都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

布施弁天 千葉県柏市

2014-05-08 09:28:59 | 千葉県散歩
   紅龍山 布施弁天 東海寺   その1 (本堂と楼門)    千葉県柏市

布施弁天 東海寺
 その2(鐘楼、三重塔など)☞⇒more


【住 所】千葉県柏市布施1738  Mapion 
【宗派・本尊】宗派は真言宗豊山派 本尊は弁財天(秘仏)
       秘仏の弁財天像は弘法大師空海御作といわれる。なお、布施弁天は八臂弁財(才)天
【創 建】807年(大同2年)空海が嵯峨天皇の勅願により創建
【東海寺 いわれ(縁起)】東海寺のHPを写す
赤い龍と天女の御像
大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現 兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約9センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。
弘法大師による開山
のちに弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、この話を聞き布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられました。そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。
嵯峨天皇の勅願所に指定
弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定しました。
本堂の向拝の回柱に菊の紋章があるのは、そのためです。
平将門と弁財天
承平年間(931年~938年)平将門の兵火のため焼失されたのちに、この時の討伐軍の武将源が戦跡巡りの際、不思議なことに遇い、弁財天を信仰することになり尊像奉持して、平将門の乱を制し、寺を再興し、本尊弁財天は松の木の上に避難し難を逃れていたので、松光院と名付けました。
現在の本堂が完成
その後も天災や戦乱で興廃を繰り返しますが、かねてから本尊を篤信していた領主である本多豊前守は正徳年間諸大名から寄進をもとめ、享保2年(1717年)に現在の本堂が完成しました。

【関東三弁天】 神奈川県藤沢市江の島の江島神社の弁財天、東京都台東区の寛永寺 不忍池弁財天 東海寺の布施弁天を関東三弁天という。
【布施弁天東海寺の文化財】 本堂・楼門・鐘楼(千葉県文化財)
【弁財天:8臂像と2臂像の姿】
河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつ。像容は8臂像と2臂像の2つに大別される。
8臂像は、8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武器に類するものである。弁才・知恵の神と説かれるが、像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている。
一方、2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。妙音天、美音天と呼ばれる。胎蔵曼荼羅中に見える2臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である。(注)臂はひじ=肩から手首までの部分 (wikiを引用して作成)

【布施弁天東海寺の写真】  平成26年4月25日撮影
鳥居と参道

 楼門 千葉県文化財

 楼門の文化財掲示  

 楼門の増長天(南) 

 楼門の広目天(西) 

 楼門の持国天(東)  

 楼門多聞天(北)  

 本堂 建物 千葉県文化財

 本堂 建物

 本堂 前面

 本堂前の額

 本堂 後面

 本堂 側面

 本堂 木鼻彫刻



 側面 の彫刻  
 





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