現在の清洲城は、
1、(1階)清須の成り立ちを、遺跡から発掘された資料などを展示して解説するエリア
2、(2階)関東の巨鎮・清須の全貌を体感するエリア
3、(3階)清須がはぐくんだ先人たちの偉業にふれるエリア
4、(4階)清洲城天主閣、先人たちが夢を叶えていった清須の眺望を楽しむエリア
として、展示品も分かりやすく、見て楽しめる仕掛けがいっぱいあります。スタンプラリーやイベントで小さい子供から大人の女性でも親しめ・勉強になる施設となっています。
入場料
大人300円、小人150円
休館日
月曜日、年末(12/29~31)
営業時間
9:00~16:30
令和元年(2019)11月12日訪問
お城の裏手にある駐車場に車を停め、搦門(からもん)から日本庭園を通り入城。
1Fの受付窓口と下足棚を経て入館
まずは清須の町の成り立ちを、遺跡や中世・近代の発掘資料等展示物で学びます。
いよいよ天守
階段を登って2階へ。
スマホアプリで「バーチャルウォーク」(現実の風景がお城創建当時の風景に置き換わって観ることができる)するのも楽しい。
こちらは大きなパネルや、等身大のフィギアが当時の衣装や甲冑を身に着け、リアルで分かりやすく展示してあります。
ジオラマシアター「清洲城物語」も上映中
歴史的史実を瓦版で紹介。現在のスポーツ新聞風にアレンジしてあるのでとても面白い。
続いて3階へ
こちらでは信長公の偉業を解説、NHK大河ドラマや、映画等で使用された衣装も展示してあります。
また合戦の様子や火縄銃体験コーナーもあってめっちゃ楽しい
清須会議のコーナーもあって、一番興奮する、見ごたえのあるエリアです。
映画清須会議→こちら
映画清須会議予告編は→こちら
そして最上階
4階は天守閣。
外観は白壁に朱塗りの欄干が四方にめぐらされ、見た目にも美しく、写真映えします。
天守からは名古屋駅前のビルや、
城跡を分断して走る東海道本線と東海道新幹線が見え、時代の流れを感じます。
また眼下には、五条川に架かる赤い大手橋がひと際美しく映えています。
1階に戻り、隣接する「芸能文化館」で一休み。
「御殿」の庭を散策して、
お城の日本庭園を一回りすれば大手門から五条川に出る。
五条川にかかる赤い橋と清洲城は絶好の撮影ポイントです。
橋を渡れば休憩所があり、お土産が買えます。
清洲公園、清須古城公園もあって潤いの空間となっています。
土日・祝日の清洲城にはボランティアによる市公認武将隊がおもてなし!
信長を支えた家臣団とも会えますよ!
また10月には信長まつり月間として、特別展示や時代行列、火縄銃演武などが行われ多くの人でにぎわうそうです。
【歴史】
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。
織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。
【現在の清洲城】
現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。
現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。創建当時の絵図が残っていないため、その規模も不明である。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して設計された。建造された天守は、桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる、装飾に富んだ姿となっている。
また、清洲城の天守または小天守の部材を転用または、移築したものとされる名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し重要文化財に指定されている。尾張旭市の良福寺山門は裏門を移築したものと言われ、市の文化財に指定されている。また、名古屋市の含笑寺と長久寺の山門も移築された門として伝わっている。清洲城の障壁画は一部が総見寺に移されて現存し、愛知県指定有形文化財(絵画)に指定されている。崇福寺にも清須城の鯱と伝わっているものがある。
【清須会議】
清洲会議(きよすかいぎ)は、安土桃山時代の天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある。
参加者
天正10年6月の本能寺の変において、織田家前当主織田信長は京都で家臣の明智光秀の謀反で自害し、信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠も二条新御所で切腹した。光秀は山崎の戦い後の逃亡中に討たれ、織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(愛知県清須市)で開催された。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は直前の神流川の戦いで後北条氏に惨敗し、信濃から伊勢へ敗走中で間に合わなかった。恥じて不参加か、織田氏の勢力を関東から撤退させたことを理由に、参加を拒まれたとの説もある。
織田家家督と体制の決定
織田家の後継者問題では信長の二男・織田信雄と信長の三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引かなかったため、秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とする事で双方が了解した。勝家も秀吉の弔い合戦の功績に対抗できなかった。『多聞院日記』にも「大旨は羽柴のままの様になった」と記している。いっぽう『川角太閤記』では、秀吉が三法師を擁立し勝家が信孝を後継者に推して対立して、秀吉が席を立ち、残された三人での話し合いで勝家も矛を収めて三法師の家督擁立が決まったとしている。4日後4重臣が対面することになったが、その間に秀吉が玩具で三法師を手なづけて、対面の場に三法師を抱いて秀吉が現れ、それに三重臣が平伏する形となったと記している。
こうした通説に対して、柴裕之はそもそも信長の後継者である信忠に何かあれば、その嫡男である三法師が家督を継承することは信長存命中からの方針で家中に異論がなく(勝家が信孝を推したとするのは『川角太閤記』の創作とする)、会議が清州城で開かれたのも織田家家督の三法師が滞在している城だからである。会議で問題になったのは三法師が成人するまで「名代」を設置するか否かであり信雄と信孝の対立の焦点もそこにあったが、信忠の同母弟であるが光秀討伐の功績のない信雄と光秀討伐の功績はあるが三法師との血縁が薄く三法師の後継者としての貴種性を揺るがしかねない信孝いずれも家中の納得を得られないために単独の名代の設置は回避されたとしている。つまり、柴の指摘に従えば清州会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、信長の後継者である三法師がいる清州城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であったということになる。
三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として秀吉、勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができた。
織田領地再配分
領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続した。家臣団へは、勝家は越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江3郡12万石の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられた。長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡を、恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増された。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には河内国と山城国が増領され、丹波国も含めると28万石の加増になり、勝家と逆転した。
また、神流川の戦いの後、北条氏政・上杉景勝、そして織田家の従属大名状態となっていた徳川家康が織田氏の支配が動揺している旧武田領国に侵攻した(天正壬午の乱)。このうち、徳川家康から羽柴秀吉ら織田家重臣に対して旧武田領国への進出の了承を求めてきていた。重臣達は当初は旧武田領国の奪還を方針としていたが、家康の申し入れを受けて家康による旧武田領国の平定を容認することになった[8]。ただし、これによって滝川一益ら旧武田領国に与えられた所領を失うことになる諸将への対応は決定されず、後日旧武田領国を家康に委ねたことを知った滝川一益から代わりの所領を要求されるが、重臣達は会議で決定した所領配分のやり直しも出来ずに結論が先送りされ、一益の不満を強めていくことになる。また、信雄が支配することになった尾張国と信孝が支配することになった美濃国の国境についても両者の意見の対立があり(信孝は洪水による木曽川の流路変更を理由に国境線自体の変更を求めた)、信孝の意見を支持する秀吉と信雄の意見を支持する勝家が対立した(秀吉は信孝の意見を支持する代わりに三法師の安土移動を取引する算段であったという)。最終的に信雄の意見が会議の合意に基づいたものとして認められることなるが、これは信孝の不満を強めていく一因となった。
会議の影響
清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられた。
清州会議後に秀吉は三法師の傅役の堀秀政と組み、執権の丹羽長秀と池田恒興を懐柔し秀吉陣営を形成する。これに危機感を覚えた信孝は勝家と組んで反秀吉陣営を構築し、会議から排除された滝川一益も加わり、織田家重臣たちは二分される。
この会議において織田家の後継者になろうとした織田信雄は北畠から織田に復姓したため、北畠家は名実ともに滅亡した。
会議決定の破棄
10月11日から15日、秀吉は信長の葬儀を、羽柴秀勝を立てて喪主として、大徳寺で挙行し、葬列では秀吉が信長の位牌を持ち、信長の後継者として大きく世間の耳目を集めた。主筋で、岐阜城で三法師を抱えて離さない信孝の側に対抗するため、11月1日までに、秀吉は信孝と勝家の謀反を理由に、清州会議の決定を破棄し、織田信雄を織田家の家督に据えると丹羽長秀と池田恒興との三者合議で決めた[13][14]。こうして対立が深まっていき、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、秀吉の天下取りとなる。
【清洲城】
《清須会議の城 尾張の首府が甦る 歴史織りなす清須のお城》
名称(別名);
所在地;愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
城地種類;平城
築城年代;応永12年(1405年)
築城者;斯波義重
主な城主;斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、尾張徳川家
文化財区分;
近年の主な復元等;廃城年慶長15年(1610年)、天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して模擬天守建造
天守の現状、形態;望楼型3重4階 1989年RC造模擬天守
移築現存櫓(名古屋城)、土塁
地図;
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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