「エクスマキナ」アレックスガーランド
~ロボットとニンゲンのちがい~
堅牢な扉と、徹底した監視...、ある意味で、怪物を閉じ込めている様なものなのだが、
AIの開発は、進化し過ぎると、いずれ人の手に負いきれない様な、脅威となるだろうという、広いテーマで..。
そこへ「恋愛」というテーマを持ってくる今作が、少し、人間とロボットの違いを論じるような、深い思考に私達を案内させる..。
「女性像」つまり「シルエット」に、、、まるで、初恋のように異性を意識することも、純粋かつウブな青年にとっては、自然なことである、
それらしい対話のやりとりさえ成立すれば、自分の世界に閉じ込もった精神病患者のように、何も見えていない恋に恋する自己陶酔の沼にハマってしまう、
のも納得してしまう.....、ガラスとガラスを挟んだものではあるが、ショーケースの中の人形を眺める様に、出逢いに気持ちが高鳴って....。
意識のないものに無理やり、意識のような創りものを付け足しても、必ず目立ってしまう違和感についても、
ロボットが絵を描く様子を見たときに、何かを感じている様子も、絵を描くという意思も、何もなく、
ただ、機械的に、機能的に、命令された動作をしているだけの、印象しか感じないことも、
例え、自発的な思考をプログラムし、完全に人に近いレベルのものを創り出した所で......。
それは開発者自身も予測ができない、無意識の、イミテーション的な、ネットワークである。
人間の中にも、「何かを描け」と言われた途端に、何も描けなくなるような、釣り合いの取れていない意識がまた存在している事を、劇中述べている。
バードウォッチッグや、カメラマンが動く自然や動植物の風景を、おさえるのと、近しい意識なのだろうが、
一度逃してしまうと、二度と現れることがない様な、直感みたいなものが、ロボットにはないらしく、それはニンゲンにしかないものらしい.........。
もっとわかりやすく、たとえるなら自然や動植物の風景を、画家同士の風景へと例えると、、
ある画家同士達が、奇跡的にシンクロしているような、キセキテキな状態が、二度と意図的には、創り出せない...。
もはや、そういった歴史は、人々が共有している、段階が、必ず必要になってくる...。ロボットには、それがつくられる前の歴史はないのだから...。
イギリス映画「エクスマキナ」について...。確かに「意識」がある様に見える..とは、「自然」を再構築するに等しい、「神」にも触れる、芸当...。
「意識」を特定のモードに切り替える、とか、もはやエヴァンゲリオンの様な、「自由意志」を語るなら...、
自分の内側で起こり得るあらゆる現象を、何もかも、シミュレーションできていないと、その発言自体が、成立しなくなってくる...。
つまりは、「ナチュラルさ」がなければ、結局のところ、それが生物としての限界だ....ということをいっている..。
通常、「個人」には「都合」があり、「集団」にとっても「都合」はある..、
個人的な「都合」で、自分が何かの仮想現実の中で、都合に沿って動く歯車として、機能しているなら、
それは社会の中で、都合よく、許された「プログラム」だ..。
その場合、あえて「個」を主張することなく、「平穏」が約束されるだろう..。それはそれで幸福とも呼べるだろう..。否定の余地はどこにもない..。
ハナシがそれすぎたが.......、
ブルーブックの開発者である(現実でいうグーグルみたいなものだろう..)メインキャラが、「人間が絵を描く行為」について語っている。
自分で「特定のモード」を把握しながら、それがまるでお約束のタイミングとお約束のルールに沿ったパラメータなら、
その通りに、組まれたシミュレーションを、おそらくは、意識するはずである...。
その度に、一定のグループ意識と伝統が再生されるから、そこに何の否定的意見など大多数は持たない。
つまり0.1秒のアドリブのレベルの話なのだ..。
そのレベルの話ならば、「意識」が関与する場合と、そうでない場合が、ハッキリ明確に区別され、人間の中にある「魂(たましい)」が写される..。
「能力」の話になれば、もはやマトリクスやシンギュラリティだが、「魂」の話になれば、それは、「神」や「仏」など、宗教である...。
そして、それは絶対的である...。
第3者的な誰かが意図して行った、壮大な交響曲の一環ならば....。一体、その指揮をふるよーな、「イシキ」とは、なんなのだろう..。
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