瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」第65話 泡沫の奇跡

「きのうはごめんね」
 昼どきの喧騒の中、明らかに自分に向けられた声。ジークはサンドイッチを持つ手を止め、顔を上げた。そこにはトレイを持ったターニャが立っていた。ぎこちない笑顔を浮かべている。
「ああ」
 ジークは固い声で返事をした。それから、サンドイッチをひとくちかじると、ぼそりと小さな声で言った。
「座れよ」
「うん」
 ターニャは彼の向かいにトレイを置き、音を立てないよう静かに座った。黙々と食べ続ける彼を見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「あのね、きのう言ったこと……」
「もういいぜ。あのことは忘れる」
 ターニャは首を横に振った。
「きちんと話すわ。聞いてくれる?」
 ジークの手が止まった。
「無理すんなよ」
「決めたから」
 ターニャは緊張した面持ちできっぱりと言った。そして、かすかに笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「あんまりごはんどきに話すような内容じゃないんだけど」
「気にしねぇよ」
 ――あの人に殺されかけた。ターニャはきのう、そう言って泣いた。どう転んでも楽しい話であるはずがない。言われるまでもなくわかっている。
 ターニャは温かいスープをひとくち流し込み、小さく息をついた。
「私の父はね、私が三歳のときに自殺したの。首をくくってね」
 ジークは繕った無表情で、サラダにフォークを突き刺した。ターニャはうつむき、声のトーンを落とした。
「それを最初に見つけたのが私だった」
 覚悟はしていたものの、思った以上の重さだった。ジークは口を開くことができなかった。
「でね」
 ターニャは気を取り直すように明るい声を作り、ぱっと顔を上げた。
「あの人は……母は、ショックで精神を病んじゃったらしいのよ。それで私は何の世話もしてもらえないまま放置されていたのね。衰弱して死にかけていたところを近所の人が見つけてくれて。そのあと施設……孤児院ね、に預けられたわけ」
 その内容とは不釣り合いなくらいに軽くテンポよく一気に言い切ると、大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
「ああ、それで殺されかけたって……」
 ジークは納得したように言った。ターニャはばつが悪そうに笑ってみせた。
「それから三年くらいは口がきけなくなっていたらしいわ。この頃の記憶もあんまりないのよね」
 ジークは掛ける言葉を思いつかなかった。しかし、押し黙っている彼を見て、ターニャは口をとがらせた。
「今はこんなによくしゃべるのに信じられないとか思ってるんでしょ?」
「言ってねぇよ!」
 ジークが怒ったように否定すると、彼女はくすりと笑った。
「本題はここから」
「本題?」
 ジークは怪訝に眉をひそめた。ターニャは真剣な顔で、身を乗り出した。
「母には私の居場所を一切教えないことになっているのよ。だから三歳のとき以来、一度も会ってないし、私がここで働いていることだって知るはずない」
「でも聞いたって言ってたぜ」
「でしょ?」
 彼女は不機嫌に口をとがらせ、ほおづえをついた。空いた方の手でフォークをとり、サラダをつつく。
「どうもおかしいのよ。誰が知らせたのかしら」
「心当たりはねぇのか?」
 ジークはサンドイッチをほおばりながら尋ねた。
「母のことを知ってるのはごく少数よ。施設の先生とユールベルとキミの担任くらいかなぁ」
「ラウルが?」
 ジークは顔をしかめた。ターニャはこくりと頷いた。
「しゃべれなくなってたときに、診てもらったことがあるらしいの」
 彼女はさらりと言ったが、ジークは難しい顔で眉間にしわを寄せた。
「あやしいぜ。あいつが犯人だろ」
 ターニャは首をかしげた。
「どうして? 動機なんてないじゃない。あの先生がそんなにおせっかいとも思えないし」
「そうだな……」
 ジークはどことなく残念そうだった。
「ユールベルは母の居場所なんて知るわけない。とすると、施設の先生じゃないかなって」
「動機はなんだよ」
「うーん……私と母を仲直りさせよう、とか?」
 ターニャは自信なさげに言った。ジークもいまいち納得のいかない表情で首をひねった。
「でね」
 そんな彼を覗き込むように、ターニャは机にひじをついて身を乗り出した。
「帰りに施設に寄ってみようと思うの。確かめるだけ確かめたいし。一緒に行ってくれない?」
「なんでだよ。俺には関係ねぇだろ」
 ジークは無関心にそう言って水を飲んだ。ターニャはにこにこしながら両手でほおづえをついた。
「私の話を聞いたんだから関係なくはないでしょ」
「……」
 ジークは弱ったように頭をかいた。

…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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