こんにちは、きのこです。
山肌に並んだ眉のような曲線を描く家々。
すでに有名な観光地となった甘川文化村とほど遠くないところに あまり人は訪れないのですが
過去共同墓地だったところに家がたくさん並んでいます。
釜山観光公社で運営しているストーリーテラーと今回一緒に訪ねてみました。
今回驚きの写真をご紹介。
周囲は再開発が進んでいるので、ここは今後どうなるんでしょう。
釜山の地下鉄は都市鉄道と呼ばれています。1号線の土城駅6番出口をのぼります。
階段を登り交差点を右に曲ると、右手に釜山大学病院が見えます。
約50mほど歩くと、マウルバスのバス停が見えてきます。
こちらは既に有名になった甘川文化村にも行くバス停です。バス停には碑石文化村として紹介されています。
この釜山大学病院のC棟(癌治療センター)前で乗ると、沙下(サハ)1-1と西区(ソク)2番のバスで7つ目のバス停「サンサン教会」で降ります。この場所は過去日本人がたくさん釜山に移住していた頃にできた共同墓地だったそうです。
ちなみに甘川文化村はもう少し先で10個目のバス停カムジョン小学校で降ります。
ストーリーテラーのチョンさんのお話はいままで聞いたこともない、お墓と聞いてびっくりしたものの、
とても興味深い内容でした。
いまでこそ、ペンキが塗られているので通り過ぎてしまいそうですが、どこかで見たことありませんか~?
気づかれたでしょうか?
日本ではよく見かけるお墓の周りの部分なのであります。
その石、その形をそのまま利用して家が建てられています。
こちらは今は人が住んでいませんが。その横にはここのものかわかりませんが墓石が。
どれほど物資がなかったかを物語っています。
その、入口。もう崩れかけています。
この碑石村にはたくさんの墓石があちらこちらに残っています。
かわいい壁画が描かれていますが、こちらも実は。。
碑石村から釜山港を見下ろしてみました。
過去にはたくさんの日本人が住み、このあたりには火葬場もあったとか。
昔は谷町とも呼ばれていたそうです。その理由は“慟哭”。哭町としては気分がよくないと音読みが同じ発音の谷とし
谷町としたそうです。。慟哭する町という意味だったと解説されていました。
こちらは歴史に関心を持つ、大学の教授などがよく来られてるそうです。
市としても再開発するにはここに暮らす人はあまりに高齢化が進み、民間でも再開発してアパート(日本で言うマンション)を建設するにも採算が合わず、
いずれは開発されていくのでしょうけど、これらの墓石をどのように扱うべきか
頭を悩ませているようです。
当時は日本人が終戦(韓国では光復)と同時に遺骨を持ち帰ったと伝えられますが、
すべてがそうというわけではないそうです。
最初に降りたサンサン教会はまさしくその位置。地下を掘らないのはいろいろでてくる可能性があるからだそうです^^
勇気ある方は是非。
日本語での解説が必要なときは釜山観光公社へお問い合わせ下さい。
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