『ミラクルクリエーターのパーソナルヒストリー~その1』
こんばんは。
ミラクルクリエーターです。
22日(月)11時からの、無料遠隔セッション
ガイアとテラのヒーリングセッションにはお申し込みいただき
ましたでしょうか?
まだの方、ぜひぜひこのチャンスに
このブログの、左カラム、最新の記事欄の
”ミラクルクリエーターの無料ヒーリングセッション”
のコメント欄よりコメントを送って、参加表明ください。
もしくは、shinjikaneko3580@ezweb.ne.jp
まで、お申し込みいただいてもOKです。
さて暑い日がホントにつづいてますが、
皆様おかわりなくお過ごしでしょうか。
私、ミラクルクリエーターは、汗かきながら夏には強く
(ビールがうまい、というのが大きいですが、、、(^_^;))
快適に過ごしております。
さて今回より三回連続で
遂に本邦初公開!!!
ミラクルクリエーターのパーソナルヒストリー(履歴書)を
このブログ上で綴っていきたいと思っています。
まずは前編3回シリーズとして、
ミラクルクリエーターが突然の見性体験、
頭をが~んとぶち割られた30歳の冬までの
ヒストリーを綴っていきます。
決して、面白くもないかとも思いますし、
今となっては、本人目から火がでるほど恥ずかしいほどの
ばかさかげんの告白で。
少しみなさんには暑いさなかに
さらに暑苦しい話かも、ですが
ミラクルクリエーターがどうして、真理を語るように
突き進まされて来たのか、まさに天からそのように
歩まされたとしか思えない、生かされてきた、
その軌跡を語ることで、
少しでも笑っていただき、考えていただき
真理を悟っていく道にいろんな道があることを知っていただき
みなさんの日頃の肩の荷が少しでも降りれば、
私としても、ありがたいかな、と。
さて、本日は第一回”幼年編”。
生まれたときには、2500g台の未熟児(母子手帳より)。
取れたところは、滋賀県野洲郡守山町(当時、今、守山市)。
昭和35年3月8日14時20分過ぎ生まれ。
当時はまだ、産婆さんがいた頃で、私も自宅の部屋で(といっても長屋)。
産婆さんに取ってもらった。(若い人には想像もつかないかな、もう)。
父、江州煉瓦という会社の組合委員長やってた在日韓国人2世。
母、京都太秦の、こちらも在日韓国人2世、見合いで滋賀に嫁いできた。
そもそもは、大正時代初期、日韓併合で韓国と日本が同じ国。
そのころ、両親の親(私の祖父、祖母)とも、日本に渡ってきた。
強制労働移住があったと、歴史には言うが、私の聞いたところでは
(じいさん生きてた頃)、そのような話ではなく、大家族の韓国実家
(じいさん、父親のほうは13人兄弟の11番目)を飛び出して、
勇躍、大阪でひと旗あげるつもりだったと聞いた。
その流れで、肉体労働の条件のいい、滋賀の会社に
少しいい条件で移住し、結婚したてのばあさんともどもやってきたようだ。
それが、おそらく大正時代末期。
ただし好条件といっても、比較論の話。
私が生まれたのは、八畳くらいが一間に土間あがりのついた
大正時代に建てられたらしい、いわゆる長屋作りの家。
家とはいえませんね、今考えると。やっぱり長屋。
完全にプライバシーなどない長屋。隣の夫婦のけんか声、
子供の泣き声、テレビのボリュームなど、筒抜け。
(ちなみにテレビは、私の家にきたのは3歳のころ、
家の白黒テレビが来たのを昨日のように覚えています)。
ただ、貧しくとも楽しく生きられるのが、子供時代の良さ。
父の会社が煉瓦、ブロックを作っていた関係で、
会社の商品ストックスペースや、窯場、原料の粘土の山など
こどもにとっては、まさに秘密の遊び場の宝庫。
毎日、毎日、どろんこになって遊んでいました。
この頃、最初の神秘体験がありました。
昼間はどろんこ遊びのわんぱく坊主、
しかし、夜が以上に怖く、しかも長屋の家は
トイレが離れになっております。
夜、トイレに行くのが怖くてしかたがない。
二つ下の弟に、怖がりを見抜かれていて、よく
ひとりでトイレにたったあと、待ち伏せされて
”おばけ~”と脅かされ、わかっていても腰抜かすほど
びびっていた、二重人格の子供でありました。
ある日、夏の夜に親戚の家におつかいに行かされて、
帰り道の墓のヨコを通る道で、確かに人の気配がしたので(男の子?)
そのあたりを見てみるが、誰もいない??
次の日、その近くの池で男の子が溺れ死んでいたことが
わかり、怖がりの私は、妙に納得するとともに、
その道を毎晩通る、恐怖といったら、
心臓が毎日、飛び出さんばかりでありました。
そして、幼稚園、小学入学とミラクルクリエーターは
がき大将のリーダーなんですが、なぜか暴力は反対!
ガンジーのような、先生に反抗するときは
無抵抗暴力反対主義。小学3年生のときに
女の担任先生にいじめられて、(この先生人種差別主義者でした
明らかに。二つ上の兄も担任になったことがあり、兄も同じ目に
あったと言っていた。しかし、この教師、子供をうわべの偽善で
コントロールするのがうまく、隣町の小学校の校長になった。
今の教育のひどさがわかろうというもの。)
教室の後ろにある、別室資料室に2時間閉じ込められたことがある。
それでも冷静で、その教室にあった新聞記事の内容を
今でもはっきり思い出す。
”ニクソン大統領誕生、ハンフリーを大差で破る!”
子供のころから、異常に大人社会のことに長けていた
大人から見たら、不気味な子供であったようです。
いなかのことですから、韓国人などというのはみんな知っていて
(ちなみに国籍は、父親の一族が終戦後にはやばやと全員日本人に
帰化したので、正真正銘、日本人なのですが)
露骨にいじめるやつ、差別発言するやつ、いろいろいましたが、
幸いミラクルクリエーターは、なぜか勉強はできまして
(ちなみに宿題を家でやったことは一度もない)
小学校を通じて級長だったせいか、あまり、露骨ないじめは
受けてませんが、陰湿なやつはしょっちゅうありました。
いわゆる陰にまわるやつです。
そんなときは、母親の親戚が在日で留まっていたこともあり
母親の実家に帰ると、普通に韓国ハングル飛び交う日常、
いとこからも、裏切りもの呼ばわりされ(いとこは朝鮮人学校へ
行く、在日の常識)、考えてみれば、子供の頃から
この複雑な国籍アイデンティティが、
今から思えば
”私はだれ”
という、ことをごく自然に考えざる得ない状況に
置かれていたことになりますネ。
なんだか、今考えると完全に自分が生まれる前に
”仕組んだんだなぁ!”とわかります。
でも当時は幼い心に、純粋な日本人の友人を見て
がき大将ながら、とてもうらやましく思ったりしたものでした。
そして、
ミラクルクリエーターは小学4年生のときに
ある先生と劇的な出会いをいたします。
この話は次回。
何かの参考になれば幸いです。
ミラクルクリエーター
※意識変容とは?に関するお問い合わせ、またはこのブログトップページの意識変容に関するセッションへのお申し込み、お問い合わせのある方は、こちらにご連絡いただければ、折り返しご案内をさせていただきます。
shinjikaneko3580@ezweb.ne.jp
こんばんは。
ミラクルクリエーターです。
22日(月)11時からの、無料遠隔セッション
ガイアとテラのヒーリングセッションにはお申し込みいただき
ましたでしょうか?
まだの方、ぜひぜひこのチャンスに
このブログの、左カラム、最新の記事欄の
”ミラクルクリエーターの無料ヒーリングセッション”
のコメント欄よりコメントを送って、参加表明ください。
もしくは、shinjikaneko3580@ezweb.ne.jp
まで、お申し込みいただいてもOKです。
さて暑い日がホントにつづいてますが、
皆様おかわりなくお過ごしでしょうか。
私、ミラクルクリエーターは、汗かきながら夏には強く
(ビールがうまい、というのが大きいですが、、、(^_^;))
快適に過ごしております。
さて今回より三回連続で
遂に本邦初公開!!!
ミラクルクリエーターのパーソナルヒストリー(履歴書)を
このブログ上で綴っていきたいと思っています。
まずは前編3回シリーズとして、
ミラクルクリエーターが突然の見性体験、
頭をが~んとぶち割られた30歳の冬までの
ヒストリーを綴っていきます。
決して、面白くもないかとも思いますし、
今となっては、本人目から火がでるほど恥ずかしいほどの
ばかさかげんの告白で。
少しみなさんには暑いさなかに
さらに暑苦しい話かも、ですが
ミラクルクリエーターがどうして、真理を語るように
突き進まされて来たのか、まさに天からそのように
歩まされたとしか思えない、生かされてきた、
その軌跡を語ることで、
少しでも笑っていただき、考えていただき
真理を悟っていく道にいろんな道があることを知っていただき
みなさんの日頃の肩の荷が少しでも降りれば、
私としても、ありがたいかな、と。
さて、本日は第一回”幼年編”。
生まれたときには、2500g台の未熟児(母子手帳より)。
取れたところは、滋賀県野洲郡守山町(当時、今、守山市)。
昭和35年3月8日14時20分過ぎ生まれ。
当時はまだ、産婆さんがいた頃で、私も自宅の部屋で(といっても長屋)。
産婆さんに取ってもらった。(若い人には想像もつかないかな、もう)。
父、江州煉瓦という会社の組合委員長やってた在日韓国人2世。
母、京都太秦の、こちらも在日韓国人2世、見合いで滋賀に嫁いできた。
そもそもは、大正時代初期、日韓併合で韓国と日本が同じ国。
そのころ、両親の親(私の祖父、祖母)とも、日本に渡ってきた。
強制労働移住があったと、歴史には言うが、私の聞いたところでは
(じいさん生きてた頃)、そのような話ではなく、大家族の韓国実家
(じいさん、父親のほうは13人兄弟の11番目)を飛び出して、
勇躍、大阪でひと旗あげるつもりだったと聞いた。
その流れで、肉体労働の条件のいい、滋賀の会社に
少しいい条件で移住し、結婚したてのばあさんともどもやってきたようだ。
それが、おそらく大正時代末期。
ただし好条件といっても、比較論の話。
私が生まれたのは、八畳くらいが一間に土間あがりのついた
大正時代に建てられたらしい、いわゆる長屋作りの家。
家とはいえませんね、今考えると。やっぱり長屋。
完全にプライバシーなどない長屋。隣の夫婦のけんか声、
子供の泣き声、テレビのボリュームなど、筒抜け。
(ちなみにテレビは、私の家にきたのは3歳のころ、
家の白黒テレビが来たのを昨日のように覚えています)。
ただ、貧しくとも楽しく生きられるのが、子供時代の良さ。
父の会社が煉瓦、ブロックを作っていた関係で、
会社の商品ストックスペースや、窯場、原料の粘土の山など
こどもにとっては、まさに秘密の遊び場の宝庫。
毎日、毎日、どろんこになって遊んでいました。
この頃、最初の神秘体験がありました。
昼間はどろんこ遊びのわんぱく坊主、
しかし、夜が以上に怖く、しかも長屋の家は
トイレが離れになっております。
夜、トイレに行くのが怖くてしかたがない。
二つ下の弟に、怖がりを見抜かれていて、よく
ひとりでトイレにたったあと、待ち伏せされて
”おばけ~”と脅かされ、わかっていても腰抜かすほど
びびっていた、二重人格の子供でありました。
ある日、夏の夜に親戚の家におつかいに行かされて、
帰り道の墓のヨコを通る道で、確かに人の気配がしたので(男の子?)
そのあたりを見てみるが、誰もいない??
次の日、その近くの池で男の子が溺れ死んでいたことが
わかり、怖がりの私は、妙に納得するとともに、
その道を毎晩通る、恐怖といったら、
心臓が毎日、飛び出さんばかりでありました。
そして、幼稚園、小学入学とミラクルクリエーターは
がき大将のリーダーなんですが、なぜか暴力は反対!
ガンジーのような、先生に反抗するときは
無抵抗暴力反対主義。小学3年生のときに
女の担任先生にいじめられて、(この先生人種差別主義者でした
明らかに。二つ上の兄も担任になったことがあり、兄も同じ目に
あったと言っていた。しかし、この教師、子供をうわべの偽善で
コントロールするのがうまく、隣町の小学校の校長になった。
今の教育のひどさがわかろうというもの。)
教室の後ろにある、別室資料室に2時間閉じ込められたことがある。
それでも冷静で、その教室にあった新聞記事の内容を
今でもはっきり思い出す。
”ニクソン大統領誕生、ハンフリーを大差で破る!”
子供のころから、異常に大人社会のことに長けていた
大人から見たら、不気味な子供であったようです。
いなかのことですから、韓国人などというのはみんな知っていて
(ちなみに国籍は、父親の一族が終戦後にはやばやと全員日本人に
帰化したので、正真正銘、日本人なのですが)
露骨にいじめるやつ、差別発言するやつ、いろいろいましたが、
幸いミラクルクリエーターは、なぜか勉強はできまして
(ちなみに宿題を家でやったことは一度もない)
小学校を通じて級長だったせいか、あまり、露骨ないじめは
受けてませんが、陰湿なやつはしょっちゅうありました。
いわゆる陰にまわるやつです。
そんなときは、母親の親戚が在日で留まっていたこともあり
母親の実家に帰ると、普通に韓国ハングル飛び交う日常、
いとこからも、裏切りもの呼ばわりされ(いとこは朝鮮人学校へ
行く、在日の常識)、考えてみれば、子供の頃から
この複雑な国籍アイデンティティが、
今から思えば
”私はだれ”
という、ことをごく自然に考えざる得ない状況に
置かれていたことになりますネ。
なんだか、今考えると完全に自分が生まれる前に
”仕組んだんだなぁ!”とわかります。
でも当時は幼い心に、純粋な日本人の友人を見て
がき大将ながら、とてもうらやましく思ったりしたものでした。
そして、
ミラクルクリエーターは小学4年生のときに
ある先生と劇的な出会いをいたします。
この話は次回。
何かの参考になれば幸いです。
ミラクルクリエーター
※意識変容とは?に関するお問い合わせ、またはこのブログトップページの意識変容に関するセッションへのお申し込み、お問い合わせのある方は、こちらにご連絡いただければ、折り返しご案内をさせていただきます。
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