☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
並外れたもの、特殊なもの、想像を絶したもの、およそ人間ばなれした壮大なもの。
それらと対面するたびに人々は悪魔を借りて敬意を表してきたわけだ。
無名の名匠をそんな風に神格化した。世に知られた名作や逸品には、しばしば悪魔が関与している。
芸術伝説、また芸術家伝説には悪魔の影がちらついている。
『悪魔の話』池内紀(2013)講談社より
人がしたことを悪魔や精霊のせいにする傾向が人間にはあります。
日本でも、鬼が一晩で橋をかけた言い伝えなどがあり、人以外の心霊的な現象のおかげで様々な美術品(絵や彫刻、茶器等)が生み出されたことになっています。
昔、よく見ていたテレビアニメ《まんが日本昔ばなし》では、夢の中に仏や地蔵、神様が出てきてお告げをし、その通りにすると夢の中の話が現実に起こったりします。
夢のお告げの場合は、今回の疑問の主旨から少し逸れていますが、世の中に起こることは人間の仕業によることが多いのではないかと思う私はリアリストなのかもしれません。(自分ではそう思わないですけど...)
まるで生きているように見える人形を作ったり、聞く人が全員うっとりするような名曲を作ったり、見事な布地を織り上げたりといったことは、皆、人間が努力して成し得たことです。
それが何故か人の手柄にはならず、悪魔や鬼のしたことになってしまいます。その心理には何があるのでしょうか。
大昔、人類のテクノロジーがまだ未発達な時代に、橋をかけたり、水路を作ったりといった大規模事業は現在の何倍も大変なことであったと思います。
ですから、その大事業がやっとのことで完成した時には、思わず神に感謝するという気持ちが生まれるのはごく自然なことですが、鬼という邪悪さをイメージさせる存在のおかげにするのは、不思議なことのように感じてしまうのです。
苦労して完成させたからこそ、その後に壊れたり不具合が生じないように、お呪いの意味を込めて「鬼が作った」と人々が言い出したと考えることもできますが。
例えば、クラシック音楽の歴史の中で悪魔そのものと呼ばれたり、悪魔が憑いている、悪魔と契約したと噂された人物が何人かいます。
彼らは、人間ばなれした演奏技術、作曲手法で、人々を魅了したのですが、決して「神がかっている」とは評されないのです。
今で言うと、メジャーリーグで大活躍している大谷翔平選手を、「悪魔的だ」とか「悪魔に魂を売った」などと言う人はいないでしょう。
これにはもちろん、時代の移り変わりによる、政治や社会の変化、それに伴う人々の価値観や宗教観の変化、多様化などが関わっていると思われます。
もう、かなり前のことですが、日本国内で犯罪を犯して逮捕された外国籍の容疑者が、「私の中の悪魔がやったこと。自分は無実だ。」というようなことを言ったと報道されました。
このように、自分にとって都合の悪いことを悪魔のせいにする心理はなんとなく理解できるのです。
それが許されるかどうかはまた別の問題ですが、あくまでも心理状態が分かるということです。
しかし、素晴らしい芸術品を創造したということを訳の分からない悪魔の仕業にするより、むしろ自分の誇りとして周囲に自慢してもいいではありませんか。
人間の心理は謎に満ちています。
記録技術の乏しかった大昔ならば、時代を経るうちに、人々がそれを成し遂げた人物を忘れてしまい、「あれは鬼がやったんだよ」と言うようになったと考えられなくもありません。
いずれにしろ、現代ではそのような伝説が生まれることはもうないのでしょう。
悪魔や鬼が活躍していた時代は、今よりも生きやすい社会だったのでしょうか?
タイムマシンが開発されたら、今も残る数々の伝説が生まれた時代に行って、事の真相を確かめてみたいものです。
ヒトコトリのコトノハ vol.71
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●本日のコトノハ●
並外れたもの、特殊なもの、想像を絶したもの、およそ人間ばなれした壮大なもの。
それらと対面するたびに人々は悪魔を借りて敬意を表してきたわけだ。
無名の名匠をそんな風に神格化した。世に知られた名作や逸品には、しばしば悪魔が関与している。
芸術伝説、また芸術家伝説には悪魔の影がちらついている。
『悪魔の話』池内紀(2013)講談社より
人がしたことを悪魔や精霊のせいにする傾向が人間にはあります。
日本でも、鬼が一晩で橋をかけた言い伝えなどがあり、人以外の心霊的な現象のおかげで様々な美術品(絵や彫刻、茶器等)が生み出されたことになっています。
昔、よく見ていたテレビアニメ《まんが日本昔ばなし》では、夢の中に仏や地蔵、神様が出てきてお告げをし、その通りにすると夢の中の話が現実に起こったりします。
夢のお告げの場合は、今回の疑問の主旨から少し逸れていますが、世の中に起こることは人間の仕業によることが多いのではないかと思う私はリアリストなのかもしれません。(自分ではそう思わないですけど...)
まるで生きているように見える人形を作ったり、聞く人が全員うっとりするような名曲を作ったり、見事な布地を織り上げたりといったことは、皆、人間が努力して成し得たことです。
それが何故か人の手柄にはならず、悪魔や鬼のしたことになってしまいます。その心理には何があるのでしょうか。
大昔、人類のテクノロジーがまだ未発達な時代に、橋をかけたり、水路を作ったりといった大規模事業は現在の何倍も大変なことであったと思います。
ですから、その大事業がやっとのことで完成した時には、思わず神に感謝するという気持ちが生まれるのはごく自然なことですが、鬼という邪悪さをイメージさせる存在のおかげにするのは、不思議なことのように感じてしまうのです。
苦労して完成させたからこそ、その後に壊れたり不具合が生じないように、お呪いの意味を込めて「鬼が作った」と人々が言い出したと考えることもできますが。
例えば、クラシック音楽の歴史の中で悪魔そのものと呼ばれたり、悪魔が憑いている、悪魔と契約したと噂された人物が何人かいます。
彼らは、人間ばなれした演奏技術、作曲手法で、人々を魅了したのですが、決して「神がかっている」とは評されないのです。
今で言うと、メジャーリーグで大活躍している大谷翔平選手を、「悪魔的だ」とか「悪魔に魂を売った」などと言う人はいないでしょう。
これにはもちろん、時代の移り変わりによる、政治や社会の変化、それに伴う人々の価値観や宗教観の変化、多様化などが関わっていると思われます。
もう、かなり前のことですが、日本国内で犯罪を犯して逮捕された外国籍の容疑者が、「私の中の悪魔がやったこと。自分は無実だ。」というようなことを言ったと報道されました。
このように、自分にとって都合の悪いことを悪魔のせいにする心理はなんとなく理解できるのです。
それが許されるかどうかはまた別の問題ですが、あくまでも心理状態が分かるということです。
しかし、素晴らしい芸術品を創造したということを訳の分からない悪魔の仕業にするより、むしろ自分の誇りとして周囲に自慢してもいいではありませんか。
人間の心理は謎に満ちています。
記録技術の乏しかった大昔ならば、時代を経るうちに、人々がそれを成し遂げた人物を忘れてしまい、「あれは鬼がやったんだよ」と言うようになったと考えられなくもありません。
いずれにしろ、現代ではそのような伝説が生まれることはもうないのでしょう。
悪魔や鬼が活躍していた時代は、今よりも生きやすい社会だったのでしょうか?
タイムマシンが開発されたら、今も残る数々の伝説が生まれた時代に行って、事の真相を確かめてみたいものです。
ヒトコトリのコトノハ vol.71
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