人の心には、普通、たくさんの扉があります。
それは生まれたてのときにはなく、大人になるに従って増えていくのです。
例えば、
『私は頭がよくないから、お金持ちにはなれない』
『子供は親の面倒をみなくてはならない』
『家庭は女性が支えなくてはならない』
もうちょい現代的にしますと、
『親は子供の負担になってはいけない』
『家事は夫婦で協力しなくてはならない』
『いつでも連絡がとれるようにしなくてはならない』
こういう、『〜しなくてはならない』ということは、人間社会を生きる上で身につけてきた〘常識〙であり、〘思い込み〙です。
常識というものは、社会が作り上げたルールです。
法律と常識の共通点は、『守るべきこと』として運用される部分のみ。
法律は、遵守しなくてはならないもの、ではなく、〘法律を遵守することで、法律が守れる範囲内において適用者を守る〙を自分自身に当てはめて守ってもらうために遵守するものです。
それは、一方的に守るだけのものではなく、守ることで守られるワケです。
一方、常識やマナーは、
〘その社会における常識を守る者と守らない者とにふるい分けるためのメーター〙
としての活用になります。
『その土地や地域などのコミュニティのルールを守らないものは、そのコミュニティに加えない』
ということですね。
日本によらず、昔は社会での協力関係が生きる上で重要でした。
狩りをするもの、農業をするもの、子供を育てるもの、知識を持ちうるもの、公益をするもの。
それは、コミュニティというまとまりがなければうまく回らないものでした。
組合、仲間、組内、呼び方はいろいろですが、必要だったから作られたものです。
…そう、それは歴史の中で最初からあったのではなく、どこかで作られ、時代と共に形を変えてきたものです。
そこに縛られる必要はなく、『守らなくてはいけない』ことはないのです。
必要なものは、守ろうとしなくても存続するもの。
壊れるものは、不要なものです。
自分が属しているコミュニティが壊れても、心の扉が開くかどうかは話が別です。
例えば、嫁ぎ先の地域のコミュニティに参加させられ、イヤだイヤだと言いながら、それでも参加していて、あるとき、そのコミュニティがなくなってしまう。
その時は解放感があり、喜んでいたのに、心の扉は〘コミュニティに縛られる〙ことを〘当たり前のこと〙としていたとき、自ら別のコミュニティに参加する。
口にしていたこと、表層意識で考えていたことが、【自分の信じること】と違うという例です。
長いし理屈っぽいから読みにくいですね(笑)
でも、きっと、…、この話が誰かの心の鍵になることを信じています。
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