瑞原唯子のひとりごと

「ピンクローズ - Pink Rose -」第12話 妥協点

 その日も医務室はとても静かだった。
 昼下がりの穏やかな光が、レースのカーテン越しに柔らかく室内を照らしていた。細く開いた窓から入り込んだ風が、そのカーテンを微かに揺らめかせている。

 ラウルは机に向かって黙々と本を読んでいた。来るかどうかもわからない患者を待っているのである。ひとりも来ない日の方が多い。それでも、ここで待機するのが王宮医師としての仕事なのだ。

「ラウル、こんにちは」
 ノックもなしに扉が開き、レイチェルが澄んだ声で挨拶をしながら入ってきた。軽い足どりでラウルに駆け寄り、後ろで手を組んでにっこりと笑顔を見せる。
 ラウルは彼女を冷たく一瞥して言う。
「何をしに来た。今日は家庭教師は休みだろう」
「だから遊びに来たの」
「帰れ。家でプリンでも作っていろ」
 彼女にはきのう、約束どおりプリンの作り方を教えてやった。呆れるくらい詳細なレシピも渡した。あしたから頑張ると張り切っていたはずなのに、どういうつもりで遊びに来たのかわからない。単なる小休止だろうか。それとも諦めたのだろうか。もうプリン作りに成功した――とは、とても考えられない。
 レイチェルは顔の横で右手を広げて見せた。真ん中の三本の指の先には、それぞれ絆創膏が巻いてあった。
「……火傷か」
「ええ、午前中に作りかけていたんだけど、そのときに手を滑らせてしまったの。それで、この火傷が治るまでプリン作りはお休みしなさい、ってお母さまに言われて」
 ラウルは溜息をついた。早々に懸念が現実になってしまった。だが、これくらいの火傷でまだ良かったといえるだろう。診てみないと正確なことはわからないが、そう酷くはなさそうである。
「座れ」
 患者用の丸椅子を顎で示して言う。本を閉じて立ち上がると、薬、包帯、ガーゼなどを棚から取り出し、手際よく準備を進めていった。
「本当にお医者さんなのね」
 レイチェルは感心したように言った。数日前にも同じことを言っていたが、あのときは単に医務室を見ただけである。実際に医者として行動するラウルを見て、初めてその実感を持ったに違いない。
「ようやく信じたのか」
「疑っていたわけじゃないの。ただ、少し不思議な感じがしただけ。私にとってラウルは家庭教師の先生だから、お医者さんっていう印象があまりなくて」
 レイチェルはにっこりと微笑んだ。
 ラウルは無言で椅子に座り、彼女と向かい合った。ほっそりとした白い手を取り、すべての絆創膏を丁寧に外していく。火傷は思ったとおり軽度のものだった。跡が残ることもないだろう。消毒をして薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。三箇所もあるため、少し仰々しく見える。
「ずいぶん大袈裟ね。指が動かしにくいわ」
「我慢しろ」
 不満げなレイチェルを、ラウルは冷たく一蹴した。
「どのくらいで治るの?」
 レイチェルは広げた右手を表にしたり裏にしたりしながら尋ねる。
「数日、長くても一週間だ」
「治ったらまた頑張るわね、プリン作り」
「……今度こそ気をつけろ」
 ラウルは静かに注意を促した。しかし本音は違う。もう止めろと言いたかった。だが、そう言ったところで、彼女が素直に聞くとは思えない。それに、せっかく彼女が意欲を見せているのだ。なるべくその気持ちを尊重してやりたいという思いもあった。
「ありがとう。いつかきっと、ラウルに食べてもらえるものを作るわね」
 レイチェルは眩しいくらいの笑顔を見せた。
 ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「治療は終わった。もう帰れ」
「これから外へ遊びに行かない?」
 レイチェルは顔を斜めにして誘いかけた。
「帰れ」
 ラウルは冷たくそう言うと、彼女に背を向けて後片付けを始めた。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「行きたいところがあるの」
「ひとりで行け」
「ラウルと一緒に行きたいの」
「仕事中だ」
「一時間だけ休憩して行きましょう、ね?」
「……一時間だけだぞ」
 ラウルは観念したかのように溜息をついて言った。結局、いつも彼女の思いどおりになってしまう。それを許しているのは、彼女に対する自分の甘さに他ならない。そのことはわかっていた。そして、その理由もはっきりと自覚していた。

…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。

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