<右手は空に左手は彼女に>
世界は悪意に満ちていて、人は夢も希望も、欠片でさえ見出せなくなっていた。
聖なる獣として、大人になる迄に魂の契約が出来なければ、精霊白緑(びゃくろく)は神威を失い、ただの黄色い虎として生きるしかない。
それは白緑としての死を意味するのだ。
だからオルガは祈る。
その広い背に既に大人の印である縞が浮き上がって来ている。
もう時間がない。
樹々の声を聴き、小さな命を慈しむ事の出来る魂の契約者が見付からなければ、オルガは考える事の出来ぬ獣に成り下がるしかないのだ。
しっかり閉ざした筈の雨戸の隙間から、射るような朝の光が一筋、アルデノーマの寝るベッドまで差し込んで狙ったかのように、その顔を照らしていた。
彼は少しずつ顔をずらし、その追跡から逃れていたが、ついに壁際まで追い詰められ観念して身を起こした。
向かいの壁に掛かった古時計は既に朝の8時を過ぎている。
いつもの赤い上着を掴むとアルデノーマはさっさと身支度を始めた。
宿の朝食の時間は9時までだ。
時間に厳しい女将は1分でも遅れる事を許さない。
洗面所で簡単に顔を洗い、顔を上げると相変わらず暗い見慣れた顔が見返して来る。
アルデノーマは小さく微苦笑すると胸元に入れてあった眼鏡を掛け、さっさと部屋を出た。
「あら、ノマ。今日は間に合ったようだね。卵は二個にするかい?」
「一個でいい」
階段を降りて行くと、皿を片付けながら女将が話し掛けて来た。
フロースの宿の陽気な女将は無愛想なアルデノーマを気に掛ける事なく、てきぱきと厨房に入って行った。
宿泊者の好みの調理方法や追加メニューは全て頭に入っているのだ。
アルデノーマは適当に壁際の席に腰を下ろした。
愛らしい宿屋の娘が学校に行く前に簡単な手伝いをしている姿が目に入った。
体格と同じく大らかで肝の据わった女将とは違い、娘はおどおどして常に困ったような顔をしている。
柔らかいピンク色にも見える亜麻色の髪が、彼女が動くたびにふわふわと肩口で揺れた。
アルデノーマは娘が持って来た水が入ったグラスの中に映る自分の姿に気付く。
真っ黒な硬い髪と冷たい氷のような瞳。
娘とは相反した存在であるのは明らかだった。自ずと口許に微苦笑が浮かんだ。娘と張り合う事が馬鹿馬鹿しいのだ。
娘と自分は違い過ぎる。比べること自体が愚かなのだ。
アルデノーマはまるで作業のように、出された朝食を口に放り込み始めた。
食事を終えたアルデノーマに宿屋の娘から、彼が所属するギルド「ヴァランシェルド」のギルドマスター、パラディン、リュシロイから呼び出しが掛かっていると言伝を受取った。
リュシロイからの呼び出しなど今迄無かった事だ。
アルデノーマは不審に思いながら彼のいるギルドの事務所である部屋へ向かった。
軽くノックをすると予めこの時間に来ると予測していたのか、音もなく中からドアが開いた。
ギルドメンバーの誰かを予測したのだが、ドアの前に立っていたのは純白の猛獣、自分の肩よりも背が高いホワイトサーベルタイガーだった。名は「オルガ」。
彼女は数週間前から常にリュシロイの影のように付き従っている。
いつから居たのか、何故リュシロイなのか、双子の弟であるアルケミスト、リュサイアが尋ねてもリュシロイは笑うだけで何も語ろうとしなかった。
そのオルガが白い影のようにドアの横に立っていた。
獣の身体でどうやってドアを開けたのかは不明だが、アルデノーマは眉一つ動かさず無言で部屋に入った。
彼が入室したのを確認するとオルガは長い鞭のような尾で器用にドアを閉め、アルデノーマの横を通り過ぎ、窓の前に座るリュシロイの後ろに腰を下ろした。まるで彫像のようである。リュシロイが苦笑した。
「態々来て貰って済まなかったな」
アルデノーマは無言のまま頷いた。
本題に移れという意思表示であると理解したリュシロイは、社交辞令や前置きは一切省き、アルデノーマが入って来た廊下側のドアと違う、壁にあるドアに声を掛けた。
隣の部屋に誰か居るようだった。
大きな返事と共にドアが開き、その巨躯がまるで扉自体が小さいのだと言わんばかりに身体を縮ませ入室して来た。
至る処に凹んだ傷がある銀の鎧と身体より大きな塔のようなタワーシールド。
男は紛れも無く聖騎士、パラディンだった。
年齢は20代後半から30代前半だろう。小麦色の金髪は短く風に靡き、日に焼けた顔は人懐っこそうに柔らかく微笑んでいた。
しかしアルデノーマは本能で悟る。
彼はリュシロイとはタイプの違うパラディンだ。微笑みの裏側に何か途轍もない力を秘めている。
言い知れぬ寒気がぞくぞくと恐怖心を駆り立てた。しかし表には出さない。ただ射るように巨漢を見詰め続けた。
「彼はファンベルク。見ての通り聖騎士、パラディンだ。私の代わりに今後護りの要になって貰おうと思っている。その為、彼のレベル上げに付き合ってやって欲しいんだ」
アルデノーマは息を呑んだ。
今迄少人数のパーティ編成で迷宮に向かった事はある。しかし今回は二人切りなのだ。
こんな山のような巨漢とモンスターだらけの世界樹の迷宮に向かうのだ。アルデノーマは神経質そうに眉を潜めた。
しかしギルドの運営で手一杯のリュシロイが探索に出れない以上、パーティの防御の要であるパラディンの育成は必要不可欠だ。
今レベルでもスキル的にも適任なのは確かに自分。アルデノーマを指名したリュシロイの判断は正しい。
だがしかし。
「アルデノーマ殿、宜しく頼む」
ファンベルクが壊れ物を扱うかのように、遠慮がちに手を差し延べてくる。
大きな身体の癖に精一杯気を遣ってくれているのが分かる。
彼は無骨な男ではない。
何せこのギルドマスター、リュシロイが選んだ男なのだ。
きっと上手くやれる。
気付かれる事は無い。
アルデノーマは目を閉じ唇を噛み締めると大きく深呼吸した。
「僕のことは「ノマ」でいい。君の事も「ベルク」と呼ばせて貰う」
二人は握手を交わし、リュシロイは満足そうに微笑む。
そして簡単にお互いのレベル、スキル状況を説明すると、探索の手順、スキルの取得方法を的確に指示し始めた。
レべル上げは順調だった。
金は幾ら掛かってもいいと言う太っ腹なギルドマスターの言葉に、アルデノーマはアムリタを山ほど買い漁って探索に出掛けた。
まずはレベルの低いファンベルクが死なないように気を付けながら下の階層から上に進み、ある程度HPが高くなれば、一気に階層を上がった。
その内、元々HPの高めなパラディンである。
気が付けばアルデノーマのHPを追い越し、充分に彼を庇える位になっていた。
「そろそろ二人で第4階層に行っても問題ないかもしれない」
第3階層。
殆んどがアルデノーマの核熱の術式と大爆炎の術式で敵を一掃していたのだが、徐々にファンベルクの剣も敵に効くようになってきた。
とは言え、ソードマンやブシドーのように、滅殺出来る程の威力は無いのだが、討ち漏らした敵を片付けられる程には成長して来た。
そろそろ上の階層に行っても良い時期だろう。
ファンベルクは快く了解してアルデノーマを庇うように大きな盾を抱え、階段を昇って行く。
アルデノーマは二人で探索を始めてから、ずっと不審に思っていた事を遂に口にした。
「ベルク。何故君は僕を女扱いするんだ」
第4階層へ続く階段の途中、ファンベルクはゆっくりと後方を振り向いた。
その表情はまるでアルデノーマがおかしな質問をするなといったものだった。
幼い子供のように、不思議そうにじっとアルデノーマを見詰めてくる。
アルデノーマは頬を朱に染め、叫んだ。
普段の彼なら有り得ない事だった。
今回初対面で共に探索に出たファンベルクさえアルデノーマが大きな声を出すのを聴いたのは初めてだった。
「僕は女じゃないっ!ましてや、庇って貰わなくちゃいけない程レベルも低くない。寧ろ君をサポートして来た立場だ。それなのに、君は僕を深窓の令嬢のように扱う!とても不愉快だっ!」
そうなのだ。本来聖騎士パラディンは仲間を庇い、護る防御の要である。
しかしファンベルクは冒険者としてはまだ新米でレベルもアルデノーマに遠く及ばない。
それなのに、常にファンベルクはアルデノーマを庇おうとした。
スキルを習得すると更に庇った。
防御してくれていればいいと何度注意を促してもファンベルクは気が付けばアルデノーマを庇おうとした。
その内、ファンベルクのHPが上がりガード系のスキルレベルが上昇して来たので、アルデノーマが折れる形にはなったが、この二人切りのパーティではアルデノーマがパーティリーダーでもあるのだ。
リーダーの指示に従えないパーティメンバーは危険な存在だ。
アルデノーマは此処で彼の意見をはっきり聴き、街に戻った際、リュシロイに報告する義務がある。
折角育てたパラディンが使えなければ、今回の探索は無駄になる。
アルデノーマはファンベルクを凍て付いた目で睨み付けた。
しかし、その当人は問い詰められ、やっとその矛盾に自らも気付いたようで、自問自答しているようだった。
どうやら自分でも理由が分からない様子だった。暫くして彼は口を開いた。
「ノマ、済まない。君に不快な思いをさせてしまった事は謝罪しよう。だが、私にも何故君を護らなければと思ったのか、分からないのだ。確かに君は男でレベルも私より上だ。これからは心を入れ替えて、君の命令に絶対服従すると誓おう」
基本的にファンベルクは気のいい男なのである。
騎士に有りがちな頑固さも無く、間違いや非を素直に認められる柔軟さも兼ね備えていた。
そんな彼が何故無意識に自分を庇うのか。
その答えをアルデノーマは知りすぎる程分かっていた。
しかし、その答えを自ら与えてやる事は出来ない。
絶対に。
階段を昇り切ると、其処は一面の桜が舞う階層、第4階層だった。
アルデノーマは何度も訪れているので、見慣れた光景であるが、初めてハイ・ラガード公国の世界樹の迷宮に挑んでいるファンベルクは第3階層の雪の代わりに舞い散る桜の花弁に感激し、暫しその光景に魅入られていた。
アルデノーマもその広い背中に、自分の胴回り程もある太い腕を眺めながら、情緒を知る大男に微笑んでいた。
しかし、そんな二人の隙を狙い、モンスターは桜の幹の陰からアルデノーマに襲い掛かろうとしていた。
するとファンベルクの小麦色の髪が、まるで獣のように、急に逆立った。
アルデノーマも異様な雰囲気に咄嗟に術式が放てるように身構えた。
「ノマ!危ないっ!」
軍隊バチの群れだった。
アルデノーマも瞬時に大雷光の術式を放つ動作に入るが、間に合わない。
大きな針が二つ、華奢なアルデノーマの身体に狙いを定めていた。
自分が死ねばファンベルクの命もない。
折角上げたレベルが全て水泡に帰すのは我慢ならなかった。
長い探索でフォーススキルも100%になっている。せめて超核熱の術式を放ってやりたかった。
しかしアルデノーマの細い身体を包み込むように、巨漢が視界を遮る。
軍隊バチの太い針は二本とも彼、ファンベルクの背中に突き立てられた。
肉に棒が減り込むような嫌な音が当たりに響き渡る。
幾ら聖騎士パラディンだとしてもファンベルクはまだレベルが充分高い訳ではない。
小さく喘ぐ音がして、彼の口から大量の血が吐き出された。それでもファンベルクはアルデノーマを守り続けた。
次々と軍隊バチの針がファンベルクの背を貫いていく。
耐え切れないと言わんばかりに少女のようなか細い悲鳴が上がる。アルデノーマはそれから数分間、記憶を失くした。
十匹近く居た軍隊バチは無惨に引き裂かれ小さな破片になって、周囲に散乱していた。
まだビリビリと稲光が遺体から放たれている。荒い息を吐きながらアルデノーマは意識を取り戻した。
どれだけの回数、雷系の術式を放ったのか覚えていない。
人間とほぼ変わらない大きさもある軍隊バチは、落雷でもしたかのように、殆んどが黒焦げになっていた。
その雷の嵐の中心に立ち尽くしていたアルデノーマは部屋の隅に転がっているファンベルクに気付き、尽きたTPのせいで気を失いそうになるのを必死に堪え歩み寄った。
ファンベルクは生きて居た。
慌ててメディカを何個か使いHPを全回復させ、自分にもアムリタを使う。
暫くするとファンベルクは意識を取り戻した。
心配そうに顔を覗き込んでくるアルデノーマにいつもの柔らかく人懐っこい笑顔で応える。
アルデノーマはつい微笑み返してしまい、慌てて顔を取り繕った。ファンベルクが笑う。
「ノマ。君に私のパートナーを紹介したい」
此処には二人しか居ない。それなのに、パートナーなんてとアルデノーマが思ったその瞬間だった。
ファンベルクだった者は既に其処にいなかった。其処にいたのは見上げる程大きな黒い塊だった。
「驚かない辺り、合格と言った処か。オルガが推薦する筈だ」
その灰色熊グリズリーはアルデノーマを一飲みにしてしまう程大きな口を器用に開け閉めして、人間の言葉を話した。
そのファンベルクだった猛獣は優にファンベルクの2倍の身長はあるだろうか。
立ち上がれば3M以上あるかもしれない。
シャスの水色狼ジャスパーやリュシロイのホワイトサーベルタイガー、オルガの巨躯を遥かに超えている。
床に座った状態でさえ、立ち尽くしているアルデノーマより大きいのだ。
アルデノーマは驚いていないと言うより、言葉を失って放心しているのだ。
一体ファンベルクは何処に行ったのか。
この灰色熊は何故人間の言葉を喋るのか。
アルデノーマは無表情のままパニックに陥っていたのだ。
何も答えようとしないアルデノーマに状況を理解したのか、灰色熊は人間のように小さく溜息を吐くと、また瞬きをしない間に人間の姿、ファンベルクに戻った。
ぽかんと口を開けて穴が開く程凝視してくるアルデノーマにファンベルクは罰が悪そうに大きな身体を縮めた。
初対面の時を思い出された。アルデノーマは少し冷静さを取り戻した。
「私と彼、灰色熊のホレイショは一つの身体を共有している存在なのだ。共生者とでも言うのだろうか。私の一族はこうやって生まれながら獣と共生して来た。しかし、獣化した私達は戦に重宝され、次第にその数を減らしていった。だから故郷を出た後、私とホレイショは二人で話し合った」
「共生している事は秘密にしよう。…か」
ファンベルクはゆっくりと頷いた。信
頼してくれている。
命を懸けて自分を護ってくれたアルデノーマに対する信頼の証としてファンベルクとホレイショは、二人の秘密をアルデノーマに打ち明けてくれたのだ。
アルデノーマも二人の真摯な思いに応えたいと思った。
本能のまま自分を必死に護ろうとしてくれたファンベルクの思いにアルデノーマの頑なな心は突き動かされた。
「ベルク。ならば、僕も君に打ち明けたい秘密がある」
小さくアルデノーマの喉が鳴る。緊張していた。この事はギルドマスターにしか言っていない事なのだ。
今、ファンベルクとアルデノーマは真の仲間として新たに出逢い、再び始まろうとしていた。
ハイ・ラガード公国。
フロースの宿屋の一室、「ヴァランシェルド」のギルドマスター、リュシロイは執務室を離れ、隣の休憩室のソファで寛いでいた。
その背を覆うのは見上げるような巨躯。しかし全く重さは感じていないようだった。
太腿に掛かる白い毛並みをゆっくりと撫でている。気持ち良さそうに人の拳程ある金の瞳がうっとりと細められた。
ホワイトサーベルタイガーの容姿に良く似た精霊白緑は魂の契約者である聖騎士パラディンに寄り添って獣のように喉を鳴らした。
リュシロイが笑う。
「上手くいったと思うかい?」
リュシロイが独り言のように呟く。すると彼の心の中だけに精霊であるオルガの言葉が届く。
その返答に満足したのか、リュシロイがオルガの広い背中に凭れ掛かった。
戦闘では鋼のように硬いオルガの毛並みは人の手には羊のように柔らかだ。黒の縞が上品にその背を芸術品に仕上げていた。
「そうだね。私の選んだ二人だ。きっと大丈夫」
出逢いは運命。
偶然などない。
必ずいずれかの手は出逢うべき誰かの手を握る為に常に伸ばされているのだ。
ファンベルクとアルデノーマは出逢った。これから二人の歴史は二人で作っていけばいいのだ。
<了>