非現実さんが『サド』というタイトルの新作を発表しておられた。
https://twitter.com/mishiro_bokura/status/1120062132895137792?s=20
私はひと目見て、素晴らしい作品だと思った。
人の顔を描いた絵でありながら、実に宇宙的だと思った。
ここで言う「宇宙的」というのは、何か厳密に定義付けられた「宇宙的」ではない。直感的に「宇宙的」なのである。
それは例えば、ヘンリー・ムーアの彫刻や岡本太郎の『太陽の塔』を見たときに感じるような、不思議な普遍性である。それは原始、太古でありながら、同時に前衛、未来でもある。
素晴らしい作品を生み出した友人に、敬意を表したい。
https://twitter.com/mishiro_bokura/status/1120062132895137792?s=20
私はひと目見て、素晴らしい作品だと思った。
人の顔を描いた絵でありながら、実に宇宙的だと思った。
ここで言う「宇宙的」というのは、何か厳密に定義付けられた「宇宙的」ではない。直感的に「宇宙的」なのである。
それは例えば、ヘンリー・ムーアの彫刻や岡本太郎の『太陽の塔』を見たときに感じるような、不思議な普遍性である。それは原始、太古でありながら、同時に前衛、未来でもある。
素晴らしい作品を生み出した友人に、敬意を表したい。
デジタル絵師である非現実さんの新作『物語不(モノガタラズ)』を鑑賞した。
私が非現実さんの作品を見ていつも思うのは、カテゴライズしにくい作品だということである。もちろんこれは素晴らしいことであると私は思っている。
今回、作品を公開する前に彼は私に、それが「漫画」であると教えてくれた。
彼が意図的にそのようにしているのかは分からないが、今にして思うと、それは鑑賞者を彼特有の「謎めいた世界」に導くための重要な伏線のようなものだったのかも知れない。
「漫画だよ」と言われると、人は「自分が知っている」漫画というものを思い浮かべる。漫画という既成概念から、はみ出さない漫画を。
私達の知っている「漫画」とは普通、何かを「物語る」ものである。しかし、非現実さんはそれを逆手に取り、まずタイトルで一撃食らわしてくる。『物語不(モノガタラズ)』。漫画なのに、「語らない」と最初に宣言してくるのだ。岡本太郎の『座ることを拒否する椅子』を見たときと同じように、私達は困惑する。
排除されているのはストーリーだけではない。台詞も無く、説明的なものは一切、無い。
温かみを感じるような物は一切描かれておらず、黒に支配された世界には、一人取り残されたような骸骨が、天から注ぐ光を受け止めようとするかのように、両手を広げる。足下には、無数の骸骨が倒れ、重なっている。
光は近づいてくる。どうなるのか。次のコマは、何かが閃光に包まれ弾け飛んだように思えるが、そんな光景では無いようにも思える。明確な答えは提示されない。
もうひとつのパートは、暗闇の中に先鋭的なオブジェが描かれている。謎めいた裸婦。赤いスカーフのようなもので顔が半分隠されている。裸婦が消え、暗闇に包まれる。
結局、こちらも「全ては謎」なまま、鑑賞を終えることになる。
極めて難解な作品だが、非現実さんは自身の作品について、説明をしない。「作者ですら分からないのが作品なのだ」という趣旨のことを書いておられた。
現代は、私が今、この瞬間やっているのと同じように「語りたがる」人が多い時代だ。
非現実さんの作品は、語らない。決して明るい絵ではないのに、静寂に包まれた幻想的な月夜のような心地良さがそこにはある。
昔、テレビで、ルーブル美術館をひたすら絶賛し、私の好きなオルセー美術館をボロクソに言っている美術評論家を見たことがある。そのバカタレは「上品な」奥様方を集めて、ルーブルに置いてある作品がどのような歴史的背景を持つ絵なのかを、ひたすら解説していた。そして、「知れば知るほど鑑賞は深まる」と力説する。奥様方は、「知的な」気分に浸れて、とても満足し、評論家に心酔していた。
私はオルセーをボロクソに言われ、殴ってやりたいくらいに腹が立ち、評論家も奥様方もただの俗物だと思った。
誤解しないで欲しいのたが、私は通俗的なものを軽蔑しているのではない。むしろ、好きである。私の言う「俗物」というのは、あの評論家や奥様方のような、「誰よりも本質を見ている気になっているが、実は一番本質から遠いところを見ている者」のことである。
ルノワールは、「君の絵は、まるで楽しむだけのために描いているようだな」と批評家に言われ、「そうですよ?楽しくなかったら、誰がこんなことするものですか」と答えた。
鑑賞者も、好きな絵を気持ち良く楽しく、自由に鑑賞する権利がある。オルセー美術館でニコニコしながら絵を鑑賞している人達を前にしても、あの評論家は同じようにボロクソ言い始めるのだろうか。私はそんなことは許せない。
・・・そんなことを留処無く考えていると、少し疲れた気持ちになり、静かな月夜の幻想にまた包まれたくなるのである。
私が非現実さんの作品を見ていつも思うのは、カテゴライズしにくい作品だということである。もちろんこれは素晴らしいことであると私は思っている。
今回、作品を公開する前に彼は私に、それが「漫画」であると教えてくれた。
彼が意図的にそのようにしているのかは分からないが、今にして思うと、それは鑑賞者を彼特有の「謎めいた世界」に導くための重要な伏線のようなものだったのかも知れない。
「漫画だよ」と言われると、人は「自分が知っている」漫画というものを思い浮かべる。漫画という既成概念から、はみ出さない漫画を。
私達の知っている「漫画」とは普通、何かを「物語る」ものである。しかし、非現実さんはそれを逆手に取り、まずタイトルで一撃食らわしてくる。『物語不(モノガタラズ)』。漫画なのに、「語らない」と最初に宣言してくるのだ。岡本太郎の『座ることを拒否する椅子』を見たときと同じように、私達は困惑する。
排除されているのはストーリーだけではない。台詞も無く、説明的なものは一切、無い。
温かみを感じるような物は一切描かれておらず、黒に支配された世界には、一人取り残されたような骸骨が、天から注ぐ光を受け止めようとするかのように、両手を広げる。足下には、無数の骸骨が倒れ、重なっている。
光は近づいてくる。どうなるのか。次のコマは、何かが閃光に包まれ弾け飛んだように思えるが、そんな光景では無いようにも思える。明確な答えは提示されない。
もうひとつのパートは、暗闇の中に先鋭的なオブジェが描かれている。謎めいた裸婦。赤いスカーフのようなもので顔が半分隠されている。裸婦が消え、暗闇に包まれる。
結局、こちらも「全ては謎」なまま、鑑賞を終えることになる。
極めて難解な作品だが、非現実さんは自身の作品について、説明をしない。「作者ですら分からないのが作品なのだ」という趣旨のことを書いておられた。
現代は、私が今、この瞬間やっているのと同じように「語りたがる」人が多い時代だ。
非現実さんの作品は、語らない。決して明るい絵ではないのに、静寂に包まれた幻想的な月夜のような心地良さがそこにはある。
昔、テレビで、ルーブル美術館をひたすら絶賛し、私の好きなオルセー美術館をボロクソに言っている美術評論家を見たことがある。そのバカタレは「上品な」奥様方を集めて、ルーブルに置いてある作品がどのような歴史的背景を持つ絵なのかを、ひたすら解説していた。そして、「知れば知るほど鑑賞は深まる」と力説する。奥様方は、「知的な」気分に浸れて、とても満足し、評論家に心酔していた。
私はオルセーをボロクソに言われ、殴ってやりたいくらいに腹が立ち、評論家も奥様方もただの俗物だと思った。
誤解しないで欲しいのたが、私は通俗的なものを軽蔑しているのではない。むしろ、好きである。私の言う「俗物」というのは、あの評論家や奥様方のような、「誰よりも本質を見ている気になっているが、実は一番本質から遠いところを見ている者」のことである。
ルノワールは、「君の絵は、まるで楽しむだけのために描いているようだな」と批評家に言われ、「そうですよ?楽しくなかったら、誰がこんなことするものですか」と答えた。
鑑賞者も、好きな絵を気持ち良く楽しく、自由に鑑賞する権利がある。オルセー美術館でニコニコしながら絵を鑑賞している人達を前にしても、あの評論家は同じようにボロクソ言い始めるのだろうか。私はそんなことは許せない。
・・・そんなことを留処無く考えていると、少し疲れた気持ちになり、静かな月夜の幻想にまた包まれたくなるのである。
少女膜
Medium-density fiberboard,
300×600mm,
クレパス
special thanks:非現実さん
非現実さんに冗談半分で「タイトル付けてよ」と言ったら、彼は常に感性を研ぎ澄ませている人なので、直感で素晴らしいタイトルを付けてくれた。
彼がこの作品についてTwitterで書いてくれた言葉。私は死ぬまでそれを忘れないだろう。
Medium-density fiberboard,
300×600mm,
クレパス
special thanks:非現実さん
非現実さんに冗談半分で「タイトル付けてよ」と言ったら、彼は常に感性を研ぎ澄ませている人なので、直感で素晴らしいタイトルを付けてくれた。
彼がこの作品についてTwitterで書いてくれた言葉。私は死ぬまでそれを忘れないだろう。