「だから、問題は重力なのよ」
玲子という女は、真顔で、身を乗り出すように言った。
表参道のオープンエアのカフェは、ほぼ満員と言っていい。
ほとんどがカップル。外国人の姿も何人か混じっている。
こんなところで私達、なんて場違いなんだろう。
「重力?」私は、およそ話題の趣旨とはかけ離れたような
単語の出現に、少々戸惑いながら、その女の卵のような顔
の、大きな、オードリー・ヘップバーンに似た瞳を見返した。
「そう。私達の顔にしわができるのも、胸やお尻がたれちゃう
のも、みんな重力があるからなのよ」
ああ、そういうことか。だから張りのあるお肌にするために、とか
言ってローションだかパックだかを、売りつけようとしてるんだ。
私は、変なキャッチセールスに捕まっちゃったわが身を呪い、
なんとかこの場を逃れる言い訳を思いつこうと、頭を巡らすことに
した。私は、人が良さそうに見えるのか、街を歩くと必ずこの手の
セールスに声を掛けられる。結局は断るにしても、ムダな時間と
セールスマンの恨めしそうな捨てゼリフには、うんざりだ。ならば
最初から無視すればいいようなものだが、それができないのが、
性格なのよね・・・。
「そこで、このローションは、お肌にかかる重力をなくしちゃう、
Gカットタイプの商品なの」
セールスマン玲子のマニュアル通りの説明は、私の気のない表情を
無視して、続いていた。
ちょっと待って!今、なんて言った?
「ちょっと待って!今、何て言ったの?」
私は、頭の中を通り過ぎて行った言葉に戸惑い、そして、ひっくり返り
そうな声を出してしまったことを、少しばかり後悔した。
「だからGカットタイプの新製品なの。このGPFっていうのの数が高い
ほど持続時間が長く・・・」
そんな話、誰が信じられるっていうの?重力がなくなるローション?
何よ、それ。
瞬間、先ほどの後悔も、雲の彼方へ飛んでいってしまったようだ。
「馬鹿げているわ。重力がなくなるだなんて。これでも私は、
理学部で物理専攻・・・」
「落ち着いて。そんなに大きな声を出さないでね。
あなたが物理学科卒っていうのは、最初に書いてもらった
アンケートで判っています。だからこそ、この商品を
紹介するの。これは専門知識がないと、制御するのが
難しいから・・・」
何て云う女だろう。そんな行き当たりばったりの話って、
あるのかしら。
「それじゃ、私が国文学科古典文学専攻なら、お歯黒でも
売りつけられるのかしら」
「あなた、なかなか面白いわね」
玲子は飲み掛けのまま氷が溶けて水っぽくなってしまった
アイスティーに手を伸ばし、ストローでひと口ふた口飲み
ながら、なにか思いついたように、クスリと笑った。
「お歯黒、ブームになったら、面白いね」
私は、ホントに、アキレました。
もういいわ。こんなくだらない遊びに付き合ってるほど、
私、暇じゃないから!
私が、そんな私らしくないセリフを吐こうとした、その前に、
「私、今年55歳になるのよ」
・・・・
嘘!嘘!み~んな嘘!
だってあんた、二十歳そこそこの小娘じゃないのよ!だいたい年下
から肌のことをあーだこーだ能書きタレられるのだってムカつくし、
マニュアル通りに喋っていたって内容なんてなんにも知りゃしない
んでしょう!それがなによ55歳ですって55歳55歳!!
なめるんじゃないわよ!!!
玲子は、冷静にバッグの中から身分証明書を取り出し、
私の前に突き出した。
株式会社フラバァジャパン 社員証
矢上玲子 55歳
そして、続いて小さな瓶を取り出すと、
「これがGカットの原液。これに制御用のパウダーを入れて・・・」
私はあのとき、何であんな行動を取ったのか、今でも説明でき
ません。私は玲子の手から瓶をひったくり、蓋を開けて、中身を
顔にビシャビシャと塗りたくったのです。
玲子は、何かきぃきぃと喚いているようでした。しかし、その声も
すぐに遠くなり・・・
そして今、私は高度1万メートルの空にいます。
いつ地上に戻れるのか、GPF値を計算したいんだけど、ここは
ちょっと空気が薄いみたい。頭がぼーっとしちゃって、計算
するのが、おっくうなのよね。
ただ、やっぱり文学部に入っておけばよかったかなぁって、思ったり
しているんです。
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