この記事は、モモさんのブログ
「風俗嬢の性の語り部屋」の記事を読んで、
"いとしのモモ"という詩を書いた顛末というか、
それにまつわる、僕のいろんな思いです。
最近、詩を書いていませんでした。
浮かばない 書けない
ま、いつかまた書きたくなったり、
自然に浮かんでくるんだろう、と
そのときまでは、無理に書こうと思うまい、と
のんびりしたものでした。
今回、モモさんのブログ記事を読んで、
どうしても、何か伝えたくて。
でも、ブログのコメントとしては、
何も書けなかったんです。
だって、しょうがないじゃん。
この"しょうがないじゃん"には、
いろんな意味があります。
ある意味、風俗嬢っていうのは、戻り道のない仕事。
風俗嬢になったことというのは、
特にご本人にとっては、後戻りできない事実なんだと
思うんです。
そんななかで、ブログの出来事に、僕らがいくら、
慰めの言葉をかけたって、
そんなの、うすっぺらな活字の羅列にしかならないんじゃないか、
と思えて。
素のままの僕の言葉として、モモさんに声かけるのが、
どうしてもできませんでした。
そんなときに、あの詩を書いたのです。
僕にとって、詩というのは、
まずモチーフがあって、
そのモチーフを膨らませていくことで、
「自分の思い」を、作品に変えていきます。
作品になったときには、最初に僕の中に芽生えた「思い」
とは、少し違ったものになっています。
僕を離れて、別の存在として、独立したわけです。
僕は、モモさんの記事を読んで、モモさんの思いの
断片を知ってしまったけれど、
それでもどこかの風俗で、お金を払ってズボン脱ぐんです。
だから、そんな矛盾だらけの僕の言葉は、嘘臭い。
嘘臭い男の言葉なんぞより、記事を読んだときの
純粋な気持ちだけを取り出して、作品にしてしまおう。
そんな気持ちが働いたのかもしれません。
これを、いいように取るか、ずるいと見るか。
それも、僕自身では、どちらにも言えるので、
この記事を読んだ人それぞれに、委ねることにします。
そんなこんなで、でも、何ヶ月ぶりかに、
1篇の詩が、出来たわけです。
さて、表題の"癒し"という言葉について。
癒し=卑しい
これは、僕の大好きな作家の小林信彦さんのエッセイに、
しばしば出てくるフレーズです。
で、それに感化されたのか、僕も"癒し"という言葉を
なかなか使えません。
特に「癒し系」とか、「癒されたい」という言葉が
好きじゃないということでしょうか。
元来、癒しというのは、誰かに依存するものではなくて、
「自分の心・体は、自分の力で治る」ものなんだと思っています。
自然治癒の癒の字ですものね。
若干、三段論法みたいなんですが、僕にとって、
"癒されたい"というのは、勝手な都合で、自分を満足させるために、
あなたを「道具」として使いたい、という意味に聞こえてしまいます。
「癒しの手」「癒しの宿」なんていう言葉も、
使い方によっては、良い意味にも、悪いイメージにも、
なりかねません。
特に宣伝・PRのために使用することは、気をつけないと
いけないと思っています。
"癒し"という言葉は、癒された側の人間が、相手に対して
感謝と尊敬の念を持ったときにこそ、使われる言葉。
それが、僕の「癒し」という言葉のイメージです。
「風俗嬢の性の語り部屋」の記事を読んで、
"いとしのモモ"という詩を書いた顛末というか、
それにまつわる、僕のいろんな思いです。
最近、詩を書いていませんでした。
浮かばない 書けない
ま、いつかまた書きたくなったり、
自然に浮かんでくるんだろう、と
そのときまでは、無理に書こうと思うまい、と
のんびりしたものでした。
今回、モモさんのブログ記事を読んで、
どうしても、何か伝えたくて。
でも、ブログのコメントとしては、
何も書けなかったんです。
だって、しょうがないじゃん。
この"しょうがないじゃん"には、
いろんな意味があります。
ある意味、風俗嬢っていうのは、戻り道のない仕事。
風俗嬢になったことというのは、
特にご本人にとっては、後戻りできない事実なんだと
思うんです。
そんななかで、ブログの出来事に、僕らがいくら、
慰めの言葉をかけたって、
そんなの、うすっぺらな活字の羅列にしかならないんじゃないか、
と思えて。
素のままの僕の言葉として、モモさんに声かけるのが、
どうしてもできませんでした。
そんなときに、あの詩を書いたのです。
僕にとって、詩というのは、
まずモチーフがあって、
そのモチーフを膨らませていくことで、
「自分の思い」を、作品に変えていきます。
作品になったときには、最初に僕の中に芽生えた「思い」
とは、少し違ったものになっています。
僕を離れて、別の存在として、独立したわけです。
僕は、モモさんの記事を読んで、モモさんの思いの
断片を知ってしまったけれど、
それでもどこかの風俗で、お金を払ってズボン脱ぐんです。
だから、そんな矛盾だらけの僕の言葉は、嘘臭い。
嘘臭い男の言葉なんぞより、記事を読んだときの
純粋な気持ちだけを取り出して、作品にしてしまおう。
そんな気持ちが働いたのかもしれません。
これを、いいように取るか、ずるいと見るか。
それも、僕自身では、どちらにも言えるので、
この記事を読んだ人それぞれに、委ねることにします。
そんなこんなで、でも、何ヶ月ぶりかに、
1篇の詩が、出来たわけです。
さて、表題の"癒し"という言葉について。
癒し=卑しい
これは、僕の大好きな作家の小林信彦さんのエッセイに、
しばしば出てくるフレーズです。
で、それに感化されたのか、僕も"癒し"という言葉を
なかなか使えません。
特に「癒し系」とか、「癒されたい」という言葉が
好きじゃないということでしょうか。
元来、癒しというのは、誰かに依存するものではなくて、
「自分の心・体は、自分の力で治る」ものなんだと思っています。
自然治癒の癒の字ですものね。
若干、三段論法みたいなんですが、僕にとって、
"癒されたい"というのは、勝手な都合で、自分を満足させるために、
あなたを「道具」として使いたい、という意味に聞こえてしまいます。
「癒しの手」「癒しの宿」なんていう言葉も、
使い方によっては、良い意味にも、悪いイメージにも、
なりかねません。
特に宣伝・PRのために使用することは、気をつけないと
いけないと思っています。
"癒し"という言葉は、癒された側の人間が、相手に対して
感謝と尊敬の念を持ったときにこそ、使われる言葉。
それが、僕の「癒し」という言葉のイメージです。
やさしさも、厳しさも女性から教わりました。
baysさんに共感する男性多いですよ。