瑞原唯子のひとりごと

「自殺志願少女と誘拐犯」第1話 誘拐犯になった日

 つまらない人生だな——。

 梅雨が明け、もう一週間もカンカン照りの猛暑日が続いていた。
 インクをそのまま流し込んだかのような鮮やかな青空に、まぶしいくらい真っ白な入道雲。アスファルトの上には陽炎がゆらりと揺らめき、アブラゼミもここぞとばかりに大合唱している。
 そんな中、客先での打ち合わせを終えた遠野千尋(とおのちひろ)は、ビジネスリュックを背負い、スーツの上着を片手に掛けて、さほど車通りの多くない交差点で信号待ちをしていた。
 容赦なく照りつける強い日差しにジリジリと肌を灼かれ、顔からは止めどなく汗がしたたり落ちる。最初はハンカチで拭っていたがもうあきらめた。まぶしすぎる直射日光に眉をひそめて、そっと息をつく。
 これといって不満があるわけではない。
 大手企業に入社して七年。システムエンジニアとして真面目に仕事をこなすうちに、幾度かの昇進を重ね、いつしか責任のある仕事を任されるようになった。待遇にも問題はなく、ひとりで生きていくには十分な給料をもらっている。
 私生活においては、趣味といえるほどではないがささやかな楽しみを持っている。友人や恋人はいないのは千尋自身が求めていないだけだ。自分ではそれなりに悪くない日々だと思っている。
 けれど、例えばこんなふうに赤信号に足を止められてぼんやりと立ちつくし、暑さのせいか疲れのせいか思考がからっぽになったときなどに、ふと人生が虚しくなる一瞬があるのだ。

 正面の信号が青に変わった。
 しかし、黒のワンボックスカーが交差点の右手側から突っ込んでくる。改造マフラーで爆音を響かせるいかにもな車だ。通行人にしかすぎない千尋に止められるはずもなく、通り過ぎるのを待つしかないなと溜息をついた、そのとき。
 隣の少女がすっと前に進んでいく。
 千尋はギョッとし、反射的にその細腕をつかんで力いっぱい引き戻した。のけぞる少女のすぐまえを、ワンボックスカーがすさまじいスピードで走り抜け、紺色のプリーツスカートをかすめてバサリと音を立てる。少女は後ろによろめいて点字ブロックの上に倒れ込んだ。
 危なかった——。
 あまり物事に動じないタイプではあるものの、これには心臓が縮み上がった。いまだに動悸がおさまらない。深く息をつき、足下に落としてしまった上着を拾うと、立ち上がろうとする少女に手を差し伸べる。随分と幼げに見えるが、セーラー服を着ているのでおそらく中学生だろう。
「青信号でも左右を見てから渡れよ」
「すみません」
 彼女は動揺もせず、何事もなかったかのように醒めた目をしている。確かに血が出るような怪我はしていないし、骨折の心配もなさそうに見えるが、だからといってこの落ち着きぶりは腑に落ちない。
 千尋は近くに放り出されていた学生鞄を拾い上げる。それに気付いた彼女が受け取ろうと手を伸ばしてきたが、無視して自分の肩にのせた。困惑する彼女にそのままじっと冷ややかな視線を送る。
「おまえさ、車が来てるのわかってたんじゃねぇの?」
「…………」
 どうやら読みは間違っていなかったらしい。
 あのとき彼女はまっすぐ正面を向いて歩いていた。静かな風景のなかで動くものは目につきやすいし、何より爆音が響いていたので、よほどのことがないかぎり気付くと思ったのだ。
「ちょっと来い」
 千尋は学生鞄を脇に抱え、折れそうなほど細い手首をつかんで歩き出した。

「ほら、飲めよ」
 公園前の自動販売機でペットボトルのお茶を買うと、戸惑う彼女に押しつけた。
 同じお茶をもうひとつ買って公園内のベンチへ移動する。片側だけ木陰になっていたのでそこに彼女を座らせ、千尋は傍らに立つことにした。さすがに灼熱のベンチに座る気にはなれない。
 足下にビジネスリュック、学生鞄、上着を置いてペットボトルのお茶を飲む。炎天下を歩いていた体にはその冷たさがありがたい。喉の渇きも手伝ってすぐに飲み干してしまった。
 そんな千尋を横目で見て、ようやく彼女もペットボトルのキャップを開けた。両手で持ちながらちびちびと飲んでいく。しかし半分も減らないうちに腿の上におろし、うつむいた。
「なあ、おまえ死ぬつもりだったのか?」
「薄っぺらいお説教はまっぴらです」
 何を言われるかは察しがついていたのだろう。驚く素振りもなく、下を向いたまま身じろぎひとつせず淡々と言い放った。千尋はこれ見よがしに深く溜息をつきながら、腰に手を当てる。
「おまえが死のうが生きようがどうでもいいが、まわりの迷惑を考えろ。人を轢かされたほうはたまったもんじゃねぇぞ。オレも目のまえで惨劇なんか見せられたくねぇし」
「私は青信号で渡ろうとしただけです」
 彼女は怯むことなく白々しい答えを返した。思わず眉をひそめて振り向いた千尋に、ちらりと仄暗い目を向ける。
「悪いのは、信号無視をしたあの車じゃないですか」
「……なるほどな」
 つまり、あえて暴走車を狙って突進したということだ。迷惑をかけるならクズにしようと思ったのか、あるいは事故に見せたかったのか、いずれにしても思案したうえでの行動だろう。
 だとすれば、そう都合よく暴走車が通るとは思えないので、前々から機会を窺っていたと考えるのが自然である。気の迷いとか、出来心とか、そういう突発的なものである可能性は低い。
 彼女は表情を消し、ペットボトルを両手で持ったまま再びうつむいた。
「おにいさんを巻き込んだことは謝ります。すみませんでした。迷惑ついでに交通費を恵んでくれませんか。どこか遠い山奥まで行けるくらいの」
「自殺幇助するつもりはねえよ」
 まずいな——頭の中で警鐘が鳴り始める。
 軽々しく関わるべきではなかったのかもしれない。普段は他人に無関心なのに、どうしてこんな面倒なものに声をかけてしまったのだろう。そう後悔しているにもかかわらず興味がかきたてられるのを止められない。
「どうして死にたいんだ?」
「……生きる価値がない、みんなが嫌ってる、迷惑だから死んで、って物心ついたときから言われつづけて……もう疲れました。誰からも嫌われてるのに頑張って生きても意味がない。あのひとの望みどおりになってしまうのは癪ですけど」
 その発言のとおり、もう何もかもあきらめているように見える。絶望のあとに残った抜け殻のようだ。物心ついたときからというのが本当なら、もう十年くらいずっと虐げられているのだろう。そして——。
「それって、親か?」
「別に信じてくれなくてもいいです」
「信じないなんて言ってないだろう」
 実親か養親かはわからないが、どちらにしてもありえないということはない。子供にむごいことをする親なんていくらでもいる。詳しく聞こうとしたそのとき、彼女はペットボトルを置いて立ち上がり、千尋に頭を下げた。
「否定しないで聞いてくれてありがとうございました。ただの気まぐれだとしても嬉しかったです。最後に話をしたのがおにいさんでよかった……鞄はそのあたりにでも捨ててください」
「待てよ!」
 あわてて声を上げると、立ち去ろうとした少女はビクリとして足を止めた。
 ジジジジジジ——アブラゼミの鳴き声がやけに大きく聞こえる中、千尋は小さな背中を見つめ、じわじわと汗をにじませながら眉を寄せる。このまま彼女を行かせるわけにはいかない。
「死ぬくらいなら、いっそオレに誘拐されてみないか?」
「……えっ?」
 紺のセーラーカラーがひらりと揺れて、少女が振り向く。
 表情の乏しい顔のなかで瞳だけがわかりやすく揺れていた。そこに見え隠れするのは疑念と渇望だ。その相反する感情に雁字搦めになったかのように、彼女は声もなく立ちつくしている。
 千尋はすっと手を差し出した。
 その瞬間、彼女のなかで均衡が崩れるのがはっきりと見てとれた。まなざしにも確固とした意志が宿る。そのまま彼女はゆっくりと一歩踏み出して距離を詰め、そして——そっと千尋の手を取った。


◆目次:自殺志願少女と誘拐犯

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