも決して過言ではないでしょうpeace


 ということで



 今回はトマス(L1)の人差し指が、

 

 実はトマスのものではなく、

  

 大ヤコブ(L2)の右手かもしれないとする

      

 仮説披瀝しようと思っていたのですが

     right 

 その大前提として、およそ500年の時を経た
20世紀末の大修復により、かなりの部分での
復元が実施されたとは言っても、その細部に
おいては当初の原形をとどめていない箇所も
少なくなく、オリジナル部分がまったくと言って
いいほどに残っていない箇所もかなりあって、

     

 たとえば、

 大ヤコブの身体の部分のオリジナルの
絵の具などは、ほとんど失われて壁の下地が
露出しているといった状態で、



 初期の複製画をもとに原画で確認できない
部分を推定解釈しているのが現実です。

 しかしながら、

 複製画(模写)などに基づいて不明な細部
を決定するのは非常に危険であり、複数の
複製画(模写)とされている作品の間にさえ、
さまざまな相違や不一致な点が多く、そこに
複製者の主観や個性が反映される可能性を
排除できない以上は原画において確認不能
な部分を過剰に解釈すべきではないのです。

 なぜなら、先に示した

 人知れず予感し阻害する者たちによって、
ダ・ヴィンチの真実が故意に捻じ曲げられ
修正された可能性を否定できないからです。

     
      (なるほどねぇ)

 でも、それって、

 多分、そっくりそのまま反駁されるよね。

 トマスの右手が、大ヤコブの手だと
いう方が過激で、ぶっ飛んでいますから ・・・


 さて、次回では、その件に絡めて、



 におけるタダイなる人物と


     鏡文字で書かれた使徒名

 ① Bartholomew バルトロマイ(Bartlomeo)
 ② Andrew アンデレ(Andrea)
 ③ Thaddeus タダイ(Tadeo)
 ④ 無記名〔小ヤコブ❓ Jacob the Less〕
 ⑤ 無記名〔ユダ Judas〕
 ⑥ Peter ペテロ(Pietro)
 ⑦ 無記名〔イエス Jesus〕
 ⑧ 無記名〔ヨハネ John〕
 ⑨ Jacob the Great 大ヤコブ(Iacobs Maggiore)
 ⑩ Thomas トマス(Tomaso)
 ⑪ Matthew マタイ(Matteo)
 ⑫ Simon シモン(Simone)
 ⑬ Philip フィリポ(Filippo)

 ( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名
 〔 〕内は推定される使徒名です。



 に配置されたタダイなる名前の
人物について、その相違点矛盾点

 『ヨハネの福音書』記述および
その他『共観福音書』内容をもとに
比較検討を加えてみたいと考えます。

 においての番号は頭部の位置ではなく、
席の順に割り振られていて、

 ①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、
 ④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス、
 ⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩フィリポ、
 ⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン、となります。

 これは現在知られている使徒の名前と同一
ですが席順設定のため、ユダとペテロおよび
トマスと大ヤコブが逆に表記されています。

 『ヨハネの福音書』ではタダイ
相当する人物は、イスカリオテとは別のユダ
(14:22)であり、『ルカの福音書』では
ヤコブの子ユダ(6:16)ですので ・・・

       

        何じゃ、何じゃ、

    

 ユダばっかじゃの



       「え

 もともと、

 「ユダヤ人ですから」



 なるほど、なるほど、

  

 「ユダん大敵、タダイより高い物はない

 てかぁ     



 … to be continue !!



      



  


       出典:shanti-phuia.net

    
 
   ・・・ って、おいおい、

      
     本気(マジ)か


 出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net



コメント一覧

ちびくろチャンリンシャン
多少なりとも、ダ・ヴィンチのことを知っている人たちからみれば、チャルメラメロディさんのように思うかもしれませんが、大方の人は「モナリザ」ぐらいしか知りませんよ!

ま、あとは「最後の晩餐」が精々かな?

だから、多分、それだけでも名声十分だってことですね!

ソラシーラソ、ソラシラソラー♪
江戸川ドイル
豆腐屋のラッパは、パ~フー(と~ふ)だけどチャルメラのメロディーって、ソラシーラソー、ソラシラソラー(^^♪ だよね!
チャルメラメロディ
怪しげな奇跡の数々を起こしたとされるイエスの御業と比較するまでもなく、これは正真正銘の奇跡だよ!

もし「最後の晩餐」が喪失して、「モナリザ」だけだったとしたら、ダ・ビンチの名声は現在とは相当に違ったものになっていただろう!?
むらさき納言
久々に読み直してみたのですが、2年前とは違う印象です。

原画がトマスの右手ではなく、大ヤコブの手であったとしたなら、この壁画は「最後の晩餐」の場面を描いたものではないことになります。

たとえば、復活後のガリラヤでの弟子たちとの
再会の朝餉であったとしたなら、ユダはもういないので、当然、ユダはユダではない人物ということになってきますし、右手に握られている巾着袋の意味も変わってきます。

そうなれば、ワイン入りのグラスの数は12個でしょうし、

もちろん、ペテロが握るナイフの意味も、ナイフの真の持ち主は誰かという問題も発生します。

最新の『信奉者』でのパウロの謀略を考えると
この場に立っているイエスの正体が誰なのかも気になりますが・・・
透明人間2号
むらさき納言さん、陰謀論ではなく陰謀の軌跡であり、現在進行形のシナリオです。

それに、ユダ探しからの出来事は予定稿などではありません。

こちらも現在進行中のライブですから、いつも申し上げているように、行き当たりばったりの出たとこ勝負です。

それに今、『陰謀論』のコメント欄で、スヌーピーの謎についての意見を求められていて、どう応えたらいいものやら、下手な返答は出来ませんので、正月早々から冷や汗ものですよ!
むらさき納言
今もって全然つながらないのが、トマスの右手ではなく大ヤコブのものとだいう仮説の論拠です。
次の『矛盾点』や『誤誘導』によれば、テンペラ画法によるカビの発生や絵の具の剥落も想定内で、むしろ計算ずくでよりカビの発生を促す細工や剥落を酷く起こさせるような工夫をして(ダ・ヴィンチの意図する方向へと)修復を誤誘導したとの説ですが、それにしてもトマスではなく大ヤコブの右手とするのは無理があると思うのです。
ただ、まだ明かされていないままのペテロではなくヨハネが握るとされるナイフの説と同様に
ユダではなくイエスこそが裏切り者だとする陰謀論と関係するのでしょうか?

その次の『醍醐味』からヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』でのユダ探しが始まってからは、あらぬ方向へとどんどんと進行中のようですが、これも2号さんにとっては予定稿なのでしょうか?
透明人間2号
コメントありがとうございます。

多少のご不満もあろうかとは存じますが、これも小生の頭の体操ということで、大目に見てやってくださいませ。 
むらさき納言殿・・・

ゴスペル999さん、戦術も戦略もありません。
ある意味で、行き当たりばったりなんですから。
ただ、歴史と同じようにアカデミックなものや定説とやらに疑問を抱くことが多々あるだけです。
特に不都合なる真実には、天の声というか、鼻が利くというか、何か感じる気がするということでしょうか。

ココナンさん、コンティニュー以下については、予告の場合もあるし、オチの補強材料やページの意味づけや『ダ・ヴィンチの罠』の構造イメージをサブリミナルに刺激することを意図していますが、蛇足と言えば蛇足ですね。
ココナン
前々から気になっていたのですが、コンティニュー以降の画像にはどんな意味や意図があるのですか?
次回の予告だと思っていましたが、どうもそうでもないようですし・・・
ゴスペル999
定説崩しの正面突破作戦ですか。
まずは、現行のスタンダードの信憑性にイチャモンをつけて、その不備を突く戦術ですね。
期待しましょう!
むらさき納言
無理してオチをつけなくてもいいような気が・・・
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