2018/12/12(水) 晴
今日は、午後からポタリングする時間が出来た。
久しぶりの自転車だから、往路を強い北風に身を任せて、復路の向かい風を覚悟で南に向かう。
城南町今吉野から、国道266を右折して旧道を進む。
と、左手に古代幹道球磨駅跡(写真1参照)の案内表示板が見えたので立ち寄る。
隈庄の隈(=球磨)とは、卑弥呼の邪馬台国と対峙する狗奴国ではないかと思う。
ヤマトタケルが征伐した熊襲とは、球磨国と曾於国を一括した九州の総称と解釈している。
神話では、ヤマトタケルが熊襲タケルから「これからはタケルを名乗れ」と称号を譲渡されるが、タケルとは当時の最高権力者の称号と思われる。ヤマトタケルは九州に来ていないという説もあるが、権力の譲渡の話であることには間違いないと思う。
現在の説明板(上・写真2参照)は劣化して判読不能なので下記(2015/1//9/)写真を参照する。
古代幹道がここから南へ薩摩・大隅へ至る道と、宇土半島を通り島原・天草へ至る道が分岐しているとある。
幹道整備以前にもこのルートはあったものと思えるので、古代国家の中心的地域がこの隈庄近くにあったのではないかと推測する。
球磨駅家跡・七所宮
2015/1/9(金) 晴
一昨日に続いて、午後から熊本市南区城南町探訪に出る。
城南町宮地にあったであろうという「国府跡」の痕跡を求めていってみることにする。
国道266を舞原台地手前で右折し、台地の麓を西側に廻り込む。
「宮下」という標識があった。
「七所宮」下ということあろうと思い、左折して台地に向けって坂道を上ると、「球磨駅家跡」(写真1参照)の表示板があった。
大宰府政庁に繋がる古代の往還の駅家跡である。
この表示板から台地の上を少し東へ行き左折すると「七所宮」(写真2参照)がある。
早速境内の由緒書(写真3参照)を見る。
宝亀元年(西暦770年)阿蘇神社から勧請した六社に、鶴岡八幡宮か ら1社を勧請し「七所宮」というとある。
宝亀年間の国府は託麻国府の時代であるので、ここに国府があったとすれば、託麻国府が水害で崩壊後、ここ「七所宮」に一時避難場所として間借りしたのか他に建設したのか?その後国府は飽田に移転していった。
肥後国の国府の変遷については、「託麻→益城→飽田」説と、「益城→託麻→益城→飽田」説とがある。
浜戸川上流の「陣内廃寺」は白鳳時代(7世紀末)に建設された国分寺の前身であるという。ならば、聖武天皇が天平13年(741年)に命じた国分寺を備える託麻国府は、その後の建設となり、「益城陣内→託麻→益城宮地→飽田」となる。
浅学の私ごときがおこがましいとは思うが、現地を廻った直感で仮説を立てれば、当初宮地に国庁(国府?)、陣内廃寺が後ろ備え、その後国府は託麻に移転、跡地に阿蘇六社を勧請、託麻国府水害で一時避難として元の宮地に仮設、飽田国府建設で移転したと考えてみた。
(この段の参照ページ:「陣内廃寺」熊本県庁HP、「肥後の国の国府」熊本国府高等学校HP、ウィキペディア「国府」「国分寺」)
また、陣内地区に土塁とも思える盛上がった場所があるが、国庁(国府?)の土塀跡か中世の陣内城の防塁跡かと思う。
「七所宮」には、浜戸川傍に「下宮」「古町」という地名があると由緒書にある。「下宮」は河湊で古町は湊町だったのか?
青銅器の出土状況といい、古代より栄えた地域であったことは間違いないと思う。
その辺の歴史変遷が明らかになれば、歴史好きの一人としは堪らなくうれしいと思う。
宮地を後にして隈庄橋を渡り、東進して塚原歴史資料館に向かう。
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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