現在、世界で最も広く使われている紀年法
である西暦は イエスが生まれたとされる
年の翌年を元年(紀元)にしていますが、
当時のユダヤ社会でのイエスの登場は
如何に センセーショナルでエキサイティング
な出来事だったというのでしょうか
エルサレムに入城するイエス
イエスが登場する以前に、ユダヤの地に
ひとりの偉大なる「預言者」の出現が
あり、その人物は前回のブログ記事である
『ダ・ヴィンチの罠 洗礼者』
での洗礼者ヨハネであったわけですが、
断然 人気があったのはイエスより彼の
方であったとダ・ヴィンチは考えていました。
否、それよりもむしろ、
本当の意味での「救世主」(メシア)は
洗礼者ヨハネのことであるとさえ、彼は
思っていたのですが ・・・
今回はそんな西暦の起源となったイエス
の懐妊に纏(まつ)わる聖母マリアの周辺
の事情について考察してみたいと思います。
出典:www.kyobunkwan.co.jp
さて、
御使いのガブリエルより、受胎の告知
(予告)を受け入れたマリアは、
エリサベツと聖母マリア Wikipedia
南ユダヤの山地に住む親族のエリザベツ
のもとを訪ねます。
老齢の彼女もまた精霊の力によって懐妊
し、六か月目を迎えたと知ったからですが、
ナザレからユダの町までは一週間ほどを
要する旅路であったと思われます。
マリアは その地で三か月ほど過ごして
から、ナザレにある家に帰ってきましたが、
彼女の妊娠が多くの人々に知られるまで
に、さほど時間がかかるとは思われません
ので、『福音書』が伝えるように、精霊の
働きによってマリアが懐妊したのならば、
ヨセフと婚約していたマリアは死ぬほど
悩み苦しんだに違いありません
なぜなら当時、
神から与えられたイスラエルの律法では
婚約と結婚とは、ほぼ同じと見なされていて
、その差は一緒に住んでいるかいないか、
つまり、
輿入れを済ませたか否かの違いだけです。
ですから 二人は神の前ではすでに夫婦
であったと見なされるわけです。
このような場合に、マリアは姦淫したと
判断され 石打ちの刑(申命記22:23-24)に
処されることになっていました。
【申命記22:23-24】
「ある人と婚約中の処女の女がおり、
他の男が町で彼女を見かけて、
これといっしょに寝た場合は、
あなたがたは、そのふたりを町の
門のところに連れ出し、石で彼らを
打たなければならない。
彼らは死ななければならない。
これはその女が町の中におりながら
叫ばなかったからであり、その男は
隣人の妻をはずかしめたからである。
あなたがたのうちから
悪を除き去りなさい」
婚約中に他の誰かの子を孕んだら、立派
な「姦通罪」(姦淫の罪)が適用されて
必ず石で打ち殺されたのです。
当然、
マリアはヨセフに対して妊娠は聖霊に
よるもので、自分は不道徳な行為に及んで
いないことを訴え なんとか分かってもらおう
と必死に説明を繰り返しますが、ヨセフは
その話を理解することも信じることも、到底
できなかったはずなのです
この辺りのことを『マタイの福音書』
から見てみましょう。
わかりやすい口語訳でのアレンジです。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうで
あった。 母のマリアとヨセフは婚約して
いたが、まだ一緒にならない前に 聖霊
によって身重になった」
(マタイの福音書1:18)
「ヨセフは正しい人だったので、彼女の
ことが公になることを好まず、ひそかに
離縁しようと決心した」
(マタイの福音書1:19)
『ガブリエルとナザレのヨセフ』フランシスコ・デ・ゴヤ画
「彼がこのことを思いめぐらしていた時、
御使いが夢に現れて言った『ダビデの
子ヨセフよ、心配しないでマリアを妻と
して迎えるがよい。 その胎内に宿って
いるものは聖霊によるのである」
(マタイの福音書1:20)
「彼女は男子を産むであろう。その名
をイエスと名づけなさい。彼はおのれ
の民を、そのもろもろの罪から救う者
となるからである」
(マタイの福音書1:21)
「すべてこれらのことが起こったのは、
主が預言者によって言われたことの
成就するためである。すなわち」
(マタイの福音書1:22)
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を
産むであろう。 その名はインマヌエル
と呼ばれるであろう』これは『神は我ら
と共にいます』という意味である」
(マタイの福音書1:23)
「ヨセフは眠りから覚めた後に、主の
使いが命じたとおりに、マリアを妻に
迎えた。しかし、子が生まれるまでは、
彼女を知ることはなかった。 そして、
その子をイエスと名づけた」
(マタイの福音書1:24)
『聖ヨセフと幼子イエズス』グイド・レーニ(1635年)
おいおい
(ホンマかいな)
ヨセフがどんなに善良なる義の人で
あったとしても、こんなにも事がすんなり
と運べたとは思われません。
たとえ、すぐに妻として迎えたとしても、
日を待たずして、腹が目立つようになり、
七か月後には赤子が生まれます。
今なら「できちゃった婚」で済ませる
ことができますが、輿入れ前の3か月間、
マリアはエリザベツの暮らすユダの
町にいて ヨハネの近くにはいなかった
わけですから、人々からの好奇の目に
晒され、不義密通の嫌疑で裁かれる
ことは必至なわけです。
誰の目からもマリアの子がヨセフの
胤(たね、血筋)でないことはあきらかで
、現在ならいざ知らず、敬虔な旧約の民
なら、なおさらに 許されざる罪深き行為
があったと断罪されてしまうわけです。
『福音書』には、
イエスを指して、「この人は大工では
ないか、マリアの息子・・・」
(マルコの福音書6:3)
また「この人は大工の息子ではないか
、母親はマリアといい・・・」
(マタイの福音書13:55)
とありますが、このような言い回し方法
も、ダ・ヴィンチには解せないわけで、
通常、男系(父親)の血統が優先される
イスラエル(ユダヤ)の地で、ヨセフの子
と呼ばれないイエスとは何でしょう
かと思えば、『ルカの福音書』では、
「イエスが宣教をはじめられたのは、年、
およそ30歳のときであって、人々の考え
によれば、ヨセフの子であった」
(ルカの福音書3:23)とありますが、
ここでは、
人々はそう思っていたけれど、実際は
そうではないのだ、というニュアンス
が込められていますよね。
そしてその続きからは、わざとらしく・・・
「ヨセフはエリ(ヘリ)の子」 (3:23)
「それから、さかのぼって、マタテ、レビ
、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、」 (3:24)
― 中略 ―
「メレヤ、メナ、マタタ、ダナン、ダビデ、
エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナア
ソン、」 (3:31-32)
― 中略 ―
「ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、
ナホル、」 (3:34)
― 中略 ―
「カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、
ラメク、」 (3:36)
と、次ぎ次ぎに、延々と、辿っていって、
『アダムの創造』 ミケランジェロ
「エノス、セツ、アダム、そして神に
いたる」 (3:38)まで、系図をどんどん
と遡っていくわけです。
そして、
「人々の考えによれば、ヨセフの子で
あった」と その血統がダビデの系譜に
属することを示しつつ、しかし、その実は、
聖霊の働きによるもので、
単に ヨセフとは血のつながりはない
という意味だけではなく、すべての人間
の子であり、ひいては「神の子」で
あることを強調する言い回しなのです。
そこにダ・ヴィンチは意図的で計画的
な厭(いや)らしさを感じるわけです。
そして、脚本家としての視点からは、
そこに厳然たる事実としての父、祭司
ザカリヤの影を見てしまうのです。
ザカリヤと大天使ガブリエル 出典:ameblo.jp
『マタイの福音書』及び聖伝では、
ヨセフはダビデ家42代の末裔で、父は
ヤコブという人物とありますが、前述した
『ルカの福音書』に見られる家系図
では、ヨセフの父はエリ(ヘリ)という名
になっています
こうした齟齬だけでなく、ダ・ヴィンチが
『福音書』の内容に疑問を持つのは、
周知に近い状況におかれたマリアの
不義密通の嫌疑を晴らすのは並大抵の
ことではなかったはずにもかかわらず、
そうした子細には一切触れることなく
神の御言葉に対する全面的な信頼
という清く尊い信仰に委ねてしまって
いることにありました。
たとえば、
小生が、当時のナザレに暮らしていて、
旧知の仲であったヨセフから事の顛末
を聞き及んでいたとしても、受胎の時期
にマリアが地元のナザレに居なかった
ことは致命的で、その点に疑いをむける
人たちの口に戸は立てられないし、噂が
噂を呼び、憶測が駆け巡っているなかで
、石打ちの刑(姦淫の罪)から逃れる
弁護は至難であって 無罪や免責を勝ち
取ることは不可能だったと思われます。
ところが、マリアには何の咎(とが)も
ないばかりか、大工であるヨセフの妻
として問題なく認知されているわけです。
聖書外典、『ヤコブ原福音書』に
よれば、二人は 司祭の前で定められた
通りに証言したが、「姦通罪」として
裁かれずに済んだといいます。
要するに、
マリアのお腹の子は 夫ヨセフの子
ではないと正式に認めたうえで、二人を
夫婦としたのです。
この不可解さは、いったい何だ
そう思った
ダ・ヴィンチは大胆な仮説を前提に
推理を始めます。
『福音書』が語る通りに彼らが証言
したとして、司祭がそれを受け入れると
は到底のことに思われません
それでは、
旧約の律法の定めるところにおいて、
「姦通罪」とならずに済む、お腹の子
の父親とはいったい誰なのか
どういう条件が揃えば、無罪放免と
なり得るのか
そして、
ひとつの可能性を見つけ出します。
辿り着いた方策は「初子の奉献」
(聖別)と祭司たちへの戒律です。
『旧約聖書』に、初子は神に奉仕
する子で、さらにモーセは大祭司に
対して厳しい規律を求めていました。
(レビ記21:10-15)
『出エジプト記』の記述では、
「主はモーセに言われた」 (13:1)
「イスラエルの人々のうちで、すべての
初子、すなわち、すべて初めに胎を
開いたものを、人であれ、獣であれ、
みな、わたしのために聖別しなければ
ならない。それはわたしのものである」
(出エジプト記13:2)
さて、
マリアの父親ヨアキムはユダ族の
出身でダビデ王の子孫ですが、母親
のアンナはレビ族の大祭司アロンと
同じ系統の祭司マタンの娘でした。
祭司マタンには、三人の娘がいて、
そのなかのひとりであるゾイアの娘が
エリザベトで彼女は祭司ザカリヤ
の妻で洗礼者ヨハネの母です。
ですから、
マリアとエリザベトは、従姉妹
(いとこ)同士の関係にあったわけです。
御使いから彼女自身の受胎告知と
エリザベトの懐妊を知ったマリアは
、彼女の住むユダの町に向かいます。
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
それから、
「マリアは、エリザベツのところに
三か月ほど滞在してから家に帰った」
(ルカの福音書1:56)
要するに、
それなりの期間にわたって、長逗留
(ながとうりゅう)していたという事柄に
無罪放免の鍵が隠れていると見た
ダ・ヴィンチの出した結論が、前述の、
出典:plaza.rakuten.co.jp
父、祭司ザカリヤの影なのです。
ですが、その解説をするだけの余裕
が紙幅に残されていませんので、
詳細は、次回以降とさせてください。
その代わりと言ってはなんですが、
マリアの母アンナを巡る伝承には、
夫ヨアキムの他に、再婚した2人の
夫(クロパとソロモン)がいて、それぞれ
の夫の間に娘(マリアの異父妹)がおり、
その妹たちの名前もマリアであったとか、
つまり、
マリア、マリア、マリア
3回も結婚していることになるのですが、
母アンナも相当に怪しい感じです
もちろん、
あくまでも言い伝えに過ぎませんが・・・
まあまあ、
確かに、アンナも怪しいけど、
5年後に変わるとされる紙幣にも
「なにやらキナ臭いニオイが・・・」
「令和ピボット」じゃろうな
ピボット(pivot)って、回転の「軸」
や「転換する」という意味よね。
平成から令和へと元号が変わる
この機を捉えて、
「いろいろ仕掛けようと企んどるんじゃ」
ひょっとして、
旧約から新約の時代へと大転換を
起こしたような ・・・
「Ray War(令和)かもね !!」
イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp
・・・ って、おいおい、
「言葉で遊ぶな !!」
… to be continue !!
でも、これは、れっきとした ・・・
「姦通罪」(姦淫罪)だよね。
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
出典:ameblo.jp
「えっ !!」
(んなわけないがな)
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
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