猫派娘(仮)による雑記だらだら

タイトルの通りさまざまなことをだらだらと書きます。なので不定期になることが予想されます。どうでも良いことを考えていたい。

アイデンティティーを侮辱することにならないかね、君。

2018-02-20 01:36:21 | 日記
こんばんは。猫派娘です。

突然ですがわたくしはまあまあアニメ好きです。

最近は時間がなく、あまり見ていませんが見るときは見ます。オタク、と言えるほどではありません。

話は過去に遡りますが、わたくしは小学生の頃、少年漫画を好む友人たちが自分たちの世界に入り込んでしまい、こんなはなししちゃってごめんと謝られたことがあります。どうやら友人たちは(ちなみに女の子)自分たちが少年漫画を好んでいることが恥ずかしかったようです。なのでわたくしは
「全然いいよ、そもそも好きな漫画のジャンルが違うだけでなんも恥ずかしいことじゃないじゃん」と答えました。
そのときの彼女たちの涙は忘れられません。
(一部誇張表現あり)

さて、今日わたくしが主張したいのは

"オタク" を差別用語と勘違いするな!

です。

いや、別にしてはいないのでしょうけど。

なんか "オタク" という響き、嫌な感じがしませんか?

それは "オタク" に対して負の固定概念が未だに払拭しきれず残っているからでしょう。

じゃあ、ここで考えてみましょう。

"オタク" って恥ずかしい存在なの?

わたくしは絶対違うと思います。

例を出します。

ある家族がいます。

お父さん→盆栽ずっといじってる

お母さん→裁縫大好き。暇なときは何かしら作ってる

お姉ちゃん→メイク大好き。毎日メイクの勉強してる

弟→遊ぶの大好き。今は積み木を完成させてはミニカーでぶっ壊して腹抱えて笑ってる。こわい。

僕→アニメ大好き。今は録っておいたアニメを見ている。







別に普通じゃないですか?ちなみにこんな現代にもありそうなごく普通の家庭でなぜ父親だけが昔ながらの「盆栽」という趣味なのかは分かりません。ほっといて。

なにが言いたいのかというと

オタクオタク言ってるけどみんなが持つ趣味がたまたまアニメ鑑賞だっただけじゃん!

別に盆栽も裁縫も趣味として普通なのになぜ趣味がアニメ鑑賞のときのみ "オタク" という名が付けられてしまうのですか?変じゃないですか?

開き直って「俺、オタクだからー」みたいに自虐っぽく言う人もいますが自虐にするほどのものですかね?

わたくしはそうは思いません。いいじゃないですか、アニメが好きでも明るく、社交的な人だっています。頭がいい人も真面目な人もいます。モテる人もいます。お洒落な人もいます。ただアニメが好き。それだけ。

オタクにはろくな奴がいないなんて思ってはいけないと思います。

"腐女子" も同じだと思います。恋愛なんて広く見ればただの「人間同士の関係の手段の一つ」
子孫を残す残さないを抜きで考えてみればそこには必ず男女じゃないといけないなんて決まりはありません。恋バナが好きな人がいるように、恋愛漫画を見るのが好きな人がいるように、ボーイズラブを嗜む方がいてもいいじゃありませんか?

わたくしはそもそも「人の趣味に必要以上に踏み入るのはよくない」と思います。

趣味というのは自分が一番自分らしく、そしてそれを愛する自分を好きになれる最良の物だと思います。そこは完全プライベートです。
たまたま趣味が合って是非交流したい。そう思わない限りは若干タブーな世界だと思います。そこはユートピアであり自分しか満足できない世界なわけですから。逆を言えば理解されなくてもおかしくはありません。
だからこそ必要以上に干渉しなくていいと思うんです。
だって理解できなくて当たり前だから。

では、総括しますね。


なんか後半まじめに長ったらしく書きましたが結局私の今の心理状態は

アニメが見たい



誰かオススメアニメ教えてください。


以上、猫派娘でした。

退化を望むような発明をするのであればそもそも我らの進化など不必要だったのではないか?

2018-02-19 00:36:49 | 日記
全然意味の分からないタイトルぶっ込んですいませんでした。

どうも、お久しぶりの猫派娘です。

ネタがないために少々お暇を頂いておりました。生きてます。

つい先程、たまたま我が父と話していたことがあります。

オリンピック(特に冬季の)の競技って、どうやって考案したんだろう?

です。

それはスピードスケートのパシュートを見ていたときでした。


あ、ちなみに前置きしておきますがこの記事はオリンピックを馬鹿にするつもりはさらさらありません。


では、話に戻りますが私はそれを聞いて

「確かに!正直スキーのジャンプはあれ、なんでやろうと思ったんだろうね?」

と、即座に返しました。

我が家ではこんな話になるとふざけた話に持っていくのがお決まりとなっております。

二人でしばらく考えた後、私は我が父にこう答えを出しました。

「わかった。ジャンプは、なんか考えた人があー、鳥になりてえー…鳥みたいに空を自由に飛びてー…お?こーんなところに、スキー板があるじゃぁないかー!待てよ?あの斜面がいきなり空に向かってぐいっと曲がったら直滑降でいけば勢いで飛べるんじゃね? ってな感じになって、最初はふつうにストック付きで滑ったんだけど、あ、こりゃストック邪魔だわ ってなって結局今みたいな滑り方になったんじゃないかな!」

もちろんそんなわけないと思いますが。そしたら我が父が

「え…そんな理由?」

と、渋い顔をしてきたので

「うん、彼は鳥になりたかったんだよ」

と、真顔で返してあげました。

ちなみにその話で思いついたためこれも話しました。

「水泳のバタフライってあるじゃん?あれも同じようなもんだよ。考案者が偶然海に行ったときにトビウオを見つけて、なんだあれ!?水面から飛んだだと!?かっこいい!人間も魚に負けちゃいかん! で、はい。バタフライ。」

我が父「まじでか」

私「まじでだ」


そんなどうでもいい話をしていたらふと思ったことがありました。


人間って退化したがりがちでは?


まあ、流石に今までの話が酷すぎたのですが、人って大空飛びたがったり、自由に泳ぎたがったりしてません?

でも空を飛ぶのは鳥や虫だし、自由気ままに泳げるのは魚なんですよ。当たり前だけど。

進化ってなんのためにしたの?と、考えてみるとおそらくざっと、環境に対応するためだと思うんです。
じゃあ今のところ人間が一番対応できてるのでは?

なら、空を飛べなくたって、多少泳げなくたっていいじゃないか!!

進化の一番上に位置している私たちは羨むよりも羨まれるべき存在です。

でも、やっぱり空を飛びたい。自由に泳ぎたい。

こうなるのは私なりのめちゃくちゃ勝手な考えなんですけど

おそらくこう考えてしまうのは人間が"自由" を "可能性" に変換してしまっているからだと思うんです。

人間は一番優れている生命体であると仮定したとき、一番なんでもできて自由な生き物であると言えるでしょう。頭脳も持ち合わせている人間はそのことを自覚したときに
「自由なんだ!じゃあ、これもできるだろ?」
と、可能性を提示してきます。

人間は何事も土台があれば「できるはず」という自己暗示をします。(例.コンピュータがある→AIを発明できる)

しかしこれは自由と言えるでしょうか?逆に縛られているのでは、と私は思います。

魚や鳥には泳ぐ、飛ぶしかありません。あとは生きるために最低限必要なものしか持ち合わせていないです。

人間が空を飛びたい、自由に泳ぎたいと思うのは
可能性による強迫観念を捨て去り、自由に単調的に、野生的に生きていきたいからではないでしょうか?


と、いうのが私なりの考えです。

結局総括しますと、

「オリンピックは楽しいよね」

です。

以上、猫派娘でした。