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同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
イエスが登場する以前、ユダヤの地に
ひとりの「預言者」が出現します。
彼は葦で出来た細長い十字の杖を持ち、
ラクダの毛衣を身にまとい、革の帯で腰を
締め、イナゴと野蜜を食べていました。
ヨルダン川の河畔の荒れ野で 神の国が
近づいていることを人々に伝え、悔い改め
回心し、神に心を向けるように求めて ・・・
『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ
叫び続けていたのです。
そして、
その回心の証しとしての「洗礼」を
施していた者こそが 洗礼者ヨハネ
、その人だったのです。
彼のこうした活動は、
「罪の赦しに至る回心の洗礼」
と呼ばれ、ユダヤの民衆から絶大なる
人気と支持を得ていました。
そうした活動の最中、評判を聞き及んだ
ナザレのイエスが、洗礼者ヨハネの
もとに赴いて彼から「洗礼」を授かった
と福音書に記されているわけですが、
預言者イザヤ wikipedia
これは、預言者イザヤによって、
火で唇を神聖にする預言者イザヤ
(ベンジャミン・ウエスト画)
こう言われるその人であるとしたうえで、
その姿はかつてイスラエルの地に現れた
大いなる預言者エリヤを彷彿させる
ものとして、
『エリヤ』 ホセ・デ・リベーラ画
「見よ、わたしは使いをあなたの前に
遣わし、あなたの道を備えさせよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ』」
この使い人、その使者こそが誰あろう、
大いなる預言者エリヤの再来たる
洗礼者ヨハネであるとしたわけです。
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
さて、
万能多才で知られ、舞台演出も手掛けて
いたレオナルド・ダ・ヴィンチに、
脚本家としての才能も備わっていたこと
は想像するに難くありませんが、その彼が
四福音書を始めとする『新約聖書』
の記述に疑問を禁じ得なかったのは、
まさに、
そのことと無関係ではないようです。
虚構ではあっても小説とは違い、そこに
一定のルールが見い出せたからですが、
場所と時間を指定する『柱』が書かれ、
『ト書き』めいた人物の動作や行動
を示しつつ、心情を推し量らせるセリフ
が思いの外に用意されているのは、
万民が対象の小説や物語とは違う特定
の限られた読み手をターゲットにしたもの
であると感じさせるに十分なる代物だった
からですが ・・・
特に、
ダ・ヴィンチが引っ掛かりを覚えたのは、
イエスの公生涯が洗礼者ヨハネに
よる洗礼を受けに行く場面からスタート
している点にありました。
洗礼はもともと、その名が示すように
洗礼者ヨハネがヨルダン川で行って
いた「浄化儀式」でしたが、
『キリストの洗礼』ヴェロッキオ工房作
キリスト教会では イエスが復活後に
「あなたがたは行って、すべての民を
わたしの弟子にしなさい。 彼らに父と
子と精霊の御名によって、バプテスマ
(洗礼)を授けなさい」
(マタイの福音書28:19)
という使命を与えたことと、イエス
の公な活動が洗礼者ヨハネによる
洗礼から始まっていることを根拠に、
イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp
今日まで「洗礼」によって、原罪
やそれまでに犯したすべての罪状が
赦(ゆる)されるとしているわけです。
ここにまず、疑問の第一があります。
まったく罪のない人間であるイエス
には洗礼を受ける必要はなく、直接
洗礼者ヨハネを訪ねる理由も意味
もないわけです
これに関しては、伝統的に次のような
答えが用意されています。
人間にとって洗礼がいかに大切か
を諭すためにイエスが範を示した。
人類の罪を贖(あがな)う神の計画
の最初のプロセスとして洗礼を受けた。
などですが、
当然のことに、ダ・ヴィンチには得心の
いくものではありませんでした。
つまり、その先にある天国と永遠の命
が理解できなかったからです。
「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように
出来ているのだ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
次なる疑問は、
洗礼者ヨハネとイエスの出生に
纏(まつ)わる聖別の「謎」でした。
どちらも精霊に満たされて、聖別を
された受胎であるとの説明でしたが、
『立って性交する男女の図』
ダ・ヴィンチには男女の性交渉による
妊娠の他に納得できる答えを見つける
ことができなかったのです
それでは、
洗礼者ヨハネとイエスにおける
受胎告知の場面を『ルカの福音書』
から見てみましょう。
わかりやすい口語訳で紹介します。
「ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤ組
の者で名をザカリヤという祭司がいた。
彼の妻は、アロン家の娘のひとりで、
その名をエリザベツといった」
(ルカの福音書1:5)
「ところが、エリザベツは不妊の女で
あった為、彼らには子がなく、そして
ふたりともすでに年老いていた」
(ルカの福音書1:7)
そんなザカリヤもとに 主の御使いが
現れて、彼に言った。
ザカリヤと天使ガブリエル 出典:ameblo.jp
「恐れるなザカリヤよ、あなたの祈り
が聞き入れられたのだ。あなたの妻
エリザベツは男の子を産むであろう。
その子をヨハネと名づけなさい」
(ルカの福音書1:13)
御使いであるガブリエルはヨハネが
母の胎内にいる時からすでに 聖霊に
満たされており、主の御前に大いなる
者となって、イスラエルの多くの子らを
主なる彼らの神に立ち帰らせるだろう。
(ルカの福音書1:15-16 要約)
と告げます。
「そののち、妻エリザベツは身ごもり、
五か月のあいだ引きこもっていたが」
(ルカの福音書1:24)
「六か月目に、御使いガブリエルが、
神から つかわされて、ナザレという
ガリラヤの町の一処女のもとにきた」
(ルカの福音書1:26)
出典:blogs.yahoo.co.jp
「この処女はダビデ家の出身である
ヨセフという人のいいなずけになって
いて、その名をマリアといった」
(ルカの福音書1:27)
『受胎告知』マリアの顔のアップ
すると、御使いガブリエルが言った。
「恐れるな、娘マリアよ、あなたは神
から恵みをいただいているのです。
『受胎告知』マリアの右手のアップ
見よ、あなたは身ごもって男の子を
産むでしょう。
その子をイエスと名づけなさい。
彼は大いなる者となり、いと高き者
の子と、となえられるでしょう。そして
、主なる神は彼に父ダビデの王座を
お与えになり、彼はとこしえにヤコブ
の家を支配し、その支配は、限りなく
続くことでしょう」
(ルカの福音書1:30-33 )
そこでマリアは御使いに言った。
『受胎告知』マリアの顔のアップ
「どうしてそんな事があり得ましょうか
わたしにはまだ夫がありませんのに」
(ルカの福音書1:34)
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
御使いが答えて言った。
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の
力があなたをおおうでしょう。 それ故
に、生まれ出る子は 聖なる者であり、
神の子と、となえられるでしょう」
(ルカの福音書1:35)
「あなたの親類のエリザベツも、老年
になって男の子を宿しています。
不妊の女と言われていた人なのに、
今はもう六か月です」
(ルカの福音書1:36)
「神には、なにごとも、できないことは
ないのです」
(ルカの福音書1:37)
といった内容で、到底、ダ・ヴィンチの
腑に落ちるものではありませんが
この後の記述から、
受胎の真実に近づけるかもしれない
仮説としての推理が始まったのです。
糸口となったのはエリザベツの妊娠
を知ったマリアが彼女の暮らすユダの
町に行きザカリヤの家に滞在していた
という記述です。
「エリザベツがマリアのあいさつを
聞いた時、その子が胎内でおどった」
とか、エリザベツが聖霊に満たされ
て、声高く叫んで言った祝福と光栄と
主なる神を讃える言葉などではなく、
「マリアは、エリザベツのところに
三か月ほど滞在してから家に帰った」
(ルカの福音書1:56)
すなわち、
そこそこの期間にわたって、長逗留
(ながとうりゅう)していたという事柄に
事実の一端が隠されているのです。
少し前に戻って、洗礼者ヨハネ
の受胎を告知する御使いガブリエル
に対するザカリヤを見てみましょう。
ザカリヤと天使ガブリエル 出典:ameblo.jp
するとザカリヤは御使いに言った。
「どうしてそのような事が、わたしに
起こるのでしょうか。 わたしは老人
ですし、妻も歳を取っています」
(ルカの福音書1:18)
御使いが答えて言った。
ザカリヤと大天使ガブリエル
出典:www.igmtokyo.com
「わたしは神の御前に立つガブリエル
であって、喜ばしい知らせをあなたに
語り伝える為に遣わされた者である。
時が来れば成就するわたしの言葉を
信じなかったから、あなたは啞(おし)
になり、このことの起こるその日まで、
ものが言えなくなるであろう」
(ルカの福音書1:19-20)
こうしてザカリヤは、口がきけない者
にされてしまうわけですが、
なにやら臭いませんか
口外禁止の口封じや箝口令のような
キナ臭く胡散臭い何かのニオイを ・・・
(ゲロゲロ ・・・)
「さてエリザベツは月が満ちて、男の子
を産んだ」
(ルカの福音書1:57)
「八日目になったので、幼な子に割礼
をするために人々が来て、父にちなむ
ザカリヤという名前にしようとした」
(ルカの福音書1:59)
「ところが、母親は『ヨハネという名に
しなくてはいけません』と言った」
(ルカの福音書1:60)
「人びとは、『あなたの親族の中には、
そういう名前のついた者は、ひとりも
いません』と彼女に言った。
(ルカの福音書1:61)
「そして父親に、どんな名前にしたい
のかと合図で尋ねた」
(ルカの福音書1:62)
出典:ameblo.jp
「ザカリヤは、書板を持って来させて、
『その名はヨハネ』と書き込んだので、
みんなの者は不思議に思った」
(ルカの福音書1:63)
「すると、立ちどころにザカリヤの口
が開けて、舌がゆるみ、語り出して、
神をほめたたえた」
(ルカの福音書1:64)
という件(くだり)になっています。
そして、
ここから先の部分が、「神」による
救いと預言された先駆者ヨハネ
の誕生を賛美するザカリヤの賛歌
「ベネディクトゥス」になります。
「ベネディクトゥス」 Wikipedia
「ほめたたえよ、イスラエル
の神である主を」 byザカリヤ
(ルカの福音書1:68)
これでは、
見え見えで、ただ明け透けなだけの
透明人間たちも真っ青になるような
出来過ぎのシナリオ(脚本)である
と言われても仕方ありませんよね
そこで、
ダ・ヴィンチが到達した結論では、
ザカリヤの家で寝食を共にしていた
三か月間にマリアの身の上に何かが
起こり、それ故に その事実を黙殺
すべく、秘密の保持の為に口外厳禁
の箝口命令が下されたという裏事情
を『ルカの福音書』では、ザカリヤ
が啞(おし)になることで暗示している
と推理したわけです
そこには、『マタイの福音書』の
冒頭にあるアブラハムからイエス
に至るまでの男系の系図の中に登場
するイエスの母マリア以外の4人の
女性たち、タマル、ラハブ、ルツ、
そしてウリヤの妻バテシバが伏線に
なっているわけで、
『ダビデとバテシバ』
彼女たちが一般的な婚姻による子の
宿し方とは違う、アブノーマルでいわく
つきのかたちで身ごもった事実と経緯
がイエスの場合にも当てはまることを
仄(ほの)めかしているのです
ところで、
ダ・ヴィンチが描いた『聖母子』の
絵と『最後の晩餐』での窓の数
は、1つから4つですが、
窓- 窓-
『最後の晩餐』部分 窓-
『カーネーションの聖母」部分 窓-
これらの絵と、
『マタイの福音書』の冒頭部分に
記された4人の女性たちの生きざまとが
微妙に交錯すると考えられるのです。
そして、それは、
洗礼者ヨハネとイエスの出生の
「秘密」とも結びつくものなのですが、
それはまた別の機会にお話します。
言葉足らずの尻切れトンボですが、
紙面の都合上、この続きについては
次回以降での話とさせてください。
はてさて、それにしても、
洗礼者ヨハネと救世主イエス
「彼らの父親のことじゃが」
それはタブーよ ・・・
「箝口結舌(かんこうけつぜつ)」
分かっとるって、
「わしゃ、何も喋らんぞ」
「えっ !!」
・・・ って、おいおい、
出典:deskgram.net
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
ドラゴン・レーダー(プロトタイプ)
(何が言いたいんやろか)
… to be continue !!