時には目食耳視も悪くない。

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分別のある言葉の分別。

2018年12月09日 | ひとりごと
 日本語は習得することが難しい言語ランキングの上位にランクインするそうで、普段は何気なく使っている言葉ですが、外国の人が日本語について感じることなどを耳にすると、また違った自分の母国語の姿に出会うこともあり、異文化コミュニケーションの面白さを実感します。

 実際に、外国へ旅行をしたり、外国の方と対面でお話をしなくても、インターネット上の動画やSNSなどで手軽に外国の文化に触れることができるのは、今更ですが素晴らしいことだと思います。


 さて、ちょっと前に「日本が沈んでいるのに気づいていない人がいる。あるいは、気づいていても何もしようとしない人がいる。」というようなコメントをインターネット上のサイトで目にしました。
 多くの場合と同様、私にはこのコメントを残した人がどんな人なのか分かりません。日本に住んでいる人なのか、外国に住んでいる人なのか、男性なのか、女性なのか、どんな仕事をしている人なのか、あるいは、していないのか、等々。

 また、日本語でのコメントでしたが、もしかしたら日本語に堪能な外国の人が残したのかもしれません。
 いずれにしろ、このどんな人が発したものとも分からない言葉は私の心にネガティヴな感情を残し、この言葉を目にして少し時間がたっている今でも心の片隅に消えずに残っているのです。

 もっとも、この言葉だけでは、この人が日本の今の状況について批判しているのか、日本の将来を思ってあえて苦言を呈したのかを判断することはできません。

 それに、私の思慮深い友人なら、「あなたは何でも真面目に取り組み過ぎよ。SNS上で匿名で好き勝手な言葉を無責任に投げ捨てて行くだけの人たちのことで頭を悩ませるなんて、はっきり言って時間と労力の無駄遣い。もっと建設的なことをしなさい。」と、実に実用的なアドヴァイスをくれることでしょう。


 SNSを利用して気がつくことは、人間がいかに「他人事」に関心を持ち、(他人事にも拘わらず)ここぞとばかりに自己主張をするか、ということです。
 自己責任能力や生産性、倫理観や人間関係、経済活動など、人は他人がしていることに興味津々で、他人のちょっとしたミスを見つけるとSNSのみならず、報道機関までもがそうした事柄を批判的に(もしくは、情報を受け取る側に批判的なイメージを植え付けるかのように)取り上げます。

 良いことでも悪いことでも、客観的な事実を伝えることは間違いではありません。
 大切なのは、問題点を発見した時、その解決策はないかと考えることではないかと思うのです。それができないのであれば、そのことに関して「一個人」が関わる意味はないと私は考えます。

 問題を批判するだけでは、いつまでも解決されない課題が残り続け、結果、苦しんでいる人はいなくならないばかりか、批判されることによる心の傷が増えるだけなのです。
 自分には関係のないことにも拘わらず、あえて発言するのならば、そうした状況にいる人たちのことを考えた上で言葉を発信して然るべきではないでしょうか。


 失業している人、お子さんを預ける保育所が見つからない人、重度の障害を持っている人やそのご家族、事故や病気で家族を亡くした人、年老いた両親の介護に日々を追われている人、等々、他にも日本には大変な毎日を送っている人たちが沢山います。

 仮に今、日本が沈んでいる状況にあるとして、そうした人たち一人一人ができることは何でしょうか?
 かつて、氷の海に沈み行くタイタニック号から避難することができた人たちの大半は、身分や経済力のある人たちでした。

 実際の海難事故と同等に考えることは意味のないことかもしれませんが、沈んでいく船から避難できなければ生還することはできませんし、船が沈まないようにすることはもっと至難の業です。
 いったい、残された乗客一人一人がどんな行動を取ればタイタニック号の沈没を防げたと思いますか?そして、船の沈没は乗客たちの責任だったでしょうか?


 私は、世の中を変えたいと思ってはいても、日々の生活に翻弄されながら懸命に生きている人たちに対して、高みの見物を決め込んで無責任な発言をする人に怒りを覚えます。

 確かに、今の日本の社会には問題が沢山あります。政府は景気が回復していると言うけれど、一方では雇止めで解雇される人が少なくありません。
 失業している国民がいなくならないのに、外国から働き手を導入し、なおかつ彼らに対し人間以下の扱いをする現実には吐き気がします。
 年金事務所の杜撰な記録管理の実態を目の当たりにしていながら、年金制度を心から信頼している人はよほどのオプティミストです。

 考えれば考えるほど、先が暗闇で見えなくなってしまう。仕事があってもなくても地獄を見てしまう。それが偽らざる日本の現状です。
 そんな世の中を批判し、ネガティヴにコメントすることは誰にもできます。

 誰でもできるから、誰もがしてしまうのです。
 そんなネガティヴな言葉で世の中が埋め尽くされて、やがては人々の心が荒み、善悪の判断や喜怒哀楽の感覚までもが麻痺していってしまう。

 結局、ダメな世の中にトドメを刺すのは―沈みゆく日本を完全に奈落の底に突き落とし、人々の心を完膚なきまでに叩きのめすのは、そうしたネガティヴな言葉たちなのです。(まあ、私の言葉もたいがいですが…)

 言葉には、それを放つ人の意図に関わらず、人の心に訴えかける力があります。
 人々の心を一つに結び付ける言葉もあれば、立ち直れないくらい深い傷を負わせてしまう言葉もあります。
 私たち日本人は、そうした言葉の力を最もよく理解できる民族(だったの)ではないでしょうか。


 物事をただ批判することは誰にもできます。
 つまらない世の中に嫌気がさしているのなら、まず自分がつまらない言葉を発信するのを止めることです。
 日本がダメな国だと感じるのならば、どうしたら沈まずに済むだろうか、どうしたら苦しい思いをして生きている人たちが幸せになれるかという考えを広めた方がより建設的です。
 (どうしてもネガティヴなことを書きたかったら、それに添えてポジティヴなことも発信するのも一案かもしれません。)

 いずれにしろ、インターネットの性質上、一度発信された言葉はウィルスのように広範囲にしかも迅速に伝染していってしまいます。
 ですが、世の中をネガティヴな言葉で埋め尽くすことができるのと同様に、ポジティヴな言葉でそれらを上塗りしていくこともできるということを忘れてはいけません。

 SNSは決して、言葉のゴミ捨て場ではないのです。例え、他の国の人がそうしても、「言霊の国」の出身である私たち日本人はそうしてはいけないと思います。
 (最近のゴミ捨て場は分別の基準が厳しいですし。)

 イギリスのEU脱退や東京オリンピックを控え、日本と諸外国との関係性が今まで以上に大きく変わろうとしている中、私たちがしなければならないのは、英語を学習することよりもまず、母国語である日本語を、自分たちのアイデンティティを支える「言霊」として適切に、かつ有用に、有効的に使えるようにすることなのではないかと思います。

 (英語がまったく必要ないなんて言ってませんよ。笑)


*   *   *   *   *   *

 早いもので、今年ももう一ヵ月をきってしまいました。
 知的好奇心ばかりが旺盛で、いろいろ知りたがって何かを始めるけれど、すぐに飽きてしまう自分の性質を、40年近く生きてやっと自覚できてきたかなと思える一年でした。

 何か一つのことをずっと続けることは本当に骨の折れることです。
 人生の中で子供のころから今まで続いているのは、読書と音楽だけです。

 ダイエットもお肌の手入れも、健康食も運動習慣も興味を持って始めるものの、半年と続きません。
 語学の勉強は半分は仕事でもあるので、やめたくなることもしばしばですが、なんとなく続いています。
 しかし、如何せん勉強嫌いなので一向に上達しません。「好きこそ物の上手なれ」は真理だと実感します。

 毎日のように奇抜な動画を投稿し続けるユーチューバーさんたちの溢れんばかりの才能を羨ましく思う今日この頃です。
 週に一度の投稿を目指した当ブログは、2年目は月に一度にペースダウン。さらに、3年目へのモチベーションは消えつつある今、自らの凡才ぶりに呆れんばかりです。

 何もない空間に、平面や立体、音や文字を出現させ構築していく「創作」という概念においては、楽曲を演奏することも原稿を執筆することも私には同じ意義を持つものに思えます。
 昔は書かれた言葉は、声に出して音にされることが前提であったそうですし、音が人々の心に語りかけるように響くことを経験している人は少なくないはずです。

 そんな先人たちが残した言葉や音に教えられ、励まされ、支えられながら、これからも生きていくのだろうと思います。
 庭石の下の土の中で、ひっそりと養分を作り続ける虫みたいな私が、苦し紛れに綴る言葉に目を通して下さった方々に感謝しつつ、新たな年を迎えたいと思います。

 よいお年を。。。



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