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ATELIER M

日本経済新聞のコラム『春秋』

2023-04-19 | 論評
安田恵子さんという方が自分自身について「日本経済新聞のファン」であると述べて、日経新聞のコラム『春秋』を絶賛している文を読んだ。2018年に書かれた文のようだ。( https://www.f-academy.jp/contents/column/?p=16763 )
この安田さんという方は、紹介文によると

ファイナンシャルアカデミー認定講師。「経済入門スクール」「経済新聞の読み方スクール」で教壇に立つ。ファイナンシャルプランナー・マネーマネジメントコーチ・ヘルスフードカウンセラー。「食と健康とマネーを兼ね備えたライフプランニング」が得意。
大手保険会社の法人営業、英会話学校でのマネージメント業務を経て現職。経済新聞購読歴20年超。

とのことである。
私は日本経済新聞の『春秋』というコラムは、薄っぺらで何の信念も無い、下劣なコラムだと思っているので「え!?あんなもの、どこがいいの?」と思いながら読み進めると、『「春秋」を読んでいていつもうまいな〜と思うのはそのときの時事ネタからスタートして、締めの部分、つまり結論は、我々が考えなくてはいけないトピックや社会問題に絡めていくところです。例えば小室哲哉さんが音楽活動から退く旨を表明した話からスタートし、介護離職についての問題で締めくくっていたり(2018年1月23日朝刊より)、2003年に流行したもの「韓流ブーム」、SMAPの「世界に1つだけの花」などという冒頭から、その年に生まれた将棋の藤井聡太四段や卓球の張本智和選手などの活躍の話と間もなく終わる平成の約30年間の経済の話を絡めていたり(2018年1月24日朝刊より)、少し前になりますが、ネコ型ロボットの代表が「ドラえもん」イヌ型ロボットの代表が「アイボ」という話から、ソニーの経営の話に発展していくのも興味深い感じでした。』などと述べていた。

まず私が思ったのは、この安田という人は、20年も経済新聞を購読しているのに、かつて日本経済新聞が小室哲哉さんのことをどれだけ『春秋』の中で侮辱したか、知らないのだろうか?ということだ。『春秋』は2008年11月5日に、小室さんが吉田拓郎氏に対して「あ、売れる方程式ですか?”ディスコ、プラス、カラオケ割る二”なんですよ」と言ったという「小室哲哉音楽対論2」の記述について、以下のように述べている。

「なるほど、この方程式を武器に売りまくったのか」
「2000年代に入るとさっぱりだった」
「その後は、何を割ろうが掛けようが、かつてのようなヒット曲を生むことはできなかった」
「あれほど流行したけど、しょせん『割る二』の音楽だった、といえば酷に過ぎるだろうか」
「『売れる方程式』が通用しなくなった後に残ったのが借金のねずみ算だったとは、わびしい限りである」

これほど下品な、新聞のコラムというものを私は読んだことが無い。そして『春秋』というこの下品なコラムは、一貫性や信念がまるで無い。筆者がコロコロ代わるのかどうか私は知らないが、筆者が定期的に代わるのだとしても『春秋』という看板は替わらないのだから、最低限の一貫性くらいは当然、持たせるべきである。ところが『春秋』は、以前、下品な言葉をこれでもかと言うくらいに並べて小室さんを侮辱したくせに、時が流れて大部分の読者がそのことを忘れた頃になると、しれーっとした顔で「先週、小室哲哉さんが音楽活動から退く旨を表明した。1990年代、かの人のつくる歌は若者、特に女性たちから圧倒的な支持を得た」などと述べ始めるのである。私はこういう輩が一番嫌いだ。ふざけるな、恥を知れと言いたくなる。

「時事ネタからスタートして、社会問題に絡めていくところがうまい」って、そんなことくらい新聞係の小学生でも出来るだろう。新聞のコラムを書く者が持つべき最も重要なものは、そんな上辺のテクニックではない。では何が重要か。その答えを出すには、まずコラムという「木」ではなく、新聞という「森」に求められるものを考えればよい。それは、JFK暗殺事件の検事ジム・ギャリソンのように、強き者(権力者)に怯まず毅然として立ち向かい、弱き者には優しく寄り添う人間性だと私は思う。そして善良な「森」であるために重要なことは、「木」であるコラムを書くうえでも当然、重要なはずである。ところが『春秋』がやっていることは「弱者に優しく寄り添う」ことではなく「弱っている者に鞭を打つ」ことであり、全くの逆である。小室さんが過ちを犯し弱者となったときに、ここぞとばかりに罵詈雑言を浴びせかけて叩きのめしたのが『春秋』なのである。しかも信じられないことに『春秋』は、小室さんに汚い言葉を浴びせかけただけでなく、彼の「作品」まで「しょせん」などという言葉を使って土足で踏みにじったのである。私は何があっても絶対にそのことを忘れないし、許さない。

そもそも新聞社がコラムで、あのような下品極まりない言葉でいち個人を攻撃すること自体が異常なのだが、そのようなことをしてしまったのであれば、せめてそのことを忘れずにいるべきだ。その、最低限のことすら出来ないのが日本経済新聞のコラム『春秋』である。私は安田さんを責める気は全くない。ただ、何かを人にオススメするときには、それが「本当に良いもの」「信念のある、信用できるもの」なのか、これでもかというくらい検証、吟味してからオススメして欲しいと思う。

私は、『春秋』という下品なコラムに存在意義があるとは到底、思えない。新聞社としての統一見解を示す社説とは異なるものとして、おそらく担当者が一人で考えて書き、編集長か誰かのチェックを経て載せているのだろうが、あのような「ただの悪口」を読んで「よし、これでいこう!」とOKを出す者がいたのだと考えたたけで、おぞましい。それが彼らにとっての"レッセ・フェール"なのだろうか。社説とは異なる比較的軽い時評を載せるという意識で書いているのだろうが、それがそもそも間違いである。朝日新聞の『天声人語』の知名度の高さを考えてみれば分かることだが、コラムは「当該新聞の顔」であると認識している人がいても不思議ではない。だから「短い時評」であるのは良いとしても「軽い時評」であってはならないし、飲み屋で有名人の悪口を言うようなノリで書くなどもってのほかである。「無くて七癖」なわけであるから、一人ひとりの人間に欠点があるのは当たり前だ。私にだって当然たくさんある。しかし、「つい人の悪口を言ってしまう」悪癖が許される場所は飲み屋や自宅であって、コラムではない。評論は許されるが、いち個人に対する「ただの悪口」をコラムに載せるなど言語道断である。

以下は、2008年に私がブログに書いた文章である。




日本経済新聞のコラム「春秋」に呆れました。
2008/11/05 12:140

本日(11月5日)付の内容が、小室哲哉氏が逮捕された件について書かれたものだったのですが、その内容があまりにも軽薄で下卑た、そして心無いものであることに驚きました。

今年読んだ文章の中で、最も腐り切った文章だと断言できるほどです。何の役にも立たない、誰の為にもならない、ただ人を不愉快にさせるだけ。

はっきり言って、あんなのコラムでも何でもありません。ただの、品の無い悪口です。
あのコラムを読んで「俺は別に不愉快に思わなかった。むしろ共感したし、いい気分だった」などと言うのは、一緒になって小室氏の悪口を言いたいだけの人でしょう。

あのコラムを読んでいて伝わってくるのは、「なんか、小室って奴が捕まったらしいから、今日は奴の悪口でも書いてスッキリするか。詐欺で捕まった直後なら、いくら悪く書いても文句言われないだろ。あ~、生意気だと思ってた金持ちが落ちぶれて、気分いい。ザマアミロ」という筆者の腐り切った根性だけ。嫌というほど、それが伝わってきます。

小室氏について報道されていることが事実なら、小室氏のしたことはもちろん犯罪であり、非常に悪いこと、許されないことです。

だから、批判されても仕方無いとは思います。しかし、批判をするにしても間違ったやり方で批判してはいけない。そう思うのです。

例えば歌手の槇原敬之さんが以前逮捕され、裁判で有罪判決を受けたとき裁判長は、「社会的影響は大きい。罪は重い」などと言いつつ「しっかり反省し、また才能を活かして社会に貢献しなさい」というようなことを付け加えていました。

ようするに、罪は罪として裁くけれども、才能や作品について否定するようなことはしなかったわけです。これは、当然のことだと思います。

槇原氏や小室氏のようなコンポーザーは、完成した楽曲を他の歌手に提供することもありますし、小室氏が表に出て演奏する場合でも、他のメンバーと共にユニットで活動することがほとんどなわけです。つまり、常に他のアーティストとの係わり合いの中で仕事をしているわけですから、小室氏の過去の作品を否定するということは、共に活動していた他のアーティストを否定することにもなります。

それだけではありません。アーティストがいるところには、常に「受け手」の存在があります。多くの人達が小室氏の音楽に感動し、共感してきたわけです。
小室氏の作品を否定するということは、それに感動した人達をも否定することになります。

例えば安室奈美恵さんが歌った【CAN YOU CELEBRATE?】という小室氏の作品は、結婚式で使用されることが多く、この曲に特別な思いを抱く夫婦が日本に多くいたとしても何ら不思議はありません。

そのような夫婦の例に限った話ではなく、友人同士、恋人…様々な状況の中で、流れていた曲は思い出となります。
誕生日に、親から小室氏の関わったCDをプレゼントされた子供だっているでしょうし、カラオケで恋人に小室氏の曲を歌ってもらった思い出のある人なんて、ごまんといるでしょう。

掛替えの無い思い出のひとつである曲を否定されたら、人はどんな気持ちになるでしょうか。

思い出というと過去の話になってしまいますが、もちろん現在だって同じことです。誰かが好きで聴いている音楽を否定するのであれば、きちんと説得力のある文章にして、決してただの悪口にならないようにしなければなりません。

このような「協力した他のアーティストの思い」「曲を愛した人達の思い」などについての想像力が完全に欠けており、その代わりに「僻みや妬みの対象であった存在が堕落したことに対する歪んだ喜び」に満ちているのが5日付の「春秋」である、私はそう確信しています。

日経新聞のコラム「春秋」は、小室氏が吉田拓郎氏に対して「あ、売れる方程式ですか?”ディスコ、プラス、カラオケ割る二”なんですよ」と言ったという「小室哲哉音楽対論2」の記述について、以下のように述べています。

「なるほど、この方程式を武器に売りまくったのか」
「2000年代に入るとさっぱりだった」
「その後は、何を割ろうが掛けようが、かつてのようなヒット曲を生むことはできなかった」
「あれほど流行したけど、しょせん『割る二』の音楽だった、といえば酷に過ぎるだろうか」
「『売れる方程式』が通用しなくなった後に残ったのが借金のねずみ算だったとは、わびしい限りである」


信じられません。全く、信じられない。この、腐り切った根性。読んでいるだけで、吐き気がしてくるほど伝わってくる、どうしようもないまでに歪み切った心。汚らしい、言葉の羅列。この、吐き捨てられた唾のような言葉が、こともあろうに新聞のコラムとして書かれ、恥ずかし気も無く掲載されたものだなんて。


はっきりと分かることがあります。

このコラムの筆者のなかには、音楽=「売れる」「売れない」の二種類しか無いということ。

どのような曲なのか、などということには全く興味が無いのです。
売上が落ちていた時期のアルバムに、実は名曲があるなんていうことはよくある話ですが、この「春秋」筆者にとってはヒット曲以外、全部ゴミのような物なのでしょう。

この心の貧しさにはゾッとします。どさくさに紛れて、たくさん売れた作品まで「しょせん」呼ばわりしていますし。一体、何様なのでしょうか。


小室氏は、昔から「僕の音楽は、プリクラのようなもの」などと言ったりしています。「ディスコ、プラス、カラオケ割る二」という発言も、それに類する彼一流のリップサービス、謙遜なのです。

小室氏の本当のファンは、彼がそういった類の発言をしても、「なんだ、そんなものを今まで買わせていたのか!」と怒ったりすることは絶対にないでしょう。何故なら、本当のファンは彼の発言なんかよりも、彼の作り出す音楽の方を重視するからです。例えば絵の内容よりも、発言の内容で画家を評価するとしたら、そんなに馬鹿げたことは無いですよね。本当のファンは、それを分かっているはずです。

仮に「プリクラのようなもの」「”売れる方程式”によって生まれたもの」だということが事実であったと証明されても、「それでもいい、俺はこの曲が美しいと思う。好きなんだ」と、自分の感性を信じて言うに違いありません。

この日経新聞コラム「春秋」筆者の場合は、その真逆です。

自分の感性を信じるとかそういう問題以前に、まず間違い無く、ろくに小室氏の作品を聴いていない。何も知らないんですよ。ろくにニーチェを読んでいないくせに、ニーチェの著作を利用したヒットラーみたいなものです。

曲は何も知らないし興味も無いくせに、小室氏が稼いできたお金の方には興味があるものだから「ディスコ、プラス、カラオケ割る二」という小室氏の発言を知って「そんなお手軽に、いい加減に曲を作って稼いでいやがったのか」と本気で思っている様子なのです。頭の中にあるのは、金のことばかり。一体、どんだけアホで品性下劣なのかと。

小室氏が言ったような方程式だけで、多くの人を惹きつけ感動させる曲がじゃんじゃん書けると本気で思っているのが、この日経新聞「春秋」筆者。

なんだかもう、怒りを通り越して笑いがこみ上げて来ました。



「あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね」


これは、先日私が美容師さんに頂いた本に載っていた、ドラえもんに出てくる源静香の父親の台詞です。有名な台詞なので、ご存知の方も多いでしょう。

私には、日経新聞「春秋」の筆者は、人の不幸を心から楽しむ人間であるとしか思えません。

自らが心を失ってしまったことにも気付かず、匿名のコラムで嬉々として、罪を犯してしまった人の悪口を延々と述べる日経「春秋」筆者。

哀れです。