バスケット部に所属していた文豪がいた。
太宰治、坂口安吾と並び称せられる戦後無頼派の旗手の一人、織田作之助(大正2・1913-昭和22・1947)は、31歳のときに、私小説的手法により短編を試みた。その中で中学のとき、バスケット部に入部していたことと、それにまつわる淡い恋の記憶をつづっている。中学生の織田作之助が、「夕陽丘女学校」の籠球部の美しい少女に出会うことになる。そして…。淡い恋の出会いと結末を、以下に引用しておく。
「…ところが、去年の初春、本籍地の区役所へ出掛けねばならぬ用向きが生じた。区役所へ行くには、その町を通らねばならない。十年振りにその町を訪れる機会が来たわけだと、私は多少の感懐を持つた。そして、どの坂を登つてその町へ行かうかと、ふと思案したが、足は自然に口繩坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまつたのか、校門には「青年塾堂」といふ看板が掛つてゐた。かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐつたことがある。当時夕陽丘女学校は籠球部を創設したといふので、私の中学校指導選手の派遣を依頼して来た。昔らしい呑気《のんき》な話である。私の中学校は籠球にかけてはその頃の中等野球界の和歌山中学のやうな地位を占めてゐたのである。私はちやうど籠球部へ籍を入れて四日目だつたが、指導選手のあとにのこのこ随《つ》いて行つて、夕陽丘の校門をくぐつたのである。ところが指導を受ける生徒の中に偶然水原といふ、私は知つてゐるが向うは知らぬ美しい少女がゐたので、私はうろたへた。水原は指導選手と称する私が指導を受ける少女たちよりも下手な投球ぶりをするのを見て、何と思つたか、私は知らぬ。それきり私は籠球部をよし、再びその校門をくぐることもなかつた。そのことを想ひだしながら、私は坂を登つた。」(「新潮」昭和19年3月号「木の都」織田作之助より)
織田作之助は、バスケットが下手だった。美しい少女の前で恥をかき、バスケット部を辞めてしまった。もし織田がバスケットが上手で、美しい少女との恋が芽生えたとしたら、彼の運命は変化し、名作「夫婦善哉」は生まれなかったかもしれない。
ちなみに同作は、俊敏なバスケットボールプレイヤーのステップを彷彿とさせるスピード感に満ち、ユーモアもあふれているので、お勧めの一作だ。
※「夫婦善哉」全文は、こちらの青空文庫で見ることができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/545_33102.html
「夫婦善哉」
《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》