つづきです
兄貴が 社会人になった頃
玄米60kg(俵一俵)4000円だった
勿論 品質 銘柄によって多少は価格差はあった 米は5月になると苗代を作りそのそばにはお供え物が手向けられていた。
田の神様への祈願だったのだろう。
焼き籾殻と苗代の土と練って そこに種籾を蒔いた。
そう言えば 荒縄に白い紙が,,,
切って来たばかりの青笹にくくられていた記憶がある。
10月の収穫まで5ヶ月間の 害虫、病気 或いは洪水 長雨 干ばつ 台風などの被害がないように どこの家でも 一粒一万倍を夢見て 暦を見て一斉に籾蒔きをする。
麦飯の話のついでに
小麦は 木麦粉の元になり
裸麦は 味噌 醤油の原料であり どこの家庭でも自家製のものが当たり前にように作られていた。
その裸麦を 押し潰すことで食料となる。白さは白米ほどではない そこに持ってきて 何故か縦に茶色い線が入っている。
これが 際立って目立つのだ。
隠して飯食う意味が解っていただければ幸いですが,,,
この麦の値段が一俵2000円で政府が買い上げていた。
この時代に 兄貴のの初任給が
13800円であった。
https://mojim.com/twy112917x6x4.htm
と記憶しているが、時代が前後しているかも,,,
そんな中で
親父の マジな話が始まった,,,
続きます
つづきです
貧乏農家でも、兄が高校受験を迎える頃
中学の先生の薦めもあって県庁所在地の憧れの高校に行った。
3年後 次男坊も同じ高校に,,,
自転車通学ではなく 琴平電鉄(私鉄)を使って,,, 集落では鼻高々だったと思うが、生活は火の車だったはず。
長男である兄貴の弁当は 米の飯(銀シャリ) どうやら朝早く別釜で炊いていたようです。
三男坊の弁当は麦飯 と言っても麦ばかりではなく 白米に価格の安い麦を混ぜて焚き上げたもの。
麦は軽いので炊き上がったときにはほとんど釜の表面付近に固まっている。
お袋は その表面の麦をしゃもじではね除けてアルマイト製の私の弁当箱に入れてくれるが、
明らかに、米だけの飯ではない。
あちこちに点在する麦は まさしく麦飯であった。
学校の昼食時間 顔で 体で 弁当箱を隠すようにして昼飯を食った思い出がある。
それでも 学校では有名だった。
が、泣きはしなかった。
大正2年生まれは覚えているが生まれ月日は覚えていない。
昭和に入って19年6月に
農家の三男坊に私が生まれたのだから
親父33才 五つ違いのお袋28才
戦地に赴いては、農業者については満州から引き揚げ農業をして居たのだろう。
戦地と農業の今で言う兼業農家?
で、ないと私はこの世に居ないはず。
その親父が41才の時(恐らく数え年)田舎特有の厄払い神事が行われた事は8歳くらいだった頃の私の脳裏に焼き付いている。
集落十数件の人達が三日三晩 我が家で盛大に飲み食いしていたこと,,,
5反百姓も 1町作の農家も一くくりに 厄年の家々の家長の厄払いに参加していた。
それが出来なければ、当然村八分として無視される,,,(幸か不幸かそれを目にしたことはない)が、それもしきたりだった,,,
ーつづくー
見納めと思っていた桜が何故か雨風にさらされても咲いていましたよ!
気温が低いから?
勝手に思いながらも フラフラと落ちる輩もいないことはない!
それにしても、運悪く清掃範囲に落ちた彼らの根性は素晴らしい!
濡れ落ち葉ならぬ濡れ桜
ベッタリくっついて離れない
掃き寄せる?
掃けばその場で丸く小さくなって手に負えない。
清掃員の仕事って 何だろう?
がむしゃらに 花びらごときと争っても仕方ないだろ?
時給 960円
取れても取れなくっても
時間が来ればそこで終わりのはず
一枚の花びらがそこに残っても誰も苦言は言わない。
がむしゃらに雨落ちるなかで
手足だけ使いこんなことやってるけど
明日になれば 風吹いて何処かに飛んでく花びらなのに,,,
4時間
今日も手足動かし
健康のためにスポーツジムで楽しんできたと思えばそれもよし!
週2回 4時間の時間を人様に売ったのだから
良いように取らなきゃ!
生活に困ってるわけでも無し,,,
残り少ない人生の4時間をお金と交換している場合じゃないだろ?
自問自答しながらの
再々就職2日目の日記です。