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たかがシミ一つで…【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.78

2024年11月15日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!


 ●本日のコトノハ●
  整って特徴のない顔より、どこかチンケな顔をしている奴の方が、親しみやすいし印象も深い。
  どこか顔の造作に欠点を持っている奴は、顔そのものが名刺代わりになる。
  一度見たら忘れられない顔と人にいわれる奴なら、それに自分の魅力をつけ加えるのは、いとも簡単だ。
  だから、形成外科の先生たちには相済まないけれど、シミやアザを除去するようなことは別にして、
  鼻を高くしたいとか、二重まぶたにしたいとか思って、手術しようと考えている人は、
  いまの自分の顔の欠点を、逆活用できないかと考えてみなさい。
  それを思いつき、実践したとき、あなたはより魅力的に変身しているはずです。

 『あまのじゃく人間へ』遠藤周作(1987)青春出版社より


 左の目尻の下の方に、1円玉より少し小さいくらいのシミがあります。
 学生の時はあまり目立たなかったのですが、40代になった今は化粧をしようと鏡を見ると、そのシミが存在感を持つようになってきました。

 私は男兄弟の中で育ち、両親も特に私を「女の子扱い」をしなかったので、オシャレに目覚めることがなく、お化粧も肌の色を健康的に見せたり、清潔感があるようにする程度のことで、アクセサリーやブランド品にも拘りがありません。
 服装や髪型は身だしなみとして、周囲の人に不快な思いをさせないように配慮をしますが、予算の範囲内で自分に似合った物、気に入った物を買うようにしています。

 美容に関しては、そのくらいの意識しかないので、もっと「美しさ」に拘る女性たちと比べると、私は流行にも疎くて、オシャレに気を遣わない女だと思われていることでしょう。
 そもそも、私自身、自分を可愛く見せたり、美しく見せるということにあまり関心がない方かもしれません。
 子どもの頃には、父親から「髪をのばすな」「スカートをはくな」「運動靴で十分だ」などと言われ、まるで男の子のように育てられ、その当時の写真はどれも女の子が持つ特有の華やかさなど微塵も感じられない暗いものばかりです。

 音楽教室にやってくる小学生の女の子たちが、お姫様のような可愛い出で立ちでいるのを見ると、可愛いと思うのと同時に、羨ましいと思う気持ちがあります。
 彼女たちを見ると、ご両親の愛情を感じることができます。しかもそれは、特別の日にその時だけしか注がれない限定的なものではなく、ごく当たり前に日常的に与えられている愛情なのです。

 私の父の口癖は「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」でした。
 父にとって、女の子に可愛い服を着せることなど、人生の中で何の価値もないことだったのでしょう。
 子どもの時、私は服だけではなく、自分が欲しいものを親に買ってほしいとお願いすることがあまりありませんでした。
 お願いしたとしても、それは私のワガママだと言われて買ってもらえませんでしたし、ワガママはいけないことで、父を怒らせることだったからです。
 我が家では、子どもが親から何かを買ってもらえるのは、余程素晴らしいことをした対価としてで、兄たちと比べて何の取り柄もなかった私には、当然その権利がありませんでした。

 それはともかく、私が子どもの頃に「女の子らしさ」を求められなかったことは、残念でもあり、幸運でもあったと思います。
 なぜなら、「女の子ならば○○でなければいけない」という考えから自由でいられたからです。
 例えば、少しでも太ってはいけないという考え。女の子は10代のうちから、ダイエットに熱心だったりしますが、女の子が瘦せていなければならない決まりは本来ないはずです。(だからといって、太り過ぎは健康に害を及ぼしますが)

 他にも、二重まぶたに長い睫毛、長い爪にキラキラのネイルアート、きれいな肌や美しい髪。女の子が手に入れなければいけないアイテムは無限にあります。
 でも、必ずしもそれらのアイテムを手に入れなければいけないわけではないのです。
 にもかかわらず、そのいずれか一つを持っていないという理由だけで、その女の子は「女失格」と判定されてしまうこともあるのです。
 子どもの頃に、女の子扱いをされずに育った私は少なくとも、その「女であるかどうか判定」とは無関係でいることができました。

 そして、大人になり、ある程度の年齢になりますと、その「女判定」の判断基準はゆるくなり、やがてはもう必要なくなるということが分かってきました。
 「女であるかどうか判定」とはいったい何だったのか?いったいどこの誰が決めた判定だったのか?そして、誰が判断するのか?
 何の根拠もないのに、誰もがそれらに関してうっすらと共感性を持っていて、今でも好き勝手に自分の思う「女像」をSNSなどで主張するのです。

 私の顔にあるシミは、美容に対してなみなみならぬ情熱を持っている女性ならば、すぐにシミ取り手術を受けるでしょうし、手術以外の方法でもシミをなくすように努力すると思います。
 私も初めは、どうやってこのシミをなくそうか悩みました。しかしある時、鏡を見ながら指をあてて、シミを見えなくしてみたのです。
 すると、鏡の中の自分は、自分ではない別の人間に見えたのです。ただ一つのシミが消えただけで、まるで知らない人のように思えたのです。
 私は思わず慌てました。自分が自分でなくなっちゃうと感じたのです。たかがシミ一つでです。
 そんなのあってもなくても同じだろうと、他人は考えるでしょう。でも、私には知らず知らずのうちにそのシミが、いわば私を構成する必要不可欠な部品の一つになっていたのです。

 多分、この感覚は誰の共感も得ないと思います。
 顔のシミなんてない方がいいと誰でも考えるでしょうし、私も化粧をする時は、このシミの上に化粧下地やコンシーラーを塗って、シミの色が目立たないようにするくらいのことはするのです。
 目立たない方がいいけれど、完全になくなるのには抵抗があるという、自分でも理解できない矛盾があります。不思議です。

 それは私自身が、他人から美しく見られたいと望んでいない、もしくは、自分を美しいとは思っていないからかもしれません。
 ともかく、シミがない私の顔より、シミのある私の顔の方が「私らしい」と好感を持てるのは確かです。
 だからといって、美容整形をやめようと言うつもりはありません。
 他人から見ればネガティヴなものでも、自分にとってはポジティヴなものであるなら、それを大切に守ってもいいじゃないかと思います。

 日本の社会で生活していると、他人からどう思われるかということを気にしがちですが、誰でも好きな自分になるために、考えや行動を縛られることなく、自由でいられないものかと考えさせられる今日この頃です。



ヒトコトリのコトノハ vol.78


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