出典 『漱石の思ひ出』夏目鏡子述 松岡譲筆録 改造社 昭和3
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られる俳人正岡子規(まさおかしき)は、明治期、日本にベースボールを根付かせた功労者で、いわば大谷翔平の生みの親の親の親である。文豪でありながら野球殿堂博物館にレリーフが飾られ、「野球殿堂入り」している。
明治23(1990)年、22歳のときに、親友に宛てた手紙の文末に、次の俳句を添えている。まず詞書(ことばがき)として、「色男(いろおとこ)また時として此(この)戯(たわむ)れあり」と添えられ、次の句がる。
「恋(こい)知(し)らぬ猫(ねこ)のふりなり球(たま)あそび」
「球(たま)あそび」というのは、野球のことだ。
そして、この手紙の最後の署名は、「能球(のぼーる)」としている。子規の幼いときの名の「升(のぼる)」をもじった洒落(しゃれ)。また、同じ年の手紙の署名には、「野球」と書かれたものもある。これも、のぼーると読ませたようだ。彼は、明治17(1884)年17歳のとき、東京大学予備門時代にベースボールを知り、肺の病で喀血(かっけつ=血をはくこと)して、22歳でやめるまでの間、野球に熱中した。ちなみに、現在でも使われている野球用語、バッターを打者、ランナーを走者、デッドボールを死球という言い方などは、正岡子規の翻訳だ。バットを持ったユニフォーム姿の子規の写真も残されている。
子規がどれほど野球に熱中したかという証拠の一つに、子規が書いた「Base-Ball」というコラムを紹介しよう。少し長くなるが、野球の一つの重要な本質に届いているすばらしい文章だと思われるので、ぜひ読んでいただきたい。
「運動となるべき遊技は日本に少(すくな)し。鬼事(=おにごつこ)、隠れつこ、目隠し、相撲、撃劍(げきけん)位(ぐらい)なり。西洋には其(その)種類多く枚挙する譚(わけ)にはゆかねども、競馬、競走、競漕(=ボート)などは最普通にて最評判よき者なれども、 只々早いとか遅いとかいふ瞬間の楽しみなれば面白き筈(はず)なし。…其外(そのほか)無數の遊びあれども特別に注意を引く程のものなし。たゞローン・テニスに至りては勝負も長く少し興味あれども、いまだ幼稚たるを免れず、婦女子には適當なれども壯健活激の男子をして愉快と呼ばしむるに足らず。愉快とよばしむる者たゞ一ッあり、ベース・ボールなり。…運動にもなり、しかも趣向の複雑したるはベース・ボールなり。人数よりいふてもペース・ボールは十八人を要し、随(したがっ)て戦争の烈(はげ)しきことロー ン・テニスの比にあらず。二町四方の間に弾丸(=ボール)は縦横無尽に飛びめぐり、攻め手はこれにつれて戦場を馳(は)せまはり、防ぎ手は弾丸を受けて投げ返しおつかけなどし、あるは要害をくひとめて敵を擒(とりこ) にし弾丸を受けて敵を殺し、あるは不意を討ち、あるは夾(はさ)み撃(うち)し、あるは戦場までこのうちにやみ討ちにあふも少からす。實際の戦争は危險多くして損失夥(おびただ)し。ベース・ボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし。ベース・ボールは総(すべ)て九の数にて組み立てたるものにて、人數も九人宛(まで)に分ち勝負も九度とし、pitcherの投げるボールも九度を限りとす。之(これ)を支那風に解釋すれば九は陽数の極にてこれほど陽気なものはあらざるべし。九五といひ九重といひ皆(みな)九の字を用 ふるを見れば誠に目出たき数なるらん。」(『子規全集 第8巻』正岡子規著 アルス 大正14)
野球は、そしてスポーツは、肉おどり血をわかせる、愉快な戦争だ。人はこんなにチャーミングな戦争を発明したというのに…。 子規の深いため息が聞こえて来る。
《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》