作業療法士を退職してからは、トマトの収穫が始まると3ヵ月休みの無い農家、工場勤務では某モン○ールのシュークリーム・エクレア部門(機械に合わせて人間が動かないといけないので、けっこう大変でした。)、事務職は航空自衛隊の政府専用機の格納庫の中の事務補助員をしていました。
けっこう転職しましたが、その時々はストレスためながらブツクサ言いながら働いていましたが、今思い返すと、どこも良い人間環境の中で働かせてもらっていたと思います。
あの時、辞めなければ良かったなぁと感じる職場は何ヵ所かあります。
その中でも、記憶に残っているのが、2014年から、航空自衛隊の事務補助員をしていた時のことですが、そんな中、2015年9月の敬老の日に1本の電話が実家にかかってきます。
「○○町の○○だけど。」
「え?お父さん?」と思いました。
話を聞いていると、30年前に母と離婚した父の弟さんでした。
「お父さん、精神科に入院しているんだわ。アルコール依存症。」という話でした。
続けて父の弟さんは、「○○ちゃんのお父さん、お金何も助けてあげられなかったでしょう。○○ちゃんも弟の○○くんも、困ってることあったら、おじさん手伝うから。」という話でした。
その日は、突然の電話で私も動揺していたので、弟さんの携帯電話の番号だけを聞いて、電話を切りました。
私も平常心ではなかったのでしょう。
父の弟さんから電話をもらって何日後かに、母に内緒で精神科に入院中の父の元へ面会に行きました。
30年の年月の長さがなかったかのようでした。
(父は再会の3年後に、肺癌で他界しました。)
ここから1ヶ月ほど母には父に会いに行ったことは言えませんでした。
そうこうしているうちに、北海道で最後の夏祭りと言われている栗山天満宮のお祭りに母と行きました。
お祭り会場に到着した時から目眩がしていたのですが、出店の前で両手合わせて頼んだものをワクワクと少女のような目で待っている母を見ていたら、母にだまって入院中の父に会いに行った罪悪感が一気に出てきました。
そして異変は、帰りの駐車場までの人の行列の中で起こりました。
それまでは普通に歩いていたのに、左足が地面に張り付いて動かなくなってしまったのです。
やっとのことで動いたと思ったら、今度は足の指が全部引きちぎれそうに痛くなりました。
何とかその日は帰ることはできたのですが、その後何年もドクターショッピングをして、2年前にやっと線維筋痛症の主治医と出逢えることとなります。
2018~2020年の間に、父(肺癌)も父の弟さん(胃癌)も他界してしまいましたが、お金の縁はなかったけど、最期滑り込みのように関わることが出来て、私は良かったかなと思っています。
母の気持ちは複雑そうですが。
父の弟さんご夫婦に子供がいなかったため、去年私と私の弟が相続人となったのですが、私のように生活保護受給者が相続人になった場合、どうなるのかを次回書きたいと思います。