言葉 は、
実像だろうか?
虚像だろうか?
それとも。
エネルギー だろうか?
エネルギーの表現だ
私 と、いう 自我 は
言葉だ、
私は言葉が集まったものだ
私=自我 観念 心象 イメージ 図形 言葉 文字 記号… それらの蓄積されたものだ。
言葉がなければ、記憶することが出来ない
その記憶媒体は何だろうか?
それも、言葉だ
方個性を持ったエネルギーだ
私( 言葉 )は、言葉通りのことを
投影し体現する
私が世界だ
世界は言葉だ、エネルギー表現だ
エネルギーが物質化したものだ
故に虚像だ
ただ、在る と思っているから 在る だけの事だ
実像でも虚像でもない
実像でも虚像でもいい
エネルギーが揺らいでいるだけだ
此処に、わざわざ遊びに来たのだから
楽しめばいい
酒を呑むとき
タバコを吸うとき
高カロリーの食事をしたとき
どんなことを思いながら
そうしているだろう?
朝、出かける時
夜、帰宅する時
意識に 無意識のうちに
何を思っているのだろう?
おおよそ、事は思っているように
進行する
今、そうだと思っていることを
投影している
世界は観念が投影されたものだ
欲しいと思っているものではなく
良い悪いの分別なく
私に、今、在る、観念を投影している
映画のようなのかもしれない
映写機という機械が
映像を投げ掛け
スクリーンというスペースが
善悪の分別無しに照り返す
人は何故、
死ぬのだろうか?
人は死ぬものだと思っているからだ
何の疑問もなく… 。
正直、この地上での不死は
かなりキツいものがある
誰もが意識の深い深いところで
そう認識している事だろうけど
身体の私は、本当の私ではないのかも
身体の私以外が本当の私だ
世界が私だ
だって、
世界が世界を識るには
世界から分離した私を造らなげれば
世界が世界を識ることが出来ないし (笑)
詰まるところ…
どっちも‘‘ 私 ”なんだけど
本当の
空はどんなものなんだろか?
空は、
綺麗だったり
汚なかったり
するものなのだろうか?
観る者の主観に左右されていない空
善い 悪いの分別
固定観念のサングラスを外して
見る空
私と空が分離していない 空
そうやって、
自分や自分以外のものを
見つめたら
何もいらなくなる