そう言えば、家でも外でもペットボトルといったら「伊右衛門」をよく飲む。
余談だが、「伊右衛門」は伊賀の国の右衛門(皇居諸門の護衛などをつかさどる役所)という意味なのだろうか。味もそんな地味な感じだ。だとしたら、面白いネーミングである。
今日も勉強をしながら、机の片隅には「伊右衛門」のペットボトルを置いていた。インテリアみたいな感じになっている。
冬でも1日2ℓは飲む。自動販売機でも売店でもそればかりを買う。
友人がそれを見ると「またかよ……。」という顔で、「伊右衛門」より渋い反応が見て取れる。友人も慣れて来たのか、最近ではノータッチ。
ゴクゴク飲める純粋な渋さがたまらない。渋い!と片付けるてしまうと言いすぎだ。
急須に入れて飲むお茶ともなると、もっと渋い。味わうという意味では良いのだろうが、毎日飲みたいとは到底思えない。
ちなみに「伊右衛門」以外にもペットボトルのお茶はご存知の通り、沢山ある。
「綾鷹」「おーいお茶」「爽健微茶」「烏龍茶」(サントリー)「天然ミネラル麦茶」などなど・・・。同じジャンルでも挙げればきりが無い。
しかし、自分の中ではダントツで「伊右衛門」だ。そういうところだけはブレない自分を切なく思う。
ところで、皆さんはお茶に何を求めるだろうか。「美味しさ」だろうか、「安さ」か。
そんなことを考えることは当然の如く皆無であろうが(笑)、「美味しさ」も「安さ」も、それは求めるが、もっと突っ込んでいくと「お米の感じ」を求めたい。
お米は、日本人なら日常でよく口にするもので、主食になっている。多くの人が日常で飽きずに食べることが出来る。
主食といえば、ライバルとしてパンはあるが、毎日飽きずに食べる人はお米のほうが多いはずだ。
お米は味が無い。確かに、美味しいお米と比べたら若干の違いはあるであろうが、大差はないはずだ。外形も種類によってそれほど違いは無い。
パンには種類がある。種類があるだけ、味も変わる。それらをまとめてパンと言う。フランスパンからクロワッサン……。外形も様々だ。
だから、味も外形も同じ主食にもなると米くらいのような気がする。
お茶は液体だから形も無いが、日常で飲むとしたら「お米の感じ」を多くの人が求めるのではないか。
しかし、お米でもお茶でもそうだが、今の日本人はこだわりが失われている。
洋風化したせいか選択肢も広がり、「飽きたら変える」というような自由な感じだ。
世界に通用する人間が少なくなっているとも聞く。日本人はナメられている感じが外交などで外国からも見受けられる。ただでさえ輸入便りだから、ますますそういう印象が増大する。
「スペシャリスト」もいない。大相撲でもオリンピックの柔道など個人競技も、日本人は衰退化している。国技も国技とはいえなくなってきている。日本に限った話ではなかろうが。
便利な時代になった。仮に失業しても、保険がある。少しの世話はしてくれる。客観的に見れば、このブログのタイトルにもなっているが、「素晴らしき日常」なのだ。
この国の「伊右衛門」たるものも税金で派手に暮らせる。
しかし、「素晴らしき日常」になったがゆえに、親も選択肢を増やして、それぞれから吸収していく教育に美学を感じているような気がする。
自分も習い事も何個もしていた時期があった。親の意向もあったような気がする。
しかし、大体は辞めた。親も辞めさせてくれた。何を得たのかも分からない。
だから、嫌でも続けてみるのも面白かったかもしれないと思う。親は辞めさせてくれた。
生活も裕福だと、選択肢も増える。しかし、それが人材の枯渇にもつながっている。
だからいっそのこと、選択肢を増やさないような切り詰めた生活を推進するのも面白い。
選択肢を増やさないように、親が縛り付けるのも面白い。
「強制」が次世代に向けての教育のカギと、自分は思う。
つまり、親はドSキャラで、北朝鮮で、『巨人の星』であるべきだ。
日本人を「強制」して、「米」にする。
とにかく洗脳化させてまでも意識改革することだ。
余談だが、「伊右衛門」は伊賀の国の右衛門(皇居諸門の護衛などをつかさどる役所)という意味なのだろうか。味もそんな地味な感じだ。だとしたら、面白いネーミングである。
今日も勉強をしながら、机の片隅には「伊右衛門」のペットボトルを置いていた。インテリアみたいな感じになっている。
冬でも1日2ℓは飲む。自動販売機でも売店でもそればかりを買う。
友人がそれを見ると「またかよ……。」という顔で、「伊右衛門」より渋い反応が見て取れる。友人も慣れて来たのか、最近ではノータッチ。
ゴクゴク飲める純粋な渋さがたまらない。渋い!と片付けるてしまうと言いすぎだ。
急須に入れて飲むお茶ともなると、もっと渋い。味わうという意味では良いのだろうが、毎日飲みたいとは到底思えない。
ちなみに「伊右衛門」以外にもペットボトルのお茶はご存知の通り、沢山ある。
「綾鷹」「おーいお茶」「爽健微茶」「烏龍茶」(サントリー)「天然ミネラル麦茶」などなど・・・。同じジャンルでも挙げればきりが無い。
しかし、自分の中ではダントツで「伊右衛門」だ。そういうところだけはブレない自分を切なく思う。
ところで、皆さんはお茶に何を求めるだろうか。「美味しさ」だろうか、「安さ」か。
そんなことを考えることは当然の如く皆無であろうが(笑)、「美味しさ」も「安さ」も、それは求めるが、もっと突っ込んでいくと「お米の感じ」を求めたい。
お米は、日本人なら日常でよく口にするもので、主食になっている。多くの人が日常で飽きずに食べることが出来る。
主食といえば、ライバルとしてパンはあるが、毎日飽きずに食べる人はお米のほうが多いはずだ。
お米は味が無い。確かに、美味しいお米と比べたら若干の違いはあるであろうが、大差はないはずだ。外形も種類によってそれほど違いは無い。
パンには種類がある。種類があるだけ、味も変わる。それらをまとめてパンと言う。フランスパンからクロワッサン……。外形も様々だ。
だから、味も外形も同じ主食にもなると米くらいのような気がする。
お茶は液体だから形も無いが、日常で飲むとしたら「お米の感じ」を多くの人が求めるのではないか。
しかし、お米でもお茶でもそうだが、今の日本人はこだわりが失われている。
洋風化したせいか選択肢も広がり、「飽きたら変える」というような自由な感じだ。
世界に通用する人間が少なくなっているとも聞く。日本人はナメられている感じが外交などで外国からも見受けられる。ただでさえ輸入便りだから、ますますそういう印象が増大する。
「スペシャリスト」もいない。大相撲でもオリンピックの柔道など個人競技も、日本人は衰退化している。国技も国技とはいえなくなってきている。日本に限った話ではなかろうが。
便利な時代になった。仮に失業しても、保険がある。少しの世話はしてくれる。客観的に見れば、このブログのタイトルにもなっているが、「素晴らしき日常」なのだ。
この国の「伊右衛門」たるものも税金で派手に暮らせる。
しかし、「素晴らしき日常」になったがゆえに、親も選択肢を増やして、それぞれから吸収していく教育に美学を感じているような気がする。
自分も習い事も何個もしていた時期があった。親の意向もあったような気がする。
しかし、大体は辞めた。親も辞めさせてくれた。何を得たのかも分からない。
だから、嫌でも続けてみるのも面白かったかもしれないと思う。親は辞めさせてくれた。
生活も裕福だと、選択肢も増える。しかし、それが人材の枯渇にもつながっている。
だからいっそのこと、選択肢を増やさないような切り詰めた生活を推進するのも面白い。
選択肢を増やさないように、親が縛り付けるのも面白い。
「強制」が次世代に向けての教育のカギと、自分は思う。
つまり、親はドSキャラで、北朝鮮で、『巨人の星』であるべきだ。
日本人を「強制」して、「米」にする。
とにかく洗脳化させてまでも意識改革することだ。