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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 武士道

 小生がつらつら思うに、

 ダ・ヴィンチはプラトンに傾倒し、その思想の影響下
にあったと考えられますので、グローバリスト的な思考
に通じる「唯名論」ではなく、ナショナリストの空気感
に溢れる「実在論」の立場で「罠」を構築していった 
ものと推察しています。

 その核となる部分には、非合理的な事象や神秘的なる
ものが隠されていて、その中心課題に「神」なるもの
の存在があり、その実在を地球外に求めているようです。

 しかし、 

 人々が頼るべき神々の多くは、ただ世俗の信仰として、
大衆の中に眠っているだけであって、その正体に触れる 
ことはタブーであり、禁忌とされていました。

 そこで、彼は、

 人々の上に絶対的なる統一の原理をつくり出すならば、
神々に対する絶対なる信仰が不可欠であり、そのための
神話づくりがユダヤ人にとっての『旧約聖書』(タナハ)
であって、それをちゃっかりと利用したのが『新約聖書』
(キリスト教)であるとの仮説を立てます。

 つまり、

 グローバル(包括的)で、マクロな視点からの神々の 
存在が、エスニカル(民族的)で、ミクロな視点からの 
唯一神(ユダヤ人にとって絶対的存在)となり、それが 
キリスト教にアレンジされて、世界的な宗教にまで発展
する、あるいは、発展したというのが、ダ・ヴィンチと
小生の見立てる宗教史なのです。

 しかし、

 時代が進み、科学の発展とともに徐々に神話は廃れて、
「唯名論」的な解釈が一般化してきます。

 たとえば、グローバリストは、すべからく無神論者で
あって、現代人(日本人)の多くは押しなべて排仏論者
ように振舞っています。


            武士道(大和魂) iki-toki.jp

 以前に取り上げた吉田松陰の歌(うた)ですが、現代 
の日本人には、「武士道」はおろか、そんな自前の
「大和魂」までもが希薄なようです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ
大和魂」という吉田松陰の歌を思い出して欲しいのです。

 松陰の思想を軸に人々の上に絶対的なる統一の原理を
探り出そうとすれば、日本神話の神々や世界中の神々に 
対する絶対的なる信仰が必要になります。

吉田松陰】やむにやまれぬ大和魂 | サムライスタイル
           大和魂 samuraistyle.jp

 もちろん、

 松陰の国体に関する思想はこのようにして喧伝されて
いくのですが、そうした松陰の中に、ある種の宗教性が
見えるのです。

 それが、ある方向に強調されることで、熱狂的な国家
主義が形成されていったものと考えられるのですが、

 しかしながら、

 同時に、別の方向に行くこともできたのではないか?
おそらくはそういう感覚を、ルネサンスの時代において
ダ・ヴィンチは持っていたのだろうと思われます。

 つまり、それは、

 キリスト教に対する後世のプロテスタントとは違った
かたちの宗教革命(改革)であって、それが「罠」
モチベーションにとって非常に重要で大事なポイントと
言えるのではないでしょうか。


          レオナルド・ダ・ヴィンチ 画像元:casie.jp

 果たして、ダ・ヴィンチに「イタリア魂」があったか
どうかはわかりません。 

 そこには、

 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 
         (本居宣長)

 に似た「大和心」に匹敵するような「イタリア心」
の発露があったのかもしれません。

 もう一度、言います。

 
           吉田松陰の歌 www.sakura-sha.jp

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ
大和魂」という松陰の和歌を再度思い出してください。

 同時に、それは、

 イタリア社会に脈々として受け継がれていったと考え
られる「イタリア魂」、言い換えれば、イタリア人の心
の奥にある精神に由来するものなのかもしれません。

 それを、日本人的に言えば、

写真の説明はありません。
           本居宣長の和歌 www.facebook.com

 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 
          (本居宣長)

 に相当するものだったのでしょうか?

 さて、吉田松陰に話を戻せば、

 時節の政務を論じたり、教育家であったり、歴史家で
あったりと多方面に通じた顔をみせることは松陰の像を
そのまま表していると思われますが、松陰が何故にそこ
まで熱狂的な仕方で幕末という時代の苛烈な状況に介入
していったのかという疑問に対する答えとしてはそこに
何らかの宗教的な基盤がないと到底出来なかった事柄で
あったと思われるわけです。

     吉田松陰】学問をする眼目は、自己を磨き、自己を確立することに ... 
    画像元:www.greatman-words.com

 それを、ここでは、キリスト教の「神」に匹敵する
何かだと仮定していますが、なにがしかの宗教性が松陰
のなかにあったのだろうことは間違いないようです。

 ところが、

 日本では江戸の末期は当然にしても明治でもそうした
宗教性を抑圧していました。

 松陰はあからさまに、その部分に抵触していたのでは
ないでしょうか。

 それが悪い方向に行くと国家主義に陥ってしまいます
が、そうならないやり方もあったのではないのかという
思いが小生にはあります。

 このことは多分に重要であって、むりやり付会すれば、
それが『ダ・ヴィンチの罠』だと思えてしまうのです。

 畢竟、

聖ペテロの磔刑~ローマ、 サンタマリア・デル・ポーポロ聖堂_f0106597_2262561.jpg
  聖ペテロの磔刑(1600-1601年)カラヴァッジョ作 lacasamia2.exblog.jp

 その対極に位置する伝承的行為や結果が、聖ペテロの
身の上に起こった「逆さ十字の刑」というイエスの磔刑
を模したお追従的な殉教劇なのでしょうか!?


        逆十字の刑を受ける使徒ペテロ blog.goo.ne.jp

 こう言ってしまうと、元も子もなくしてしまいそうに
なりますので、この辺でやめておきますが、

 要するに、

 キリスト教的な追従の対極に位置する「武士道」とは
日本人の精神(心根)にある文化や歴史、道徳や思想を
反映させる「大和魂」に換言できるでしょう。

 そうした概念や定義を一冊に纏め上げた「武士道」と
いう本を手掛けて、世界に紹介したのが、旧五千円札で
お馴染みの新渡戸稲造(にとべ いなぞう)でした。

武士道の著者「新渡戸稲造」とは

 新渡戸稲造は、思想家、教育者、農学者、国際人など、
さまざまな側面を持った才能豊かな人物です。

 「武士道」とは、仏教・神道・儒教の思想を考え方の
礎として、仏教からは穏やかに運命を受け入れ、従う心
を学び、神道からは忠誠心や愛国心の影響を受けました。

 そして、

 「武士道」に一番大きな影響を与えたのは儒教です。

 儒教とは、古代中国の孔子による教えです。

 「武士道」に関する詳細な解説は『ダ・ヴィンチの罠』
とは直接的には関連しませんので、割愛しますが、

 現代の日本人の生活の中にも「武士道」は生きている
と思います。

 たとえば「忠義」という考え方がありますが、自分を
助けてくれた恩人に、忠義を尽くす・・・ こういう人 
は現在の日本にも大勢いるのではないでしょうか!?

 また「誠」という精神を体現する人々も決して少なく
ありません。

 言ったことは守る、嘘はつかない、行動にごまかしが
ない、こうした方々も今の日本に多数存在しますよね。

 そして、それ以上にそのような人々を好ましく感じる
日本人は、たくさんいるのではないでしょうか。

 つまり、「武士道」とは、現代の日本にも生きている
崇高なる精神といえるのです。

 「武士道」とは、

 言わば、武士階級におけるノブレス・オブリージュで
あったわけですが、明治期以降の武家制度の廃止に伴い
一般の庶民レベルにまで共有されるようになります。

 
        ノブレス・オブリージュ www.tokyofarm.co.jp

 ノブレス・オブリージュとは、貴族などの高い身分に
ある人々が負う義務のことです。

 上に立つものが粗暴であっては、一般の庶民の生活は
日々脅かされる毎日になってしまいます。

 そこで、

 庶民よりも高い身分にある武士は、暴力的な支配では
なく、武士道という崇高な道徳によって人の上に立って
いるわけで、こうした「武士道精神」が武家の間で重ん
じられるようになったわけです。

 つまり、

 「武士道」における〝7つの徳目〟を理解することは
の上に立つうえで大いに役立つものでした。

 ちなみに、〝7つの徳目〟とは、

  「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」

 ですが、

 ★ 別の説では、9つの徳目が示されています。

 「義」「勇」「仁」「礼」「信」「忠」「智」 の
7つの徳目に「名誉」と「克己」が加わります。

 「義」=卑怯な行動や不正な行動を憎む正義感。
 「勇」=勇敢なだけでなく正義のためにふるう勇気。
 「仁」=弱者や敗者に対する思いやりの心。
 「礼」=他者を思いやり、相応の敬意を払う。
 「信」=口に出したことは命懸けで守る心構え。
 「忠」=目上への服従と忠誠、しかし追従はしない。
 「智」=単なる知識ではない叡智を持つ。
 「名誉」=武士の身分に伴う義務と特権を重んじる。
 「克己」=むやみに心の思いや感情をあらわにしない。

 
            「武士道」studyhacker.net

 それでは〝7つの徳目〟に戻って話を進めましょう!

 7つの徳目の最も最初に来る「義」の実態とは何か?

 新渡戸は「間違っていることや悪いことを避け、自分
の良心に従って正しい行ないをするという精神が義に
あたると説いています。

 これを現代風に置き換えると、結局は人としての基本 
に帰着するのではないでしょうか。

 前述したような、「約束はきちんと守る」であるとか、
「嘘を言わない」ことや「相手を騙さない」ことなどの
あたりまえのことが普通にできている状態が、すべての
基盤になるのです。

 「勇」とは、「何が起きても動じない心」を指します。

 『論語』の言葉に「義を見てせざるは勇なきなり」と
あるように、義と勇は2つで1つなのです。

 2つがそろって初めて正しい行動ができるようになる
ということです。

 事件が起こるたびに心が上下して右往左往していたら、
不安だけが広がってしまいます。「勇」の精神を参考に、
動じない心を持ちましょう。

 「仁」とは、「思いやりの心」を指しています。

 しかし、ただ単に優しいというだけではいけません。

 時には厳しさをもって相手と接することのできる人に
こそ本当の「仁」が備わっていると言えるのです。

 少々極端な例かもしれませんが、

 いつでも、どのような場合においても「かわいそうだ」
とか「どうすればいいか一緒に考えてあげるよ」なんて
いう接し方をするのはNGで、時には突き放して成長を
導き、見届けるような度量がなければなりません。

 そのためには、

 都度ごとに、この場合には「どうすればいいと思うか」
と質問することが重要かもしれません。

 そうした質問を繰り返すことで、自分自身の頭で考え、
自発的に動けるように変えていけるからです。

 「礼」とは、「他者に対する敬意の表現」を指します。

 これだけ聞くと、マナー的なものをイメージする人も
多いことでしょう。

 もちろんそれも重要ですが、「礼」の本質は「泣いて
いる人とともに泣き、喜びがある人とともに喜ぶ」こと
にあります。

 言わば、それは共感であって、英語のシンパシーより
むしろエンパシーに近いものかもしれません。

 従って、

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              画像元:note.com

 コミュニケーションをとるときは、相手の感情に寄り
添うことを大切にしましょう。

 「誠」とは、「真実性と誠意」のことです。

 武士にとっての「誠」とは「一度仕官して家を出たら、
名をあげるまで家に帰らない」という決意の現れでした。

 現代風に言えば、「自分で決めたことは曲げない」
いう信念を持つことに該当するでしょうか!

 たとえば、

 自分自身で目標設定や数値を決めた場合、絶対にそれ
を諦めてはいけません。

 もちろん、それは実現可能な目標に限っての話です。

 次の「名誉」と「忠義」ですが、

 この2つは、現代の我々からすると理解に苦しむこと
になるかもしれません。

 しかしながら、

 一旦、理解すれば、自己の成長に大きく寄与するだけ
でなく、人間としての幅と奥行きを、さらに増大させる
ことにもつながるのです。

 「名誉」とは、「自分に恥じない生き方をする」こと
に尽きます。

 新渡戸は、名誉というものを考えるとき、その対極に
存在する「恥」という概念を先に考えました。

 我々も、仕事をしていると「失敗したらどうしよう」と
考えることがありますが、この時、私たちは、失敗して
恥をかくことを恐れているのです。

 逆を言えば、

 準備や計画を入念に行ない、目標達成に向かって真摯
に取り組んで成果を出し、〝恥をかかない〟ように算段 
をすることが、すなわち、「名誉を守る」ということに
つながるわけです。

 「忠義」とは、言わば「主君に忠誠を誓う」ことです。

 しかし注目すべきことは、「上の立場の人間に盲目的に
従うのは本当の忠義ではない」ということです。

 つまり、

 
            「武士道」 studyhacker.net

 上の人間が誤った道に進もうといている時、下の人間
は、命を懸けてでも進言して正しい道に進むよう努力を
しなければならないのです。

 自分の上にさらに上司がいて、言うならば板挟み状態
でチームをまとめていかなければならないというような
立場に立たされるケースもあるでしょう。

 そんな場合、上から無理難題なる要求を強いられたり、
「これは違うのではないか」と思われることを指示され
たりすることも決して少なくはないでしょう。

 そんな時は、盲目的にすべて従うのではなく、一度は
自分の中に落とし込み、それが本当に正しいことなのか
どうかを、よくよく考えてみることが必要です。 

    武士道の「忠義」とは?現代にも通じる武士の精神
       画像元:keiaigijyuku.jp

 上に意見することも立派な「忠義」の要素の一つです
から ・・・  

 はてさて、

 ここで、あえて、付け加えることがあるとするならば、

 「礼」では、他人の気持ちを思いやり、社会的地位に
対して相応の敬意を払う、ということになるでしょうか。

 いくら自分に能力があろうとも、調子に乗って天狗に
ならずに、身分をわきまえて、相手への敬意を忘れずに
接することが肝要であるということですが、

 それはビジネスライクに限らず基本的なスタンスだし、
自然とそのことが出来ている人の周りには多くの味方が
集まることでしょう。

 「忠義」とは、主君に対する心構えであって、現代に
おいては場違いな感覚が否めませんが、常に〝信頼〟を
重んじる姿勢は今も昔も未来においても変わらないもの
でしょう。

 しかしながら、一番大事なことは、決して追従しない 
ということなのです。

 目上の人に媚びることなく、自分の裁量で生きてゆく
姿勢が大事であって、社会や環境に依存するのではなく
、個人の力量で生き抜いていくパワーが必要であり未来
の日本において、最も重要とされる必須の徳目であると
言えるのかもしれません。

 武士道における徳目の数々は、果たしてあなたの目に
どう写ったのでしょうか?

 おそらく、胸に響くなり刺さるなりした徳目が1つや
2つはあったでしょう。

 自身が抱えている劣等感や問題点とも相通じるものが
あったはずです。

 これを機会にじっくりと自分の心と対話してみるのも
いいかもしれませんね。

 何かの気づきにつながれば、幸いに存じます!

 さてと、

 こうした「武士道精神」を戦前の日本人が学ぶ上での 
基本となっていたのが、明治天皇による「教育勅語」で
あったことは誰も否定のしようのない事実でしょう。

 教育勅語を書いてみましょう|明治神宮
    「教育勅語」www.meijijingu.or.jp

 いつの日にか、「教育勅語」については取り上げて
みたいと考えていますが、本編の『ダ・ヴィンチの罠』
が完結を見ないことには、これ以上ウイングを広げる
わけにはまいりません。

 ところで、

 世はもはや、キリスト教世界や一神教の世界に巣食う
邪神と邪心の毒牙におかされ、荒廃の一途にあります。

 『聖書』に曰く、

 「剣を執る者は剣で亡ぶ」 とありますが、


    「剣を執る者は剣で亡ぶ」 イメージ (c) Shutterstock.com  oggi.jp

 「武士道」における〝刀〟は武士の魂です!

  武士道に学ぶチームマネジメント03

 要は、〝刀〟の扱い方ひとつで世の中は変わるという
ことなのかもしれませんが ・・・

武士道に学ぶチームマネジメント03
             画像元:studyhacker.net        

武士道に学ぶチームマネジメント01
            画像元:studyhacker.net

       ホンマかいな! 
 
  どうやら、この男は、まったくもって、      

   わかってませんな 

  上杉鷹山 によれば、 

   こうである

 「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 
為さぬなりけり」 江戸時代の米沢藩主(現在の山形県)
上杉鷹山(1751-1822年)の言葉です。
 
 「どんなことでも強い意志を持っておこなえば、
必ず結果はついてくる」という「やる気」の大切
さを説いた言葉じゃよ!
 
   これも「武士道」の一環じゃ! 
    
 
 「重要なのは〝魂〟=〝霊魂〟ってことよね!」
 
      そ、そっち なの!?
 
    ・・・ って、おいおい、 

           画像元: domani.shogakukan.co.jp
          なんでやねん!

        
  「武士道=大和魂」なのか!         う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

     
           なんだかなぁ!            


   イエスに付き従う洗礼者ヨハネの弟子たち!? nihongobiblestudy.com

        イエスと十二人の弟子たち!? christianpure.com

            画像元:christianpure.com

         symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。

      … to be continued !!   

コメント一覧

小吉
 非常に面白かったです!
 私が今書いている小説の参考になりました。

 第二次世界大戦の敗戦後、日本に対してGHQが行った政策によって消された文字があるそうです。
 一つは「和他志」わたしです。
 もともとは日本の精神である「和」の志だったのですが、戦後「わたし」の意味は個人主義思考のアメリカ寄りの「私」となってしまいました。
 次に、「氣」。
 生きるために必要な「気」ですが、もともとはその中心に日本人にとっての重要なエネルギー源である「米」が入っていました。
 米は、ただ単なる炭水化物としての穀物という意味でなく、
「米」という文字に「八方に至る力」みたいな意味が込められています(と私は解釈している)。
 それを滅して現代は「気」となっています。
 最後に「そしじ」という漢字があるのですが、これは変換さえできない神聖な漢字なのだそうです。
 形は「ウ冠」に「神」その下に「主」と書きます。

 これを紙に書いて枕の下に入れて寝ると体に神聖なパワーが入り込み日本人としての魂の核が覚醒しなんちゃらかんちゃらと怪しいスピリチュアルな人たちが言っています。

 何が言いたいのかというと、第二次世界大戦後の日本はアメリカあるいは西洋思想によって大事な「大和魂」を削られてしまったということです。

 これについて話すと一冊の本が出来上がってしまうので割愛します。
 ありがとうございました。
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