その日課が突然無くなったのが最後の通院となった1月10日で、2月1日に母が他界して、あの世へ送り出してからの毎週月曜日…何もないわけではありませんが(通いの付き添いも無くなり)何だか心の中に穴が空いてしまった感覚です。
通いの頃はお昼の食事を大学病院の中にあるアウトドアスペースで取っていました。
生きるために頑張ってしっかりと食事をしていた姿が目に浮かびました。
母は和食系のお弁当を食べる方でしたので、和食で比較的しっかりとしたものを食べていました。
妹君と行くと食事を飛ばされるらしく、お昼の食事は取りたかったそうです。
早めに終わったときは家で…なんて言っていましたが、時間がかかることもありますので、最初はお稲荷さんを買ってみたら食べましたので、以降はお弁当にしていました。
年末あたりに末期がんによる腸閉塞の影響もかなり酷くなってからは食事の量も減りましたが、大学病院で最後に食べたのが…何だったか?あやふやになりかかっていますが(私のあやふやな記憶ではありますが、ラストはお稲荷さんを抗がん剤の部屋で食べたと思います。)彼女自身が選んで購入したのは憶えています。
『生きるために食べる』
そう。
食べなければ体力はないし、抗がん剤も受けられない。
本当に『辛い』とか『苦しい』とか弱音を吐くこともなく頑張りました。
バスに乗るとき肩で息をしていて、苦しいのが目に見えてわかるくらい辛かったはずですが、それでも一生懸命生きるために決して諦めず弱音を吐くこともありませんでした。
2021年の5月末の病院での定期検診で『がん』の疑いが判明してから7月中旬の生検手術を経て、8月頭に抗がん剤治療に入り、彼女自身が旅立つまでの間。
振り返るとあまりにも短すぎました。
私の中でも短くても2022年を迎えて『あと半年』は保ってくれると思っていましたが、年始に『がん性腹膜炎』と判明した時点で厳しい現実を突きつけられました。
今はお骨になり私の側にいますが、共にいる時間も限られています。
お彼岸頃、生まれ故郷に永眠することが決まっています。
月曜日…今後は私自身、私なりにやることは出てくるので、限られた時間を大切にしながら『生きるために食べる』ことを続けていきます。
母がお腹を痛めて私達をこの世に送り出してくれたのですから、私自身が体に負担のかかる食べ方もしないようにしたいです。
喪が明けたら、生前に母と約束したウォーキングの会を年に1〜2回の参加を目標にする予定でありますが、勤務形態が変わったため未定です。
間違いなく家に籠もる気はありません。
【追記:母は幼少時に死にかけたことがあると言っていたのを今でもハッキリと憶えています。そのために体育を見学していたこともあったそうです。
今、その話を思い出したとき75年以上も生きたことは奇跡だったのかも…と思うようになりました。
年が明けて容態が急激に悪化して入院となったときに、がん性腹膜炎を言われたときは喜寿を迎えるのは難しいと考えていましたが、自宅で喜寿を迎えることが出来たことも、冷静に考えると奇跡だったと思っています。
本人の中では祖母が他界した年齢が80歳でしたので、80歳まで生きるのを目標としていました。
目標が叶わず旅立ったのは無念かもしれませんが、幼少時に死にかけた一人の少女が75年以上の生涯を全う出来たこと、喜寿を迎えられたこと、最後に自身の最期を自宅で迎えられたのは、母本人が最後まで願いを叶えようと頑張ったからだと思っています。
母の願いを叶えてくれた神様にも感謝しています。】