
『春秋左氏(さし)伝』には占筮の書としての易がしばしば用いられている実例が出ている。
漢代に至り儒学が復興すると、易は六経(りくけい)の首に置かれた。
『漢書』「芸文志(げいもんし)」の六芸略(りくげいりゃく)は、易・書・詩・礼・楽・春秋と次第している。しかし漢代では、当時流行した天人相関思想に基づき、易によって政治の得失を占う傾向が強かった。
孟喜(もうき)(前70―前50ころ)、京房(けいぼう)(前78―前37)はその代表的人物である。漢代の易学を「象数易(しょうすうえき)」というのは、易の解釈にあたって卦の象と数を重んじたからである。
こうした複雑な易解釈に対して、魏(ぎ)の王弼(おうひつ)(226―249)は、十翼によって経文全体の意味を把握することに努めるとともに、老荘哲学を取り入れて易理論をたすけ、『周易注』を著した。
漢の費直(ひちょく)(前1世紀)の法を継承発展せしめたものである。
唐代に編纂(へんさん)された『五経正義』の『周易正義』は、王弼の注を採用し、王弼が注しなかった「繋辞伝」「説卦伝」「序卦伝」「雑卦伝」については、韓康伯(かんこうはく)の注を用いた。
漢代の象数易に対して、王弼の解釈を義理易という。
宋代の易学はおおむね王弼の流れをくむ。しかし朱熹(しゅき)(朱子、1130―1200)の『周易本義』では、易を卜筮の書と規定し、易の経文を卜占の答えとみる点に特徴がある。元(げん)以後の科挙(かきょ)の必須(ひっす)教養としての四書、五経は、朱子学系の注釈書が主として用いられ、易では程頤(ていい)(1033―1107)の『伊川(いせん)易法』や朱熹の『周易本義』が用いられた。
日本には、易は奈良時代に伝来しているが、江戸中期以後、朱子学が盛んとなり、山崎闇斎(あんさい)、伊藤東涯(とうがい)、新井白蛾(あらいはくが)、真勢中洲(ませちゅうしゅう)、松井羅州(らしゅう)、榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)、皆川淇園(きえん)などの易研究家がいた。
明治期に入っては根本通明(みちあき)、遠藤隆吉(りゅうきち)らが処世哲学的理論をたてて活躍し、占筮家としては高島呑象(どんしょう)が知られている。