文豪とスポーツ ―ハットトリック太宰治―

太宰はハットトリックを経験。バスケ部織田作は他校バスケ部の少女を恋した。文豪とスポーツの関係を楽しく紹介します。

【番外編】かつて東大の予備門一高にいた伝説の「表情投手」

2024-07-16 19:58:23 | 日記

 

 その昔、今から百年前の大正時代のことである。第一高等学校、一高、東京帝国大学の予備門の野球部に、「表情投手」なる伝説の投手がいたとか。その詳細を伝える記事を以下に紹介する。

表情投手

まだ日本にスバイク靴も、ブロテクターも輸入されず、投手の他は、遊撃手も外野手も悉(ことごと)くミット を掛けて居た時分の話だ。一高〈=第一高等学校、東大教養学部・東大の予備門〉にある投手が居た。どう云うものか敵に打たれる。いくら練習しても 仕合(しあい)にはコンコン打たれる。投手先生多いに考え込んで居たが、何を思ひついたものか、大きな鏡を買ひ込んで、閑(ひま)さへ有ると、鏡を睨(みつ)めて物凄い顔の研究に一心不乱。日も是れ足らずであった。程なく対校仕合が始まつた。打着ボックスに立つ、捕手のサインを見てから投手先生、球(たま)を捻(ひね)りながら、 急に怖(おそろ)しい顔をして打者を睨(にら)み始めた。変なことをするなと打者が呆れて見て居ると、愈(いよいよ)投手の顔が 物凄くなつて来る、流石(さすが)の打者も気味が悪くなって顔をそ向けた途端(とたん)、ビーツと球が来た、驚いて向き直ったが既(すで)に遅い、ストライク。こうして出て来る打者を悉(ことごと)く三振と凡打に打取って勝ったと云ふ、是(これ)は実話。

〈『運動漫画集』吉岡鳥平 著 中央運動社 大正13 より〉


松尾芭蕉は七夕の日にリフティングを見ながら句をひねった!

2024-07-08 19:59:07 | 日記

左上図 出典 国会図書館デジタルコレクション「千代田之御表 蹴鞠 (千代田之御表) 」楊洲周延・著 福田初次郎・出版者 明治30

右図 出典 国会図書館デジタルコレクション「諸芸画〔図〕」写 江戸中期 

左下図 出典 国会図書館デジタルコレクション 「芭蕉全集」沼波瓊音 編 岩波書店 大正10

 

 松尾芭蕉の七夕のときに作った連句に、「鞠場(まりば)にうすき月のかたはれ」というのがある。鞠場(まりば)とは、蹴鞠(けまり)をする場所で、鞠の庭、鞠の坪ともいうそうだ。「月のかたはれ」とは、半月のこと。「うすき月」とは、雲が出てきたことを示している。つまりこの句は、「鞠場の夕暮れに半月がうっすら浮かんで、空模様が怪しくなってきた。七夕の今宵は雨かもしれない」と、彦星と織姫の年に一度の再会を気遣う句である。

 また、芭蕉の『奥の細道』の中には、こんな句もある。
 「文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似(に)ず」
 〈今日は7月6日、普通の日だというのに、なぜかソワソワワクワクする。明日が七夕のせいだろう〉などといった意味。

 芭蕉は七夕がかなり好きだったようだ。そして、蹴鞠見学も。

 なお、蹴鞠とは、一種のボールリフティング競技で、芭蕉がいた江戸中期にも流行っていた。芭蕉が見た蹴鞠はきっと、上図のようなものだったに違いない。

 蹴鞠について、もう少し詳しく説明すると、足で皮製の鞠を一定の高さにあげ、落とすことなく正格な動作でける回数の多いのを優秀とする古典的な遊戯だ。すでに7世紀の半ば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が法隆寺の槻(つき)の木の下で鞠を蹴ったという伝説がある。12世紀頃から盛んにおこなわれるようになり、設備や技術の上でも、一定の完成を見るとともに、中心的指導者による独占的家業として伝えられた。すなわち、蹴鞠=リフティングは、プロ化していったのだった。