「ごちそうさまでした!」
七海は両手を合わせて元気よく声を弾ませた。
今日の昼食は、ごはん、ぶりの照り焼き、豚汁、ほうれん草のおひたしだった。空になった二人分の食器を手早く集めてシンクに運び、泡立てたスポンジで洗っていく。
「なに? ちょっと邪魔なんだけど」
ふいに何かがずっしりと肩にのしかかるのを感じて、口をとがらせる。それが武蔵の仕業であることは見るまでもなくわかった。彼は七海の肩にもたれかかるように腕をのせたまま、若干言いづらそうに切り出す。
「このあと海に行きたいんだけど、駄目か?」
「あれ、今日は本屋に行くんじゃなかった?」
「予定変更」
「それはいいんだけど、この真冬になんで海?」
「泳ぐわけじゃないぞ。眺めに行くだけだ」
「ん、わかった」
そう答えた七海に、武蔵はありがとうなと大きな手をぽんと置いた。どうして礼を言われたのかわからずきょとんとするが、彼は曖昧に微笑むだけで、のんびりとした足取りで日の当たるリビングへと戻っていく。
七海はシンクに向きなおると、泡のついた手で水道のレバーを上げ、食器をすすいでいった。
武蔵と山小屋で暮らすようになってから、一年半が過ぎた。
家にいるときの食事はいつも武蔵が手作りしてくれる。いままでずっとコンビニ弁当やお菓子ばかりだったと知り、うちではまともなものを食わせてやるからな、とやたら意気込んでいたのである。
七海も手伝っているが、食器の用意をしたり、材料を出したり、野菜を洗ったり、皮を剥いたりとその程度だ。武蔵とわいわい言いながら準備をするのは楽しいけれど、役に立っているとは言いがたい。
せめて、ということで後片付けだけは任せてもらっている。武蔵はそこまでしなくていいと言ってくれたが、七海が望んだのだ。拓海と暮らしていたときからしていたことなので、得意だという自負もあった。
しかし、以前は食器が少なくてずいぶん楽だったのだと、ここで後片付けをするようになって初めてわかった。今は食器が多いうえに鍋やフライパンもあってなかなか大変である。ガスコンロやレンジもきれいにしなければならない。それでも、続けていくうちにだいぶ手慣れてきたのではないかと思う。
「よしっ!」
きれいになったシンクやガスコンロを見て、腰に両手を当てて頷く。
武蔵はもう出かける準備をすませているようだった。七海も急いで準備をする。お気に入りのセーターとショートパンツに着替え、その上に厚手のブルゾンを重ねて真冬仕様にした。黒の靴下は膝上まであるので脚もあたたかい。
「準備できたか?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
武蔵が投げてよこした小さめのヘルメットを、七海がキャッチする。いつものことなので慌てたりはしない。彼とともに山小屋を出ると、うきうきしながらバイク置き場に向かった。
こんなふうにのんびり遊びに出かけられるのは、土曜日だからだ。
平日の午前は屋内や屋外で体を動かすことになっている。軽いジョギング、腹筋や背筋、縄跳びなどをすることが多い。最近では、護身術や格闘術も武蔵に教えてもらうようになった。
そして午後はみっちりと嫌になるくらい勉強させられている。それも橘の用意した男性家庭教師にずっと付かれたままで。教えるのは上手いが、冗談さえ通じない堅物なのでどうにも息苦しくて仕方がない。
しかし、土日は学校と同じように休みだ。
せっかくなので、よほどの荒天でないかぎりは遊びに出かけていた。武蔵と二人きりのこともあれば、遥が一緒のこともある。そのときは、必ずといっていいほど武蔵の姪のメルローズもついてきた。
彼女は幼いころに拉致されて行方不明になっていたものの、二年ほどまえに武蔵に救出され、今は橘財閥会長で遥の祖父でもある橘剛三の養女となっている。こういう境遇のせいか、単に可愛いからか、みんな彼女にはすこぶる甘い。
実際、甘やかされるのがよく似合う綿菓子みたいな子だ。やわらかそうな白い肌、小さな唇、赤みがかった髪と瞳、細くすらりとした手足、どれをとってもお人形みたいである。七海のひとつ年下とは思えないくらい外見も中身も幼い。
そんな彼女のことを七海はすこし苦手に感じていた。武蔵の姪だから仲良くしなければと思っていたが、彼女が甘えているのを見るとイライラするし、甘やかされているのを見るとモヤモヤしてしまう。
だから、こうやって武蔵と二人きりで出かけられるのがいちばん嬉しい。バイクに二人乗りをして、彼の大きな体に腕をまわしてしがみつき、その体温をひとりじめしていると、心から安心していられた。
「あれ、ここって……」
バイクの後部座席から降りてヘルメットを取り、潮風を感じながら正面の景色を目にすると、不思議と懐かしい気持ちになった。どこかで見たことがあるような気もするが、思い出せない。
「そうか、七海は来たことあるかもしれないな」
ふと、武蔵がフルフェイスのヘルメットを置きながらつぶやいた。しかし、少なくとも彼と一緒にここへ来たことはないはずだ。七海はわけがわからず怪訝に眉をひそめて振り向く。
「どういうこと? なんで武蔵が知ってるわけ?」
「以前、この辺に住んでたって俊輔に聞いたんだ」
「そうだったんだ……」
おそらくマンションに転居する前のことだろう。
幼かったせいかそのころの記憶は曖昧である。薄汚れた狭いアパートにいたことはぼんやりと覚えているが、日々の出来事はあまり思い出せない。印象に残っているのは拓海が遊びに来たことくらいだ。
でも、この浜辺に連れてきてもらったことはあったのだろう。懐かしく感じるということはきっとそうなのだ。住んでいたアパートがどのあたりかはわからないが、近くなら何度も来ていたかもしれない。
武蔵が砂浜へ続くコンクリートの階段を下りていく。七海も小走りであとを追った。砂浜に入ると足がとられて途端に歩きづらくなるが、それでも遅れないように必死についていく。
武蔵の足が止まった。まっすぐ前を向いてわずかに目を細め、遙か彼方まで広がる海原を眺めている。いいのかな、と七海はすこし迷いを感じながらも、邪魔をしないようそろりと隣に立った。
こっそりと彼を見上げる。
七海の背丈はあれから15センチほど伸びているものの、彼にはまだ全然届かない。それでも顔はすこし近くなっているように感じる。遠くに向けられている青い瞳が、色彩のない薄曇りの中でやけに鮮やかに見えた。
ザザーン――。
周囲に人影はなく、寄せては返すゆったりとした波の音しか聞こえない。心が落ち着くようなどこか懐かしい音だ。ゆるやかな潮風に、昔よりすこし伸びたボブヘアがさらさらと揺れる。
「ここな、俊輔と初めて出会ったところなんだ」
「えっ?」
驚いて目をぱちくりさせた七海を見て、武蔵は薄く微笑む。
「俺は意識をなくしてたから覚えていないが、この海岸に漂着して倒れていたのを、最初に見つけたのが俊輔だったらしい。あいつは救急車を呼ぼうとしたけど、直後に来た真壁拓海が止めた。俺はそのときに捕らえられて監禁されたんだ」
具体的な話を聞いたのは初めてだった。
わざわざ他県の遠い海へ連れてきたのはこのためだろうか。いまさらどうしてこんなことをしようと思ったのかはわからないが、彼なりに考えがあるはずだ。とりあえず最後まで聞こうと無言のままじっと耳を傾ける。
「俺の監視係のひとりが俊輔だった」
武蔵は懐かしむようなまなざしで遠くを見やった。
「あいつだけは俺をひとりの人間として扱ってくれた。いつも俺を気遣ってくれた。俺に日本語を教えてくれて、俺が日本語を理解するようになると、いろんなことを話してくれた。だいたい俺と同じ年齢だってこと、両親がいないってこと、結婚したけど妻を亡くしたこと、そして可愛い娘がいるってことも」
そう言うと、意味ありげな笑みを浮かべて振り向いた。七海はドキリとして頬が熱くなるのを感じたが、気が付かなかったのか気にしなかったのか、彼はすぐに表情を消して藍色の海に向きなおった。
「だから俺もいろいろ話した。ずっと向こうの海底にある国から来たこと、潜水艇で浮上すると待ち構えていたように爆撃されたこと、この国へはいなくなった姪を探しに来たこと、姪は多分この国の人間に拉致されたんじゃないかってこと」
「え……海底にある国……?」
「水中に住んでるわけじゃないぞ」
武蔵は苦笑まじりに言う。
「説明は難しいが人工的に空間を作ってるって感じだな。みんな地上とそんなに変わらない生活をしている。空も太陽もあるし、一般人は海底だなんてことは知らない。まあ、信じられない話だろうけど」
「信じるよ」
七海は迷わず答えた。
武蔵がいまさらそんな嘘をつくとは思えない。その国がどうなっているのかはまだ理解しきれていないが、実際にそんな未知の国があるのだとしたら、武蔵の存在自体が国家機密という話も何となくわかる気がする。
「ありがとうな」
武蔵はやわらかい笑みを浮かべて、話を進める。
「七海と同じように、俊輔もその荒唐無稽な話を真剣に聞いてくれてな。さらわれた俺の姪が自分の娘と同じくらいの年齢だと知ると、ますます同情してくれるようになった。頼んでもいないのに脱走計画を立ててくれて。俺は危ないからやめろと何度も言ったんだが、あいつは上手くやるから心配ないって」
うん、お父さんはそういう人だった――。
人懐こくて、優しくて、お人好しで、おせっかいで、困っている人がいれば懸命に助けようとする。たとえ何の得にならなかったとしても。
「で、俊輔の計画通りに脱走したのはいいが、あいつが大丈夫なのか心配になってな。明かりがついているかだけ確認しようと、マンションまで行ったんだ。でも明かりは消えていた。嫌な予感がして部屋まで行ってみると刺されていて……七海に見つかったのはそのときだ」
「うん……」
すこし涙ぐむと、ふいに優しく頭を引き寄せられた。
あのとき目にした光景はあまりにも鮮烈で、強烈で、いまでもときどき思い出してゾクリとするけれど、いまはもう武蔵が犯人じゃないと知っている。だから安心してそのぬくもりに身を預けていた。しかし――。
「七海……そろそろお別れだ」
「えっ?」
一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。ゆらりと顔を上げて武蔵を見つめる。その視線の先で、彼は物寂しげにうっすらと微笑んでいた。
「来週から、七海は橘の家で暮らすことになる」
「そ、んな……」
ガツン、と鈍器で頭を殴られたような衝撃に襲われた。
ぐわんぐわんと気持ち悪いくらいに脳内が揺れている。とても何かを考えるどころではない。目の焦点が合わずよろめきそうになりながら、それでも必死にふるふると首を横に振った。
「いやだ……武蔵が……武蔵と一緒がいい……」
震える声で縋る七海に、彼は追い打ちをかけるように残酷な言葉を紡ぐ。
「春からは中学に通わないといけない」
「いやだっ!!」
わああああ、と大きな体にしがみついて火がついたように泣きじゃくった。何度も何度も固い胸板をこぶしで叩く。彼は黙ってそれを受け止め、気遣わしげに七海の頭に手を置きながらも、ごめんとしか言ってくれなかった。
すん……。
泣き疲れても、涙は止まることなく静かにあふれ続けている。武蔵の服を濡らしてしまったことを気にしながらも、ぐったり寄りかかっていると、頭に置かれていた手にすこし力がこもるのがわかった。
「七海、会えなくなるわけじゃないんだ。ときどき様子を見に行くし、何か困ったことがあったら俺に言ってくれてもいい。休日はまたどこか遊びに行ったりしよう、な?」
「……うん」
七海は力なく返事をする。
いつしかこの幸せな日々が永遠に続くかのように錯覚していたが、本当はわかっていた。武蔵との暮らしはあくまで一時的なもので、いずれ橘の家で暮らすことになるのだと。
嫌な現実を無意識に頭から追い出していたのかもしれない。あるいは夢を見ていたのかもしれない。だけど夢は夢でしかなかった。これからは現実と向き合っていかなければならない。
そのことを考えると怖くて苦しくてたまらなくなる。せめていまだけは何も考えずに武蔵に甘えていたい。彼に抱きついてほのかな体温を感じ、寄せては返す波の音を聞きながら、そっと涙に濡れた目を閉じた。
◆目次:機械仕掛けのカンパネラ