そこは応接間だった。アンジェリカの家と同等に広い。何も物が置かれていない空間が、中央に大きく取られていた。自分の座っている窓際には、レースのカーテン越しに柔らかい自然光が広がっている。全体的に明るい雰囲気だ。調度品は、新しくはないが、どれも上質で、手入れが行き届いているように見えた。
ガチャ――。
扉が開き、年配の女性が入ってきた。ティーカップを載せたトレイを手にしている。ジークの元に足を進めると、上品な物腰で紅茶を机に置き、彼へと差し出した。
「どうぞ」
「どうも」
ジークは小さく頭を下げた。だが、それには手を伸ばそうとしなかった。疑惑の目つきでじっと覗き込むだけである。
「毒なんて入っていませんよ」
老婦人はくすりと笑ってそう言いながら、部屋をあとにした。
自分の心を見透かされ、ジークはばつが悪そうにうつむいた。しかし、それでも、その紅茶には手をつけなかった。
しばらくして、再び扉が開いた。
「待たせたな」
ルーファスが尊大に低音を響かせながら、ゆったりとした足取りで入ってきた。ジークの向かいに腰を下ろす。ソファが軋み音を立てた。
ジークは険しい顔で睨みつけた。だが、ルーファスは余裕の表情でそれを受け流した。
「まさか再びここへ乗り込んでくるとは思わなかったな」
ルーファスは軽く笑いながら、顎で戸口の方を指し示す。
「向こうの台所だ、おまえが壁を壊したのは。覚えているか」
「本題に入ってもいいですか」
ジークは挑発には乗らなかった。鞄の中から紙束を取り出し、机の上に置いた。表紙がところどころ黒塗りにされている。
「知ってますよね」
上目遣いに、目の前の男を窺う。
ルーファスは冷たい目でその紙束を見下ろした。
「サイファから手に入れたのか」
「いや、ヘイリー博士からだ」
ジークはきっぱりと答えた。
ルーファスはそれを手にとり、ペラペラとめくった。
「サイファが回収したものと思っていたがな」
眉ひとつ動かさず、独り言をつぶやく。
「あいつのやり方はぬるくていかん。私なら徹底的にやる。逆らう気など起きぬようにな」
ジークはごくりと唾を飲んだ。淡々とした言い方だったが、だからこそ真実味があるように感じた。対処したのがサイファで良かったのかもしれない。
――ブワッ。
突然、鈍い音とともに閃光が走った。その一瞬で紙束は灰燼と化し、ルーファスの手から机の上に崩れ落ちた。細かな燃え殻が、埃のように舞い上がる。
「それで?」
ルーファスは手についた灰を払いながら、涼しい顔で尋ねた。
ジークは何の前触れもなく起こったことに、目を丸くしていた。紙の焼けた匂いが現実を伝えている。しかし、すぐに気を落ち着け、冷静に口を開いた。
「コピーはとってあるぜ。誰にもわからないところに隠してある」
「ほう、少しは頭が働くようだな」
ルーファスは冷ややかに言った。少しも動揺している様子はない。ジークはこのとき初めてサイファの忠告に感謝した。あの忠告がなければ、コピーを取ることはなかっただろう。
「頼みがある」
「頼みではなく脅迫ではないのか」
ルーファスは鼻先で笑いながら言った。
ジークはぎこちなく口角を吊り上げた。その額には薄く汗が滲んでいる。
「そうとってもらっても構わないぜ。聞き入れてもらえない場合は、さっきの論文を公表するつもりだ」
「何の伝手もない君が、どうやって公表するつもりだ」
「わかりそうな学者や学生に配りまわれば、噂にくらいはなるんじゃねぇか。見る人が見れば、正しいかどうかわかるだろうしな」
ルーファスは口元に微かな笑みをのせた。
「なるほど、思ったより頭が働くようだ。それで、要求は何だ」
「わかってんだろ。アンジェリカを自由にしろ」
ジークは昂る感情を抑えながら、低い声で言った。怒りで我を忘れては、以前の二の舞になりかねない。もう同じ過ちを繰り返さないと心に決めている。
「それは無理だ。我々にはあの子が必要でね」
ルーファスは考える素振りすら見せずに即答した。
ジークは眉をひそめ、鋭く睨みつけた。
「いくらラグランジェ家を救うためでも、実験台なんて絶対に許さねぇからな」
「何の話だ」
「今さらとぼけるな! あの論文は読んだぜ」
ルーファスは目を伏せ、ふっと笑った。
「そうか、この論文以外の真実は、何も知らんというわけだ」
ジークは怪訝な面持ちで首をひねった。
「どういうことだ」
「アンジェリカは実験台などではない。滅びゆく我々の救世主となるべき存在だ」
「救世主?」
ジークはますます訝った。
「だって、あいつの遺伝子は綻びがきてるんじゃ……」
「逆だ。あの子だけが唯一、正常な血を持っている」
「え? 何で……」
ルーファスはまっすぐにジークを見据え、今までにない真摯な口調で言う。
「アンジェリカは丁重に扱うと約束しよう。君は黙って手を引けばいい。あの論文を公表すれば、ラグランジェ家の威信は失墜する。サイファもアンジェリカも、皆が不幸になるだけだ」
「このままじゃ、どのみちアンジェリカは不幸だ!」
ジークはこぶしを机に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。再び灰が舞い上がり、静かに落ちていく。
ルーファスはそれにも動ずることはなかった。
「サイファがついている。不幸になどしないだろう」
「いくら父親がついてるっていっても……」
「夫だ」
「は?」
ジークはぽかんとした。話の繋がりがわからなかった。
ルーファスはソファの背もたれに身を預けた。革が摩擦音を立てる。恰幅のいい腹の上で手を組み、悠然とジークを見上げた。
「サイファがアンジェリカの夫となる予定だ」
「……ちょっと待て」
ジークは額を押さえ、崩れるようにソファに腰を下ろした。頭が混乱して、何がなんだかよくわからない。嫌な汗が体中から滲んでいる。
ルーファスは淡々と説明を始めた。
「もちろん、表向きには別の夫を用意するがな。事実上の夫はサイファだ。サイファとの子をなし、後継者として育てるのが、アンジェリカの役目だ」
ジークはうつむいたまま眉根を寄せた。そして、ゆっくり顔を上げると、ルーファスをじっと睨む。
「何もかも間違ってんだろ、それ。だいたいそれじゃ、ますます破滅へ向かうだけじゃねぇか。俺をからかってんのか? バカにしてんのか? 試してんのか?」
「真面目な話だ」
ルーファスは青い瞳でまっすぐに見つめ返した。
「それで何でラグランジェ家が救われることになるんだよ!」
「心配無用だ。我々は君より多くの事実を知っている」
「説明しろよ!」
一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。受け答えが感情的になっていく。
そんな彼を、ルーファスは冷淡に突き放す。
「その義務はない」
ジークは顔をしかめた。
「アンジェリカは、あいつは承諾してんのかよ」
「近いうちに話をするつもりだ。逆らうことはないだろう。我々に従うと約束したのだからな、君を助けるために」
ルーファスは嫌みたらしくそう言うと、ニヤリと口元を歪めた。
ジークは唇を噛み、うつむいた。
そうだ、俺のせいだ――。
だからこそ、自分が彼女を救い出さなくてはならない。ラグランジェ家では家の存続がすべてなのだ。そんな捻れた家では、絶対に彼女は幸せになれない。
「大人しく帰れ」
ルーファスは大きく息をつきながら体を起こした。そして、ジークの前に置かれたティーカップに手を伸ばした。少し灰が浮かんでいたが、気にせず口に運ぶ。
「まだ答えを聞いてねぇ」
ジークは強気に言った。
「引く気はないようだな」
「当然だ」
「一日だけ時間をくれ」
ルーファスはティーカップを机の上に置いた。
「私ひとりで決断するわけにはいかんのでな」
「長老会で討議して決めるってわけか」
ジークは険しい目つきでルーファスを窺った。彼は感情のない視線をジークに向けていた。口を閉ざしたまま、何も答えようとはしない。
「明日のこの時間、答えを聞きに来るぜ」
ジークはソファから立ち上がった。そして、ルーファスをひと睨みすると、腹立たしげに鞄を引っ掴み、足早に出て行った。
…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。
最新の画像もっと見る
最近の「小説」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事