自己紹介は「ごあいさつ」
の記事に書いております。
ご一読の上お読みいただけますと
お話しが解りやすいと思います。
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子どもの頃の話を書くにあたり
「虐待」というキーワードは
避けて通れません。
このテーマが苦手な読者様には、
このあたりの数話は読まずに
飛ばしてくださることを
おススメいたします。
そう前置きさせていただいた上で、
続きを書いていきます。
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あの日の出来事から
何年か過ぎた。
「この人」の「痛み」は
顕在だったが、
腕力が大分減り
暴言の方が激化した。
だが、たまの腕力は
これまでに増して激しかった。
主なターゲットは
やはり、私だった。
私への暴力は父にバレていない。
私も精神面が少しだけ成長し、
「虐待」と悲劇的な見方をするより
冷静に、何かと暴力で権限を
誇示したがる「野蛮な人」という
見え方になっていた。
中学になり
父は一軒家を建てて
2階建ての新築へ越した。
私の部屋は無かった。
多感な時期、
「この人」から逃れるための
逃げ場がないことに落胆していた。
別に一緒に行きたくはなかったが、
他に行くところもなく
まだ、社会に出るには数年ある。
どこか擬似的でも「家族」に
族するしかなかった。
その頃、新居で父方の
祖母と暮らすことになった。
自分の状況を思えば、
大丈夫なのかと思ったが
大丈夫ではなかった。
やはりこの状況、
誰から見てもおかしかった。
それは極々、当たり前のこと。
別に私がおかしいわけではなかった
と、ようやく肯定することができた。
祖母は優しく
我が家の状況を見て
私の立場について冷静に助言した。
そして、長らく疑問だった
大人たちの口癖
「この人は別」
の真実を語ってくれた。
私を産んだ母は
私のお産が悪くて
産んで直ぐ亡くなったと。
スッキリした。
私が社会的に大人になるまで
堪えるべき部分と、
感謝すべき部分を、
諭してくれた。
はじめて、マトモな大人に
出会えた気がした。
精神面での恩人だと思っている。
成人して、家を出るまで
いや、家を飛び出すまで
あと数年
辛抱すれば良かったが
その数年がキツくて
逃げ出したり、
親に迷惑をかけたりした。
ただ、祖母に迷惑を
かけたくはなかった。
そんな気持ちとは裏腹に
ありとあらゆる虐めを受けて
暮らしていたため
何度もブチ切れそうになった。
いや、静かにブチ切れたりした。
義務教育最後の
中学の3年間が一番辛かった。
歴史の中で、鎖に繋がれ
ムチを打たれながら
奴隷として生きることを
強いられた人々がいることを
学んだことがあるが、
折しも多感な時期。
自分の暮らしも
それと似たものに思えて
心身共に限界を感じていた。
それでも
幼い頃から続く虐待や
成長するに連れ陰湿になる
虐めのことを父には一切、
打ち明けなかった。
自分で解決できるものではないが
最早、父にも心を開いていなかった。
何故だか、独りでもがき戦った。
今思えば、必ずしも
戦い方が正しくはなかったことも。
でも、自分を救えるのは
最早、自分しかいないと
そう考えていた。
目上の者は
「親に迷惑かけてなにやってる」
的なことを言うが、
あなたのことは
父が助けるでしょうが、
私のことは
誰も助けてくれないので
自分で切り抜けるしか
ありません。
という態度でいた。
実際、誰も
助けてはくれなかった。
私は常にただ、早く
精神的にマトモな暮らしがしたかった。
そういう暮らしができる所へ
身を置きたかった。
どうすれば、それができるか
それだけを考えて過ごしていた。
その答えが、当時は安直に
その場から“逃げる”しか
考えつかなかったのだ。
おバカな10代だった。
でも、それほど苦痛な10代だった。
父は相変わらず出張で
不在な期間があり、
穏やかな
自分の生きる道を探したくて
早く大人になりたかった。