瑞原唯子のひとりごと

「誰がために鼓動は高鳴る」第2話 恋人の定義

「恋人って何をするんですか?」
 総司に告白された翌日、一緒に帰る彼に返事を求められて陽菜はそう尋ね返した。
 あれから一晩、ほとんど睡眠も取らずに考えてみたものの、考えれば考えるほどわからなくなった。恋人というのはどういう存在なのか、付き合うというのは何をするのか、陽菜を好きと言ったのは本気なのか。なにもわからないままでは考えがまとまるはずもない。なので、思いきって率直に疑問をぶつけてみることにしたのだ。
「別にこれといって決まっているわけじゃないよ」
 総司は嫌な顔ひとつせずに答える。
「藤沢さんが行きたいところがあれば一緒に行こう。したいことがあれば一緒にしよう。ふたりがしたいと思うことを積み重ねていくんだ。僕としては、こうやって話をしているだけでも楽しいけどね」
「それって友達とどう違うんですか?」
 陽菜には友達がいたこともないので曖昧にしかわからないが、一緒に遊んだり相談し合ったりする関係だと認識している。総司の話を聞く限りではそれと大差ないように思えた。
「友達は複数いてもいいけど、恋人は基本的にひとりだね」
「いちばん仲のいい友達が恋人ってことですか?」
「友達よりももっとずっと大切で特別なのが恋人だよ」
 そう答えながら、総司は目を細めて熱っぽく見つめてくる。陽菜の心臓はドクンと大きく脈打った。息の詰まりそうな苦しさに耐えられずに視線を外す。
「朝比奈さんは……私のことを特別だと思ってるんですか?」
「もちろん思ってるよ。藤沢さんは僕のことどう思ってる?」
「……たぶん好きだと思います。でも特別とまでは」
「今はそれでいいよ。恋人になってすこしずつ特別になれば」
 総司はとても優しい。こんな面倒くさい陽菜を否定せずに受け入れようとしてくれている。しかし、どうしてそこまでしてくれるのか理解できず戸惑いを隠せない。難しい顔をして黙りこくった陽菜に、総司はわずかに焦燥をにじませて言いつのる。
「藤沢さん、僕には藤沢さんが必要なんだ」
「わかりません。私なんかがどうして……」
「藤沢さんは可愛いよ。僕にとってはね」
「……っ!」
 動揺したせいだろうか。凍った地面で足元を滑らせて転びそうになった。が、すんでのところで隣の総司に受け止められる。そして丁寧に立たせてくれたのはいいが、いつまでも背中に手をまわしたまま放してくれない。熱っぽくもせつなげなまなざしで微笑みかけてくる。
 移植された心臓はとても丈夫なはずなのに、彼といるときだけおかしくなってしまう。きのう数日ぶりに再会してからさらに症状がひどくなった。今も心臓が飛び出しそうなほど大きく脈打っていて、とても冷静に考えられる状態ではない。
「あの……もうすこし考えさせてください」
 どうにかそれだけ告げると、彼の返事を待つことなく一目散にすぐ近くの自宅へ駆けていく。背後から陽菜を呼ぶ声が聞こえたが立ち止まりはしなかった。

 陽菜は自室のベッドに倒れ込むように横たわると、溜息をついた。
 総司のことが好きなのはきっと間違いない。けれど恋人になりたいとか付き合いたいとかは思っていない。今のようにアルバイトの帰りにすこし話ができるだけでよかった。それだけで嬉しかったのに。胸が苦しくなりこぶしで押さえながら体を丸める。
 彼はどうして恋人になることに固執しているのだろう。今の関係を継続するのではいけないのだろうか。特別だの必要だのと言われるたびに怖くなった。何ひとつ好かれる要素のない陽菜に、それほどまでの気持ちを向けているなんて信じられない。
 そうか――。
 彼の気持ちが信じられないから怖くて逃げ腰になっていたのかもしれない。恋人になることにどれほどの価値があるのかは正直わからない。けれど、彼が真摯に話してくれているのに逃げているだけではいけないと思う。陽菜も真摯に彼と向き合って何らかの結論を出さなければ。静かに思考をめぐらせながら、心臓を宥めるようにゆっくりと呼吸をして目を閉じた。

 その翌日。
 アルバイトを終えた陽菜が裏口から外に出ると、小雪のちらつく中に総司が傘を差して立っていた。陽菜と目が合うとすこし気まずそうな微笑を浮かべ、無言で傘を差し掛けてきた。折りたたみ傘を持っていたのでどうしようか悩んだが、その傘に入れてもらうことにした。
「藤沢さんに嫌われたんじゃないかと心配してたけど、一緒に帰ってくれるってことは大丈夫なんだよね?」
「はい、きのうはすみませんでした……びっくりしてしまって……」
 動揺したとはいえ置き去りにして逃げた陽菜が悪い。申し訳なく思いながら答えると、彼はよかったと安堵の息をついて笑みを浮かべた。
「それで、僕と付き合うことは考えてくれた? あ、急かしているわけじゃないからゆっくり考えてくれていいんだけど……告白の返事を待っているっていうのはどうにも緊張して落ち着かなくて。判決を待つ被告人の気分だよ」
 そう言って苦笑する彼を見て、陽菜は驚いた。
「すみません」
「いや、藤沢さんを責めているわけじゃないよ」
 余裕があるように見えていたので、緊張しながら返事を待っているなど思いもしなかった。いつまでも彼の優しさに甘えて引き延ばすわけにはいかない。
「私の話、聞いてくれますか?」
 意を決してそう言うと、信号もない路地の交差点の片隅で静かに足を止めた。傘を差していた彼も陽菜に合わせて足を止める。話して、と優しく染み入るような声で促されて、ゆっくりと呼吸をしてから言葉を継いだ。
「私は生まれつき心臓に欠陥があって、成人までは生きられないと言われていました。でも一年半前に心臓移植の手術を受けて私の命は繋がりました。今ではもう普通に日常生活が送れるようになっています。ただ幼いころからほとんど入院生活で、学校にもまともに通えていません。高校進学もあきらめたので中卒です。何も知らないし友達のひとりもいません。無表情で笑うことさえできません。それと胸に大きな手術跡が残っています。だから、私は朝比奈さんの特別になれるような人間じゃ……」
「そんなことを気にしていたの?」
 どこか不機嫌さを感じさせる低く抑えた声に話を遮られた。顔を上げると、彼は真剣な面持ちでまっすぐ陽菜を見つめていた。思わず息を飲む。
「僕にとってはそんなの全然問題じゃないよ。藤沢さんは藤沢さんだ」
「でも、私には特別に思われるようなところは何もありません」
「真面目で一生懸命で実直なところも、落ち着いているところも、たまにはにかんでくれるところも、僕が見つめるだけで真っ赤になるところも、すべて愛おしくて特別だよ……藤沢さんが嫌じゃないならお願いだ、恋人になって。これからもずっと僕の隣にいて」
 ひたむきに、一心不乱に、縋るように、前のめりで懇願してくる。きのうまでとはまるで別人のように感情的だ。あの大人の余裕はどこへいってしまったのだろう。しかし、だからこそ本気だということが伝わってきて、こそばゆいようなあたたかいような気持ちになる。
「無知でご面倒をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
 覚悟は決まった。彼に向きなおり、その揺らいだ双眸を瞬ぎもせず見つめながら告げる。昨晩、足りない頭ではあるが自分なりに考えて決めたのだ。懸念をすべて話して、それでも迷わず陽菜を望んでくれるなら了承しようと。
 彼はパァッと顔をかがやかせ、差していた紺色の傘を放り出して陽菜を抱きしめる。
「ありがとう! ずっと……ずっと大切にするから……」
 その声はかすかに震えていた。真剣に思ってくれているのだと感じて胸が熱くなる。はらはらと舞い落ちる小雪が頬に触れて融けた。
「ねえ、ハルって呼んでいいかな? 陽菜だからハル」
 思いもしなかったことを提案されて目をぱちくりさせる。生まれてこの方、愛称で呼ばれたことなど一度もない。藤沢さん、陽菜、陽菜ちゃんのいずれかだ。そもそも家族、医師、看護師以外から名前を呼ばれることは滅多になかった。総司と出会うまでは。
「ダメ?」
「いえ、朝比奈さんがそう呼びたいのであれば」
 むしろそう呼んでもらえると嬉しいかもしれない。それが彼だけの特別な呼び方になるのだ。
「僕のことは総司って呼んで」
「総司、さん……?」
 おずおずとそう呼ぶと、陽菜を抱きしめる彼の腕にぎゅっと力がこめられた。小柄な陽菜の体は地面から浮きそうになり、爪先立ちで彼のジャケットにしがみつく。
「心臓、ちゃんと動いてる。元気のいい鼓動だね」
 感慨深げにそう言われて、ふいに目の奥が熱くなりじわりと潤むのを感じた。この心臓のおかげで信じがたい出来事を体験している。あれほど生きることが不安で憂鬱で仕方なかったのに、彼を出会ってすこしずつ景色が色づいて見えるようになった。こんなにも感情を揺さぶられるようになった。
「心臓をくれた人に初めて感謝しています」
「ちゃんと生きててくれた……ハル……」
 どうにか絞り出したようなその声も、陽菜を抱きしめている大きな体も、はっきりとわかるくらい震えていた。そして触れ合う頬に何かぬるいものが伝うのを感じた。
 涙――?
 陽菜のものではないので彼が泣いているとしか考えられない。そのうち必死に抑えたかすかな嗚咽も聞こえてきた。どうしてここまでと思いながらもドクンと鼓動が跳ねるのを感じた。しかし――その涙の本当の意味を、このときの陽菜はまだ知るよしもなかった。


…これまでのお話は「誰がために鼓動は高鳴る」でご覧ください。

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