21世紀の大茶番劇を目撃してしまいました
しかし、ひょっとすると、
22世紀以降には茶番ではなく、立派な史実として歴史
の授業で習うことになっているのかも …
なんてことはないとは思いますが、
勝者が歴史を好き勝手に書き直し、政権を握った者たち
が正当性を誇示すかのように賑々(にぎにぎ)しくも豪華な
式典と華麗な軍事パレードを執り行なう。
2015年9月3日 北京の空の下で大々的に繰り広げられた
「抗日戦争勝利70周年記念行事」は
その最たるものでした
中共(中国共産党)に抗日の事実はなく、真の抗日の
英雄たる国民党軍は中共との争いに敗れ台湾に逃れた
わけで、日本と戦った彼ら国民党軍の戦果は他者に丸々
と盗み取られた格好なのです。
それにしても、いまが絶頂期にあるこの共和国の
栄耀栄華はいつまで続くのでしょうか
そんななかで、我が国、日本では「擦った揉んだ」の末の
強行採決で安全保障関連法が成立しました。
成立後のいまも、反対デモは続き、「数の上での横暴だ」
「国民は法律の中身を分かっていない」との意見が野党の
なかで燻ぶっています。
「戦争反対」「9条守れ」「憲法違反」など
、デモ隊のシュプレヒコールのなかで、妙に気になったのが
「戦争のできる国」というものです。
日本は「戦争をしない国」(あくまでもこちらから
は攻撃しない国)ですが、自衛のための「戦争はできる国」
であることは明々白々です。
先般の国会における憲法審査会では政府側の参考人が
「集団的自衛権を行使するのは憲法違反だ」と延べ、歴代
の内閣法制局長官は「集団的自衛権は有しているが、その
行使は許されない」というなんとも奇妙な判断を代々に亘り
踏襲するだけで、まるで強力な結界で守られた前例主義の
枠内から一歩も外に足を踏み出せないでいたわけです。
憲法9条の下において許容される自衛権の行使は、
我が国を防衛するための必要最小限度の範囲にとどめる
べきものであることは自明の大前提ですが、「個別的」
なら許されて、「集団的」では許されないということでは
なく、「我が国を守るために必要となる自衛権を過不足
なく行使できる」状態を常にキープしておくことが重要であり
、最も大事なことなのです。
「戦争法案」という悪質なレッテルを貼り付けて、
およそあり得ない徴兵制という空疎な脅しで国民
の恐怖心を煽るやり方は、時代錯誤も甚だしい
1世紀に書かれた『ヨハネの黙示録』のようです。
さて、
護憲という結界も張り方によっては邪魔なだけの
障害物でしかないわけですが、
『黙示録』に登場する「四騎士」は、天における
結界(バリア or シールド)としての四つの生き物
によって、「さあ、来なさい」 と招き入れられる格好
で出て来ます。
その順番は、陰陽五行説の相剋とは逆の流れとなる
色の馬に乗って登場して来ることからも、
そこには五元論に通じる秘密の奥儀が隠されて
いると感じとったダ・ヴィンチが、
『モナ・リザ』の背景に『黙示録』の世界を再現
することで、モデルのサムシング・グレートによる
封じ込めを図ったとするトンデモ系の解釈も成り立つと
前回の『ダ・ヴィンチの罠 勝ち組』のページ
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/435.html
に書きましたが、仮に、そうであったとした場合でも、何故に
封じ込めをする必要があったのでしょうか
それでは、まるで聖書を冒涜するようで、ダ・ヴィンチ
がサタンの一味のようにも思えてしまいますが
いいえ、そうではありません。
ダ・ヴィンチが使徒ヨハネを訝(いぶか)ったというよりも、
『黙示録』の内容のなかに受け入れられない何かが
あったのではないかと思われるのです。
そもそも、
智天使(ケルビム)を思わせる四つの生き物にして
も、預言者エゼキエルが見たという人間、獅子、雄牛、鷲の
四つの顔と四つの翼を持つ生き物の焼き直しのようですし、
そのエゼキエル書(旧約聖書)に登場する生き物にしても、
アッシリアのサルゴン王朝の守護神(守護聖獣)Lamassu
(ラマッスまたはラマーシュ)からインスパイアされたもので
ある公算が極めて高いことをダ・ヴィンチは知識として得て
いたのでしょう。
ラマッス(Lamassu)は、顔は人間で身体はライオンまたは
雄牛にして鷲の両翼をもつ守護聖獣で、宮殿などの建物や
都市の入口や門に置かれる門番や守り神です。
日本で言えば、神社にある狛犬みたいなもので、ベルリン
にあるペルガモン博物館やパリのルーブル美術館にも展示
されています。
ペルガモン博物館のLamassu
知性を象徴する人間の頭部に、鳥の王者たる鷲の翼、
豊穣の富と抗し難い力を代表する雄牛の身体と支配者
たるライオンを組み合わせることで超絶的な力(破壊的
な威力と魔力)を表象する一対の守護神(守護聖獣)
で、女神は「Lamassu」、男神だと「Shedu」と呼ばれて
いたようです。
ルーブル美術館のLamassu
日本の神社にみられる狛犬も阿吽のかたちで雌雄一対
が基本のようですが、関連があるのでしょうか
狛犬の直接的なルーツは古代朝鮮(獅子の洋式は中国
起源の唐獅子)ですが、中国の道教の寺院には二匹一対
の獅子が鎮座していますし、インドでもヒンドゥー教の寺院
に狛犬らしき一対の獅子像が置かれています。
さらに西に向かえばペルシャにも狛犬に相当するものが
あり、古代イスラエルのソロモン神殿にはライオンと雄牛と
ケルブと記されていますが(列王第一 7:29)、ここにも狛犬
と思(おぼ)しきものの存在があるわけで、最終的には古代
エジプトのスフィンクスに辿り着くのだと思われます。
いずれにしても、メソポタミアや古代オリエントでは神域を
守るためにライオンの像を置いていたわけですね
ところで、日本の狛犬の「阿吽」ですが …
「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて
出す最後の音であることから、「初まりと終わり」を
表わしているわけですが、『ヨハネの黙示録』では、
「わたしはアルファでありオメガであり、
初めであり終わりである」
という趣旨の言葉が、1章8節、21章6節、22章13節と何度
も繰り返すように、「神」により発せられています。
この「阿であり、吽である」とする「神」
の言葉が、ダ・ヴィンチには気にいらなかったのではないか
と勝手に想像しているわけですが、
要は、
ヨハネの魂胆を『モナ・リザ』に封じ込めたというより
も、より正確には「すべてがひとつ」になるように
中和しようとしたとする方がダ・ヴィンチの描くニュアンス
には近いのかもしれません
彼はサタンも神も元々はひとつであり、その実体は
表と裏の関係に過ぎないと考えていたのですから …
ちなみに、
「Lamassu」の肢は5本ありますが気づきましたか
一説では歩いているように見せかけるためとも言われて
いますが、五元論 ともなんらかのかたちでつながりが
あるのかもしれませんね
さて、
ヨハネの目論見を中和させるために『モナ・リザ』に
施したとされる具体的な手法ですが、
紙面の都合上、それはまた次回ということで ・・・
「浅学非才の輩が発想と直観だけで」
「トンデモない仮説を立てやがって」
その昔、日本の独立に際して、吉田首相は全面講和を
主張する東大の南原繁総長を「曲学阿世の徒」と
評したことがありましたが、今回の安保関連法でも大多数
の憲法学者が「集団的自衛権の行使は憲法違反である」
としています。
主として古典を解釈するために文字の意味をあれこれ
研究する学問を「訓詁学(くんこがく)」といいますが、
文字づらばかりを睨んでいると「木を見ても森は見えず」
に「機を見るにも鈍」なだけの融通のきかない頭でっかち
になってしまうようですね
はてさて、
何が日本の「守護神」や「狛犬」となり得るのか
きっとダ・ヴィンチの答えは明快だと思いますよ
… to be continue !!
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