GALLERY #4

ATELIER M

近況のご報告

2024-03-23 | 日記
去年からずっと鉛筆画ばかり書いていたのですが、肖像画のご依頼をお受けして制作したのを機に、油彩画の制作を再開しました。

肖像画は既に完成しているのですが、プライバシーを考慮して、ギャラリーには載せないことにしました。

肖像画の後、新しい作品の制作を開始しました。それはモデルがいる絵ではなく、空想に基づいたものです。
肖像画のご依頼をきっかけに油彩の楽しさを思い出したので、今年は油彩画を描きまくろうと思っています。

すぎやまこういち先生

2021-10-07 | 日記
すぎやまこういち先生が、お亡くなりになりました。

私は小学生のとき、周りの友達と同じようにドラゴンクエストに夢中になりました。しかし少し皆と違っていたのは、私はゲームそのものよりも更に熱く、友達が貸してくれたドラゴンクエストのサントラCDに夢中になったのです。
当時は『CDラジカセ』全盛の時代で、借りたCDを私は120分のカセットテープに録音し、友達にCDを返した後、毎日テープを繰り返し聴いて、すぎやま先生の世界に完全に魅了されていました。子供だった私は知識が少なかったので、カセットテープというのは録音可能時間が長いものほど伸びやすい(ダメになりやすい)ということを知らず120分テープを使ってしまい、あまりにも繰り返し聴いたため、伸びてしまいました。それくらい私は、すぎやまこういち先生の曲が大好きでした。

私は今までの人生を振り返って、「夢って、叶うものなんだな」と実感したことがいくつかあります。例えば、私が「死ぬまでに一度でいいから実物を観てみたい」と思っていた、ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を『オルセー美術館展』で観ることがてきたこと。
そして、すぎやまこういち先生の指揮、オーケストラの生演奏でドラゴンクエストの音楽を聴けたこと。私はあのときの感動を決して忘れません。演奏の合間のトークで、すぎやま先生がとてもお茶目で面白い方なのだということも知りました。

これからも、大切なことを見失いそうになったとき、ドラゴンクエストの音楽を聴いて、そこに込められたすぎやま先生の声に耳を傾けて、生きていこうと思います。

すぎやま先生、素敵な音楽を本当にありがとうございました。
ご冥福をお祈り致します。

非現実さんの新作『サド』を鑑賞して

2019-04-22 | 日記
非現実さんが『サド』というタイトルの新作を発表しておられた。

https://twitter.com/mishiro_bokura/status/1120062132895137792?s=20

私はひと目見て、素晴らしい作品だと思った。

人の顔を描いた絵でありながら、実に宇宙的だと思った。

ここで言う「宇宙的」というのは、何か厳密に定義付けられた「宇宙的」ではない。直感的に「宇宙的」なのである。

それは例えば、ヘンリー・ムーアの彫刻や岡本太郎の『太陽の塔』を見たときに感じるような、不思議な普遍性である。それは原始、太古でありながら、同時に前衛、未来でもある。

素晴らしい作品を生み出した友人に、敬意を表したい。

非現実さんの新作『物語不』を鑑賞して

2019-04-13 | 日記
デジタル絵師である非現実さんの新作『物語不(モノガタラズ)』を鑑賞した。

私が非現実さんの作品を見ていつも思うのは、カテゴライズしにくい作品だということである。もちろんこれは素晴らしいことであると私は思っている。

今回、作品を公開する前に彼は私に、それが「漫画」であると教えてくれた。

彼が意図的にそのようにしているのかは分からないが、今にして思うと、それは鑑賞者を彼特有の「謎めいた世界」に導くための重要な伏線のようなものだったのかも知れない。

「漫画だよ」と言われると、人は「自分が知っている」漫画というものを思い浮かべる。漫画という既成概念から、はみ出さない漫画を。

私達の知っている「漫画」とは普通、何かを「物語る」ものである。しかし、非現実さんはそれを逆手に取り、まずタイトルで一撃食らわしてくる。『物語不(モノガタラズ)』。漫画なのに、「語らない」と最初に宣言してくるのだ。岡本太郎の『座ることを拒否する椅子』を見たときと同じように、私達は困惑する。

排除されているのはストーリーだけではない。台詞も無く、説明的なものは一切、無い。

温かみを感じるような物は一切描かれておらず、黒に支配された世界には、一人取り残されたような骸骨が、天から注ぐ光を受け止めようとするかのように、両手を広げる。足下には、無数の骸骨が倒れ、重なっている。

光は近づいてくる。どうなるのか。次のコマは、何かが閃光に包まれ弾け飛んだように思えるが、そんな光景では無いようにも思える。明確な答えは提示されない。

もうひとつのパートは、暗闇の中に先鋭的なオブジェが描かれている。謎めいた裸婦。赤いスカーフのようなもので顔が半分隠されている。裸婦が消え、暗闇に包まれる。

結局、こちらも「全ては謎」なまま、鑑賞を終えることになる。

極めて難解な作品だが、非現実さんは自身の作品について、説明をしない。「作者ですら分からないのが作品なのだ」という趣旨のことを書いておられた。

現代は、私が今、この瞬間やっているのと同じように「語りたがる」人が多い時代だ。

非現実さんの作品は、語らない。決して明るい絵ではないのに、静寂に包まれた幻想的な月夜のような心地良さがそこにはある。

昔、テレビで、ルーブル美術館をひたすら絶賛し、私の好きなオルセー美術館をボロクソに言っている美術評論家を見たことがある。そのバカタレは「上品な」奥様方を集めて、ルーブルに置いてある作品がどのような歴史的背景を持つ絵なのかを、ひたすら解説していた。そして、「知れば知るほど鑑賞は深まる」と力説する。奥様方は、「知的な」気分に浸れて、とても満足し、評論家に心酔していた。

私はオルセーをボロクソに言われ、殴ってやりたいくらいに腹が立ち、評論家も奥様方もただの俗物だと思った。

誤解しないで欲しいのたが、私は通俗的なものを軽蔑しているのではない。むしろ、好きである。私の言う「俗物」というのは、あの評論家や奥様方のような、「誰よりも本質を見ている気になっているが、実は一番本質から遠いところを見ている者」のことである。

ルノワールは、「君の絵は、まるで楽しむだけのために描いているようだな」と批評家に言われ、「そうですよ?楽しくなかったら、誰がこんなことするものですか」と答えた。

鑑賞者も、好きな絵を気持ち良く楽しく、自由に鑑賞する権利がある。オルセー美術館でニコニコしながら絵を鑑賞している人達を前にしても、あの評論家は同じようにボロクソ言い始めるのだろうか。私はそんなことは許せない。

・・・そんなことを留処無く考えていると、少し疲れた気持ちになり、静かな月夜の幻想にまた包まれたくなるのである。