<《日本の城で初めて築かれた本格的な高石垣が山中に残る》
観音寺城の創築は明らかではないが、宇多源氏の流れをくむ近江国守護佐々木六角氏の居城で「太平記」にその記述が残る。文明3年(1471)ころから、石垣・石塁による城造りが、拡張と改修を繰り返しながら進められていったと考えられている。永禄11年(1568)織田信長が上洛する際、近隣の城を攻撃するすさまじさに、六角義賢・義治親子は城を捨てて逃げ出し、以降廃城になったとされている。標高433mの繖山(きぬがさやま)全体に多くの曲輪が残り、戦国時代の山城としては最大級の規模を持つ。主郭部や屋敷地に築かれた高石垣は、日本の城で初めて本格的に導入されたもので、安土城の総石垣の先駆をなすものとされている。、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
いつものように専門誌の記事のコピーとナビのセッティングを終えただけの軽いノリで出発。なので、同城の前知識としては#山城 #大石垣 #平井丸の石垣と虎口 #喰違虎口 #曲輪が多い #観音寺正寺 くらいでした。
ナビの指示通り、8:00に到着したのは「安土林道」の入り口。しかし、冬期間通行止め!!

案内看板にある迂回路を探しに戻ったところ、大きな「観音寺城跡」の看板があるので田んぼの一本道を進んでみると鉄の柵がしてあり、侵入可能ですがどうやら階段を徒歩で登るルートのようです。焦りました(;^ω^)

そこに掲示してあったイラストマップの「五個荘南」「塚本」の地名を頼りに国道8号線に出て、

山の南側の裾野をぐるっと東側まで回り込み

ようやく「きぬがさ公園」にたどり着きました。同公園のPに車を停め徒歩で登る方もいらっしゃいましたが、その先の有料「五個荘林道」を行くことにしました。

通行期間1月5日~12月25日の8:00~16:30、(通行料)自動車600円・二輪車300円、

林道は舗装されて景色も良いのですが、1車線しか無いので大型車マイクロバスは通行不可。対向車とのすり替えは、ところどころに設けてある退避場でしかできないので要注意!

観音寺正寺の駐車場にはこの日の一番乗りでした。

当日の行程を縄張り図に落とし込んでみました。
青い文字と番号は私が記入したもので、縄張り図は「滋賀県教育委員会」が作成したものです。

【#0 駐車場から参道】
観音寺正寺までは約800mほどの緩やかな遊歩道となっています。道端には番号を付けた標語が道しるべのように立っています。

しばらく進むと左手に「伝目賀田屋敷」の案内板が見えてきましたが、

左手(南側)は崖となっており建物跡らしきものには気付きませんでした。
帰ってから資料を整理していると、どうやらこの下の方に屋敷跡の郭があったようです。城の南方に位置する「東山道」方面を監視する役割を担っていたものと思われます。残念(;^ω^)

実は右手の斜面上に見えてきた石垣に目を奪われ、こちらが「伝目賀田屋敷」だと勝手に思い込んでいました。
単なる参道だと思っていましたが、すでにここは城域だったのです。

【#1 伝布施淡路丸】
参道からの入り口は「23番の道しるべ」

縄張り図を切り出してみました。
参道沿いに石垣が積まれ、23番道しるべから入ることがわかります。郭は長方形をしており城の東方を防御・監視する役目を担っていたものと思われます。

虎口は石塁の端を折り曲げて枡形状にしています。

郭内の北側は土塁ですがその他の三方は石塁で囲まれています。

東側参道に面した石垣。

【#2 佐々木城】
伝布施淡路丸から暫く行くと分岐が現れ、参道から山に入る方向に「佐々木城」の標識があります。

周辺縄張り図
しかし縄張り図のどこにも「佐々木城」の表示はありません。
これも帰宅後資料を整理していてやっと分かったんですが、「観音寺城」別名「佐々木城」。佐々木六角氏の城なので「佐々木城」だったんですね(;^ω^)
つまり、「ここから先が城域ですよ」という石碑が建立されている訳です。

北側を通る「散策路」は参道とは違って起伏のある山道ですが、地元の人たちによって整備されています。

途中で「矢穴」のある石を発見!いっぺんに疲れが取れる(笑)

大正4年11月建立の「佐佐木城址石碑」

この先「奥の院」と「ねずみ岩」にルートが別れますが、その時は奥の院と言う佐々木城の本丸があるものと思いこみ、そちらへ進みました(笑)

【#1.1 奥の院】
観音寺正寺の神聖な場で、謂れによると
天体の北極星を神格化した妙見菩薩が五仏、岩の壁面に描かれているそうです。寺の僧侶は山を下りる際下車して、わざわざ参拝している姿を見ることができました。

佐佐木城址碑から参道に下る辺りが奥の院の裏側にあたります。
巨石が転がっています。

巨大な岩盤が露出して異次元の空間

結局「妙見菩薩」がどこに描かれているのか分かりませんでした。

「ねずみ石」
参道に露出した巨石、
巨石には神秘の力が宿ると考えられ信仰の対象となるんでしょうね。

【#9 観音寺正寺 参道から境内へ】

奥の院、ねずみ石と、巨石を過ぎるといよいよ境内に到着ですが、その手前にあるのがこの壮大な石垣の門。

参道を直角に曲げて境内に至る道は、まるでお城の虎口そのものです。

境内側から見た虎口

「仁王像」
山門を持たない観音寺正寺の門固め

社務所に百名城スタンプがあります。

ほら貝を吹き鳴らして参拝時間を知らせる

安土の城下町とお地蔵さん

「本堂」
平成5年に焼失したが同16年に落慶しました。本尊千手千眼観音菩薩坐像を祀っています。

「本堂内」

御城印・御朱印、グッツの販売を行っています。
現在は入山料の納付もこちらです。

【観音正寺】
西国第33番札所 繖山・観音正寺
webページは→こちら
入山時間; 8:00~17:00
入山料金; 大人500円、小人300円
いよいよ本丸へ
境内の左手(南側)に本丸へ通じる木戸口があります。

木戸口をくぐり散策路を進むと、観音正寺の南斜面に巡らせた石垣がまるで城のようです。

その先端には角石が積まれ、後の算木積みを彷彿とさせます。

【#3.3 分岐からの石塁】
本丸の手前に分岐があり「三角点」「風土記の丘」という標識が目に入りました。
散策路から北側の尾根に向かって登るルートです。

途中険しい山道に入り嫌な予感がしました(;^ω^)

いたるところにロープが張って有り、急斜面をロープにつかまって登ることになりました。

土橋か?

堀切か?

そうこうしているうちに石垣が見えてきました
これは尾根上に築かれた石塁です。

【#3 伝沢田丸から三角点】
風土記の丘ってすぐ近くだと思い尾根を登ったのですが、じつは山を下りた向こう側だったのです(;^ω^)
しかし間違っても興味を持って登った甲斐がありました。思いもかけず、山中の郭群や山頂の石塁に遭遇し、なおかつ「伝沢田丸」に行きついてしまったのですから。

石垣と土塁で造られた「伝沢田丸」虎口

虎口石垣
斜面に沿って構築され、カドには角石を配置している

三角点側に配置された二つの巨石はまるで搦手の虎口のようです。

「三角点」
伝沢田丸から風土記の丘方向に進むと三角点に到達します。休憩ポイントで標識も整備されています。
この「風土記の丘」から先ほどの「佐佐木城跡碑」までのルートが観音正寺の北側尾根を通る第二の散策路となっており、尾根には「大土塁」があり、「三国丸」「馬淵丸」「三井丸」「伊庭丸」「馬場丸」等の曲輪が数多く点在しています。もしここも散策すると倍以上の時間が必要となり、逆に知らなくて良かったかもしれませんね。これが山麓一帯に広がる郭の所以だったんです。
「三角点」

【#3.2 分岐】
三角点から本来の本丸に通じる散策道へ戻ろうとして、往路と違う路を選択、間違っただけ(笑)
こちらは階段が整備されたメイン道路、途中にも石垣がありました。

そしてここにも矢穴のある石が露出しています。

ようやく本丸に通じる散策道へ戻りました。

【#4 伝本丸】
江戸時代の古絵図に「本城」記されていることから城の中核部分と思われていますが、ここより高い所にほかの郭がある事や西の外れに位置することから疑問を挟む意見もある。(滋賀県教育委員会)

散策道から本丸入り口の虎口

本丸平坦地
昭和45・46年に発掘調査が行われ、建物礎石や庭園遺構、排水路などの遺構や遺物が発見され、山上の御殿でも生活していたことが分かったそうです。

本城跡石碑

「裏虎口」
本丸の北から桑実寺に向かう場所に位置する。

石塁をずらして配置する「喰違虎口」となっている。

「後付け喰違虎口」
ただし、周囲の状況からみて、後から改修されたものである可能性がある(滋賀県教育委員会)

周囲は土塁や石塁で囲まれています。

「井戸跡」太夫井戸伝承地
本丸下にある井戸の遺構。

山城では水の供給は欠かせない。今でもきれいな水が湛えられている。

「大手石階段」
幅4m、側溝を伴う石段が一直線に伸びる。当主の威厳、見せる城の確固たる所以ですね。

【#5 伝平井丸】
六角氏の被官であった平井氏の屋敷跡とされる郭で古絵図の記述が根拠となっている。

本丸から大石垣の方向に下ってくると周囲を石塁で囲われた屋敷跡が出現する。

「門正面」
虎口は城内でも最も巨大な石を用いた立派な平虎口です。


「埋門」
かつてトンネル状に穴が開いた埋門だったと考えられており、同じような虎口は「伝木村丸」にも見られ(残念ながら見逃した)観音寺城の特徴的な虎口の一つとなっています。

「屋敷跡」
門から邸内に入ると石塁がいたるところにある。
こちらは石塁で囲まれ、一段高い屋敷部分には階段が設けられている。

邸内にはいくつかの建物があり、それぞれに石塁と虎口があったようです。

邸内は北川の斜面を利用して土塁が築かれ、

南西の谷側は石塁が積まれている。

【#6 伝落合氏屋敷跡】

平井丸と池田丸の間にある屋敷跡
案内標識にはあるが、資料に出てこない。
しかもこの標識と門の先は崖で平坦地が見当たらないという不思議さ。

そこから下に小さいながらも虎口を備えた郭が2個並んでいる。もしかしたらそれが落合氏屋敷跡なのかもしれません。

何れの郭も散策路に面して虎口を開いている。
平井丸側の郭

その下、池田丸側の郭

斜面に対しひな壇状に配置され、周囲は土塁で区画されています。

【#7 伝池田丸】
六角氏の被官であった池田氏の屋敷跡とされる郭で古絵図の記述が根拠となっている。
周囲は石塁と土塁で囲われ、本丸から大石垣に通じる散策路は屋敷内を貫通しています。

散策路からの池田丸入り口
他の郭と比較して広大な敷地にも関わらず、ここに虎口の門がないのが不思議です。

池田丸平坦地
敷地は南北に細長く、南側斜面で正方形に広がっている。

北の山側は土塁で、その他は石塁で囲まれている。

散策路と反対側の西面には虎口とみられる開口部があり、西側斜面に石塁が積まれている。しかしその先は崖で道があったとは思えないのですが(;^ω^)
しかも上段に位置する2連続した郭の虎口とも逆方向となっている。
もしかしたら、平井丸横の「伝落合氏屋敷跡」標識と虎口の向きと同様にも考えられるので、谷側に道筋があったのかもしれませんね。


池田丸を貫通している散策路は南面の「大石垣」に向かっている。

その先は急斜面を下って大石垣に至る。浮石等足元注意!

【#8 大石垣】

大石垣上部の平坦地
巨石が露出する景観も見事。右端の巨石が「女郎岩」

伝池田丸下方郭群
南東斜面にはいくつもの郭がひな壇状に並んでいます。
また地元有志の手で旧追手道の整備が行われています。

横方向からの大石垣

下から仰ぎ見る大石垣

谷を挟んで向かいの山には観音正寺の建物が見えます。
在りし日の観音寺城の曲輪群もこのように見えたのではないでしょうか。

湖東平野一帯が見渡され、そこを走る新幹線の車窓からも大石垣は見えるという。
それも地元有志が月一回のペースで山麓の竹を伐採するなどの保全・整備活動の賜物です。

この大石垣はまさに「見せるためのもの」
どうだ!すごいだろう!
近江守護の権威と財力を見せつけるための城だったのではないでしょうか。
【観音寺城】
《佐々木六角氏が繖山全域に築いた巨大山城》
名称(別名);佐々木城
所在地;滋賀県近江八幡市安土町石寺ほか
城地種類;山城
築城年代;建武2年(13335)?文明3年(1471)?
築城者;佐々木氏頼? (佐々木六角氏)
主な城主;佐々木六角氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成の発掘調査
天守の現状、形態;
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
【御城印】
観音寺正寺発行

安土城郭資料館発行
