昨日書いたこちらの記事
ドラえもんレベルで
時間や距離までをある意味
手軽に使いこなせるようになってしまった
超デジタル化が進んだこの現代社会の中で
豆まきをする
すごい対極にありますよね。
こんな一年で一番寒い時期に窓を開け放し
近所に聞こえるような大きな声を出して
豆を投げる
究極のアナログですね
でも
とても素敵だなって思います。
映画とかのストーリーにも似ている感じがします。
世の中が進んで
便利で快適な世界になって
みんなで楽しく平和に暮らしている
そこに
鬼が突然表れて平和な世界が一変してしまう
現代科学でできるあらゆる手をつくしても
鬼は全然平気で
このままだとそのコミュニティまたは、社会が絶滅してしまう
みんなが困ってしまい
長老に相談する
その長老が話し出す
昔こんな言い伝えを聞いたことがある
遥か彼方の
氷の世界にそびえ立つ
人の顔に似ている山のてっぺんまで登り
氷が吹き晒す中立ち尽くし
祈りの言葉を
あらん限りの声を振り絞って叫び続ける
そうすると
目の前に鬼のような巨人が現れる
巨人がだんだん近づいてくる
でも声を出して祈り続ける
やがて巨人の顔しか目に入らぬくらいに巨人が近づく
それでも祈りを叫び続ける
そして、巨人は口を大きく開き
口から赤いよだれが垂れ落ちる
その時に
手に持っていた
大豆の種を口の中の一番奥めがけて投げつける
すると。。。。。
鬼は消滅し、世界は再び平和になった
しかし、その勇者は帰ってこなかった
こんな命がけの行動を誰がやる?
俺が行く!
と言うパターンなのか
あいつしかいない!
のパターンなのか
人々の願いを受け取った一人の人間が行動を始める
どんなSF設定の世界だろうが
最後は
人間の持っている
力で
何とかするというストーリーなんですね。
最後はアナログ
それを成し遂げる大切な要素が3つあって
一つは 勇気というか強い心ですよね。
一つは 長老のような昔からの言い伝えられている言葉、伝承されてきたもの
そして
言い伝えに似ているかもしれませんが
祈り というか 神様のような大きなものの存在を信じる思い
この3つがバランスを持って世の中での様々な困難を乗り越えてきたのではないかと思うのです。
そう思ってみると
2022年現在
時間や距離までをある意味使いこなせるようになってしまった私達
3つのもののバランスを取りにくくなってきてしまっていると思うのです。
情報化社会においては
昔とは異なり
自分が受け取る情報は
自分が決める場合が増えてきています。
テレビ離れが進んでいるとよく話に出てきます
何事にも一長一短はありますが
テレビの持っている一つの大切な要素は多様性だと思うのです。
一つの番組を作るために何人もの人が集まり
様々な立場から考えを練り合って番組が作られます。
なので
出来上がった番組にも
自分が楽しめる部分もあれば
全然興味がない部分もあり
それ違うんじゃないかなと言う部分もあります。
でも
毎日なのか毎週なのか
見続けていくことで
自分とは違う考え方や意見が存在するという認識は持てますよね。
少なくとも
自分はその考えは気に入らないけれど、その考えを支持する人もたくさんいるという状態を受け取っているのです。
世の中には色々な考えがある
自分の考えも色々の中の一つなんだ
と受け止められるので、他の人とのコミュニケーションや共同作業も成り立っていきます。
ところが
テレビを見ない代わりに
様々な人によって発信されているSNSを中心に見ていると
自分がお気に入りの番組
自分が面白い番組
自分がいいと思う番組
で自分の世界が固まってしまいがちになります
これは怖いです。
自分の好みとは違う じゃあ見ない
自分は面白くない じゃあ聞かない
以前なら当たり前だった
多様性の中に自分が生きている という現実ではなく
自分のお気に入りの世界の中に 自分の生活も思考も入れてしまう
自分が好きな人、気に入った人の発言は、そのまま受け入れるけど
他の人の発言には耳を傾けない
自分自身がどちらかというと
こういう傾向が強かっただけに
いろいろな人の言う内容をよく聞かないで
誰が話しているのかというレッテルだけで
勝手に判断してしまっていました
でも
自分の場合には
かろうじてささやかなバランス感覚も残っており
その原因は
田んぼ作業とかで
おじいちゃんおばあちゃんが
稲穂をとことん拾う姿を見たり
お茶碗にはご飯粒を残さないという口癖を何回も聞いたりしてきて
こういった経験なのです。
今も
落穂拾いには精を出していますし
お米を研ぐときには絶対にお米粒を落とさないようにしていますし
こういう言い伝えとかおじいちゃんおばあちゃんなどの大事にしている実際の姿は
自然としみ込んでいますね。
だからこそ
アナログ的な
豆まきのような行事には
それを行うだけで
非言語的なものが
色々と
入っていくように思います。
こんなにも便利な高度情報化デジタル社会だからこそ
豆まきのようなアナログ的な伝統行事は
本当に
大きな
意味を持っているのだと思います。
超越した大きな存在を
感じるのは
私達の心や感覚にしかできませんものね。
そんな部分を心や身体や精神の中に入れておくからこそ
畏敬の念も持てるし
謙虚なあり方もどこかに育まれているのだと思います。
時間や距離までをある意味
手軽に使いこなせるようになってしまった
超デジタル化が進んだこの現代社会の中で
豆まきをする
すごい対極にありますよね。
こんな一年で一番寒い時期に窓を開け放し
近所に聞こえるような大きな声を出して
豆を投げる
究極のアナログですね
でも
とても素敵だなって思います。
映画とかのストーリーにも似ている感じがします。
世の中が進んで
便利で快適な世界になって
みんなで楽しく平和に暮らしている
そこに
鬼が突然表れて平和な世界が一変してしまう
現代科学でできるあらゆる手をつくしても
鬼は全然平気で
このままだとそのコミュニティまたは、社会が絶滅してしまう
みんなが困ってしまい
長老に相談する
その長老が話し出す
昔こんな言い伝えを聞いたことがある
遥か彼方の
氷の世界にそびえ立つ
人の顔に似ている山のてっぺんまで登り
氷が吹き晒す中立ち尽くし
祈りの言葉を
あらん限りの声を振り絞って叫び続ける
そうすると
目の前に鬼のような巨人が現れる
巨人がだんだん近づいてくる
でも声を出して祈り続ける
やがて巨人の顔しか目に入らぬくらいに巨人が近づく
それでも祈りを叫び続ける
そして、巨人は口を大きく開き
口から赤いよだれが垂れ落ちる
その時に
手に持っていた
大豆の種を口の中の一番奥めがけて投げつける
すると。。。。。
鬼は消滅し、世界は再び平和になった
しかし、その勇者は帰ってこなかった
こんな命がけの行動を誰がやる?
俺が行く!
と言うパターンなのか
あいつしかいない!
のパターンなのか
人々の願いを受け取った一人の人間が行動を始める
どんなSF設定の世界だろうが
最後は
人間の持っている
力で
何とかするというストーリーなんですね。
最後はアナログ
それを成し遂げる大切な要素が3つあって
一つは 勇気というか強い心ですよね。
一つは 長老のような昔からの言い伝えられている言葉、伝承されてきたもの
そして
言い伝えに似ているかもしれませんが
祈り というか 神様のような大きなものの存在を信じる思い
この3つがバランスを持って世の中での様々な困難を乗り越えてきたのではないかと思うのです。
そう思ってみると
2022年現在
時間や距離までをある意味使いこなせるようになってしまった私達
3つのもののバランスを取りにくくなってきてしまっていると思うのです。
情報化社会においては
昔とは異なり
自分が受け取る情報は
自分が決める場合が増えてきています。
テレビ離れが進んでいるとよく話に出てきます
何事にも一長一短はありますが
テレビの持っている一つの大切な要素は多様性だと思うのです。
一つの番組を作るために何人もの人が集まり
様々な立場から考えを練り合って番組が作られます。
なので
出来上がった番組にも
自分が楽しめる部分もあれば
全然興味がない部分もあり
それ違うんじゃないかなと言う部分もあります。
でも
毎日なのか毎週なのか
見続けていくことで
自分とは違う考え方や意見が存在するという認識は持てますよね。
少なくとも
自分はその考えは気に入らないけれど、その考えを支持する人もたくさんいるという状態を受け取っているのです。
世の中には色々な考えがある
自分の考えも色々の中の一つなんだ
と受け止められるので、他の人とのコミュニケーションや共同作業も成り立っていきます。
ところが
テレビを見ない代わりに
様々な人によって発信されているSNSを中心に見ていると
自分がお気に入りの番組
自分が面白い番組
自分がいいと思う番組
で自分の世界が固まってしまいがちになります
これは怖いです。
自分の好みとは違う じゃあ見ない
自分は面白くない じゃあ聞かない
以前なら当たり前だった
多様性の中に自分が生きている という現実ではなく
自分のお気に入りの世界の中に 自分の生活も思考も入れてしまう
自分が好きな人、気に入った人の発言は、そのまま受け入れるけど
他の人の発言には耳を傾けない
自分自身がどちらかというと
こういう傾向が強かっただけに
いろいろな人の言う内容をよく聞かないで
誰が話しているのかというレッテルだけで
勝手に判断してしまっていました
でも
自分の場合には
かろうじてささやかなバランス感覚も残っており
その原因は
田んぼ作業とかで
おじいちゃんおばあちゃんが
稲穂をとことん拾う姿を見たり
お茶碗にはご飯粒を残さないという口癖を何回も聞いたりしてきて
こういった経験なのです。
今も
落穂拾いには精を出していますし
お米を研ぐときには絶対にお米粒を落とさないようにしていますし
こういう言い伝えとかおじいちゃんおばあちゃんなどの大事にしている実際の姿は
自然としみ込んでいますね。
だからこそ
アナログ的な
豆まきのような行事には
それを行うだけで
非言語的なものが
色々と
入っていくように思います。
こんなにも便利な高度情報化デジタル社会だからこそ
豆まきのようなアナログ的な伝統行事は
本当に
大きな
意味を持っているのだと思います。
超越した大きな存在を
感じるのは
私達の心や感覚にしかできませんものね。
そんな部分を心や身体や精神の中に入れておくからこそ
畏敬の念も持てるし
謙虚なあり方もどこかに育まれているのだと思います。