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熊本から気ままに山と自転車のブログ

津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町塚古墳

津袋古墳群茶臼塚古墳
2021/12/22(水) 晴

今日は、最高気温予報17°の暖かさと晴天の天候に午前10時半前からポタリングに出る。
目的地は、津袋古墳群茶臼塚古墳・神来貴船神社・神来六地蔵とする。

熊鹿ロードを北へ走り、鹿本商工高校の所から一般道に右折し、来民商店街を抜けて、国道325を横断して一本松公園へ向かう。
一本松公園麓から公園を望むと、茶臼塚古墳と一本松(写真1参照)が重なって見える。元墳頂にあった頃の景観を意識して植えられたか。松の右陰に石仏の祠も見える。


一辺25m、幅2.9m、深さ1.45mの周溝(礫部分)が巡る方墳(写真2参照)である。


南側からの景観(写真3参照)。松は周溝の外の縁ギリギリの所に植えられていた。


東北からの景観(写真4参照)。説明板が設置してある。


昭和5年に撮影された写真(写真5参照)が掲示してある。
「この写真は昭和5年(1930)頃に撮影された茶臼塚古墳です。
松はこの地域のシンボルとして人々に愛され、「一本松公園」という名の由来となっているほどです。その後この松も枯れてしまい、同じ場所に植えられていましたが、平成19年に枯れてしまいました。今回は、古墳の内部を保護するため、古墳の外に植えています。」とある。


説明盤(写真6参照)には、「茶臼塚古墳。この古墳は、七基からなる津袋古墳群の中の一つで、4世紀後半から5世紀初めに築造されたと推定される方墳である。
墳丘の内部主体は不明であるが、竪穴式の墓壙の存在した可能性も考えられる。
周囲には、一辺の長さが25m、幅2.9m、深さ1.45mの四角な周溝が巡り、溝を渡る土橋は、東側に設けられている。昭和45年の鹿本町教育委員会にる周溝確認調査時に、周溝底から土師の壺一個が出土した。
このような方墳は九州内では珍しく、県内にも数例しか存在しない貴重な文化財である。
この古墳は、御宇田台地の周縁部の眺望絶佳の地にあり、南北朝時代に九州探題の今川了俊の手植えの数代目と伝えられ、地元では「一本松」の愛称で親しまれている。
この度の古墳修復にあたり、墳丘の現況を損なわないように配慮すると同時に、周溝の位置を明示する事とした。

小町塚古墳。この古墳は、七基からなる津袋古墳群の中の一つで、茶臼塚古墳についで築造された5世紀の古墳である。
現在、周囲を削り取られて直系9mの小円となっているが、平成3年の県文化課の調査の結果、幅1.9mの周溝をもつ直径23.7mの円墳であることがわかった。
内部主体は、凝灰岩製の石棺と、安山岩製の箱式石棺が埋蔵されているようであるが、未調査のためはっきりしない。「肥後国史」には、内部主体について「コノ辺ニ小町塚トテアリ、小野小町カ塚云フ、甚タ信ズルニ足ラズ、何人ノ塚ナルヤ不分明」続いて「コノ小町塚、明和元年(1764)ニ崩壊ス、石棺アリテ中ニ骸二ツアリ、朱ヲ以テ詰タリ、見ル者祟リアリ故、マタ元ノ如ク塚ヲケリト云フ」との記述があり、過去に開棺したことが知られる。
このたびの古墳修復に当り、周溝の位置に礫を敷き、古墳築造当時の規模を明らかにした。平成3年3月鹿本町教育委員会」とある。


一本松公園を後にして、菊池市神来(おとど)地区に移動する。

(追記・訂正:2022.1.1)
2015.12.2の探訪記で、茶臼塚頂きの石仏の手が写真では合掌をしているようなので「弥勒菩薩?」ではとしていましたが、2021.12.22の写真をトリミングして確認(写真7参照)したところ、「右手が左手の指を包むような形を智拳印(ちけんいん)といい、大日如来独特の印相」(「仏さまのハンドサイン」ー彼岸寺ホームページ)のようなので、訂正させて頂きます。



茶臼塚古墳・小町塚古墳
2015/12/2(水) 曇/雨

5日ぶりの自転車は、午後から雨予報に無難を期して、山鹿市菊鹿町津袋古墳群の一つ茶臼塚古墳および小町塚古墳を目的地と決めて北へ行く。
ルートは、熊鹿ロード植木温泉から合志川堤防道路を芦原へ走り芦原橋を渡る。
中富小学校を目標に田園の中を走り、小学校前を通り中川橋で菊池川を渡り来民町へ。
国道325を横断し、清浦奎吾記念館前を通り一本松公園(写真1参照)に到着する。
南側の駐車場から30mほどの標高差の丘を、自転車を担いで登る。


とんぼ返りで帰宅する予定で来たが、お昼も近いので売店で菓子パンを一つ買ってエネルギ-補給して、公園内を歩く。
この公園のシンボル石の風車(写真2参照)の前を通る。製作者の意思は何か?
石のような重いものでもバランスを取れば、微力(風力)でも動くよ!ということか?


振り返ると、そこに目的の茶臼塚古墳(写真3参照)がある。


茶臼塚頂には、大日如来(写真4参照:2022.1.1訂正)が鎮座して御座る。
茶臼塚古墳の場所:(マップファン地図)



その東側に小町古墳(写真5参照)がある。手前の砂利のサークルが本来の大きさと言う。
本来の大きさのままで残っていれば、圧倒的な存在感があったであろうと想像する。


東側に廻って見る(写真6参照)
露出している石が石棺の蓋の一部か?


標柱説明書(写真7参照)によれば、茶臼塚古墳の後6世紀の築造という。
小町塚古墳の場所:(マップファン地図)


帰路は、雨中の走行となった。
この時期の雨は冷たい。
数年前に、牡蠣焼きを食したいと佐賀県太良町まで行った時のことを思い出した。
今日はずぶ濡れになる前に帰宅しようと急ぐ。

今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)28km→茶臼塚古墳28km→熊本(自宅)
所要時間4時間(実3.5時間) 総計56km 走行累計13,984km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
刮目天 一(はじめ)さんへ ご連絡有難うございます。
じっくり拝読させていただきます。自転車くま
刮目天 一(はじめ)
ご無沙汰しています。
お元気そうで何よりです。
ところで先日、以前に教えていただいた茶臼塚古墳ですが、その折は大変ありがとうございました。
その周りに猿田彦大神の石碑をたくさん見つけましたが、どうも御宇田神宮で見られる形式の石碑が古墳の周りのこの地区で多数見られました。面白いことが分かりましたので、お時間があるときにお越しください。お邪魔しました。
刮目天 一(はじめ)
あ、丸山2号墳、分かりました!あなたのブログに詳しくありましたね。真ん中の家形石棺の方墳ですね。
どうも失礼しました。
刮目天 一(はじめ)
早速、貴重な情報をありがとうございます。
南東よりも南側でしたら、やはり石仏はうてな遺跡を見ているということですね(^_-)-☆

うてな遺跡の調査報告書を見たところ、うてな古墳は直径30mの円墳とありましたので、弥生後期後半であれば狗古智卑狗配下のムナカタ族のもののようですよ。族長レベルは100mクラスの円墳ですから、その下のクラスの有力者のものだと思います。倭国の襲撃で戦死した部隊長クラスのものですかね(^_-)-☆

方墳が数多くあるとおっしゃられた塚原古墳群をGoogleMapで見たところ、きれいに復元されていますね。「だいぢのEasyBassing」というブログ「国指定史跡 塚原古墳群 (熊本県熊本市)」を拝見しましたが、4世紀から6世紀のもののようですね。前方後円墳はヤマト王権の支配の印で、円形周溝墓が結構見られますから、火の君は物部系ですかね。一番大きいと言われる丸山2号墳というの三段塚古墳のことでしょうか?公園の看板に描かれた右下の方にある3基の古墳の一番右側の円墳です。真ん中と左のものは方墳のようですね。真ん中の物は家形石棺とあるので、古墳中期でしょうか?左の方墳は少し小ぶりですね。
また、いい情報があればお願い致します。
asotakadakedake1592
刮目天 一(はじめ)さんへ コメント有難うございます。
御推察のとおり、古墳は、石の風車を背にしていますので東南方向を向いています。その先が台台地方向であることは間違いありませんが、ピンポイントで台(うてな)古墳かどうかまでは確認していません。石仏の手の組み方について以前調べた記憶はあるのですが、この石仏を弥勒菩薩と確定するためだったかどうか正確な記憶が残っていません(笑)。台古墳も、麓の道の駅「水辺プラザかもと」からよく見えます。
方墳は、塚原古墳公園にもあります。この古墳群の北側に方墳が多数あります。その中でも丸山2号墳は一番大きく高い所にあります。(塚原古墳公園②参照ください)自転車くま
刮目天 一(はじめ)
どうも有り難うございます。お陰様でようやく記事にできました。何かありましたらお願いします。

このところ、GoogleMapと地理院地図のツールを使って4・6時中検討していますが、石仏の向きは写真2と3から見ると、真南の一本松の方向ではなく、若干東側のように見えます。ひょっとして南南東約3kmの「うてな遺跡」を向いてませんか?国土地理院のURLは以下のとおりです。どうでしょうか?
https://maps.gsi.go.jp/#14/32.992266/130.766882/&base=ort&ls=ort&disp=1&vs=c1j0h1k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m&hpos=33.012836,130.749780
もしも「うてな遺跡」を向いているのでしたら、そこで戦死したことを示唆していますね。ついでの折で結構ですので、石仏の手の印までは分からないとは思いますが、それも含めてお教えいただけると有り難いです。虫の良い話ばっかりで恐縮ですが、何かのついででいいですので、どうぞよろしくお願い致します。
asotakadakedake1592
刮目天 一(はじめ)さんへ 丁寧な御礼のお言葉、恐縮です。
自転車は、私の健康とストレス解消の手段でして、逆に、走る動機付けを頂きまして有難うございます。
墳頂の「弥勒菩薩?」は、根拠薄弱ながら何らかの根拠があって書いたものと思いますが、その根拠が思い出せません。「?」が取れるように調査してみます。自転車くま
刮目天 一(はじめ)
早速素晴らしい写真をアップしていただき感激です。
寒い中、時間を費やして頂き、何十キロも労力をおかけし、
大変申し訳ありません。
こちらの方の記事は、ずぼらで、なかなかまとまりませんが、
今週中にはと考えています。
またよろしくお願い致します。どうも有難うございました。
刮目天 一(はじめ)
ぶしつけなお願いにも拘らず、早速のご快諾、心より感謝いたします。今年最後の重要な発見ですので、現在内容をいろいろ練っています。ですので今少しかかりそうです。また、疑問点などありましたら遠慮なくお願い致します。今後ともどうぞよろしくお願い致します。どうも有難うございました。
asotakadakedake1592
刮目天 一(はじめ)さんへ コメント有難うございます。
近頃は古代史の読書から遠ざかっておりますが、「刮目天の古代史ブログ」はいつも興味深く拝読いたしております。
当方のブログ記事紹介と写真転載の件、承諾致しました。写真は曇天の日で写りがよくありませんので、後日晴天を見計らって撮って、このページにアップ致したいと思います。よって、差替えてお使いいただいても結構です。
手前こそ、宜しくお願い致します。自転車くま
刮目天 一(はじめ)
いつも興味ある情報をありがとうございます。
大国主久々遅彦の父の先代久々遅彦の墓を探していますが、津袋茶臼塚古墳がこの地区の古墳群の中で一番古く、最も高い場所に築造されている1辺約20mの方墳だと知り、狗古智卑狗のものかと考えていたところ、なんと貴ブログに墳頂部に置かれた石のお堂が弥勒菩薩?とありましたので、ここに間違いないと確信しました。弥勒菩薩は大国主の本地仏ですが、先代の本地仏でもあったようですね。つきましては、この記事を拙ブログで紹介させていただき、この写真も使わせていただけると幸いでございます。

なお、この発見はわたしにとって非常に重要なもので、魏志倭人伝で狗奴国の王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が倭国大乱で大活躍したと推理しています。大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器の製造のために当時の最先端の軍事コンビナートを作り、さらに菊池川流域に方保田東原遺跡・うてな遺跡を築きました。ここを最前線基地として、佐賀平野・筑紫平野を襲撃して倭国王を相当、苦しめていたと推理しています。
 しかし、204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので、倭国王がその支援を受けて菊池川流域の集落を攻略し、狗古智卑狗を討って戦局を引っ繰り返したと推理しています。
 それによって、王を失った縄文海人ムナカタ族の玄界灘を支配していた赤坂比古の一族(後の和邇氏の祖)が倭国王に懐柔され、一族の姫巫女による太陽神の神託に従って政治を行うことを条件に狗奴国を裏切る申し出を受諾したと推理しました。魏志倭人伝では女王卑弥呼の共立とされていますが、政治的な理由でそのように書かれたと推理しました。ということで、この場所に先代久々遅彦の墓があれば、この仮説を支持する重要な発見になります。

突然のお願いで、誠に恐縮でございますが、ご検討の程、どうぞよろしくお願い致します。
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