エリザベスは一通りの説明を終えると、精一杯の笑顔を作って尋ねた。心からの笑顔を見せる余裕はもうない。この数日の家庭教師の仕事は思った以上に大変で、疲労困憊、もう逃げ出したいくらいの気持ちである。
その元凶は、目の前に座るこの少女だった。
悪い子ではない。むしろ稀に見るくらいの素直な子である。ただ、あまりにも常識を知らなさすぎるのだ。ラグランジェ家の深窓の令嬢だとは聞いていたが、14歳であり、少しは男女のことについてわかっているものと思っていた。
しかし彼女は、唇を触れ合わせるキスの存在も知らなかったし(頬にするものだと思っていたらしい)、それどころか「恋」という言葉すら知らなかったのである。いろいろ質問をしてくるものの、当たり前のように受け入れてきた概念を、あらためて根本から説明することはとても難しい。
高額の報酬に目がくらんで思わず飛びついてしまったが、授業を始めてすぐに後悔することとなった。だからといって途中で辞めたいなどとも言い出せない。悩んでいるうちにもう最終日である。ここまできたら何とか乗り切るしかないだろう。
「何となくわかったけれど……なんだか恥ずかしいし、それに怖いわ」
レイチェルは顔を曇らせて答えた。
そういうごく普通の感想が聞けたことに、エリザベスは少しだけ安堵する。
「怖れることはありません。誰もが通る道ですよ。難しいことは考えずに、あなたはただ殿方に身をゆだね、すべてをお任せすれば良いのです」
「誰もが? 先生も?」
「え、ええ……」
どうして私に話を振ってくるのよ! とエリザベスは焦りまくった。あれこれ自分の経験を聞かれてはたまったものではない。
「あのね、レイチェルさん。こういうことは大っぴらに話すものではないのよ。秘め事という言い方もあるくらいですからね」
「わかったわ」
レイチェルはにっこりと微笑んで言った。
「それではレイチェルさん、何か質問はありますか?」
一応、義務でそう尋ねたものの、何も訊いてくれるなと心の中で必死に祈った。しかし、その祈りは神様には届かなかったようだ。無情にも、レイチェルはすっと右手を挙げた。
「どうぞ、レイチェルさん」
「なんのためにこんなことをするの?」
「ああ……」
大事なことを言い忘れていた。これは自分のミスである。
「それには二つの目的があります。ひとつは子供を授かるため。もうひとつは愛する人との愛を深めるため。まあたいていの場合は後者ですね」
エリザベスはごく簡単に説明すると、一息つき、用意されていた紅茶を口に運んだ。すでにぬるくなっていたが、疲れた喉を潤すにはちょうどいいくらいである。
その間、レイチェルはじっと何かを考え込むと、ふと小さな口を開いて言う。
「それなら、手始めにお父さまとしてみるわ」
エリザベスは紅茶を吹いた。
「ちょっと!! 手始めってなんですか?! お父さまってなんですか?!」
「お父さまになら裸を見せてもきっと平気だと思うの。それに私、お父さまのことが大好きだし、もっと仲良くなりたいとも思っているわ」
レイチェルはにこにこしながら答えた。冗談でもなんでもなく、いたって真面目に言っているようである。だからこそ余計にたちが悪い。
「あのね、レイチェルさん……」
エリザベスは誰かに助けを求めたい気持ちでいっぱいだったが、なんとか笑顔を作り、小さな子供に対するような精一杯の優しい口調で尋ねる。
「お父さまのことを男性として好きなわけではないでしょう?」
「お父さまは男性よ?」
レイチェルはきょとんと首を傾げて、不思議そうに言った。
完全に話が通じていない。
しかし、考えてみれば当然である。恋愛のことなど何もわかっていない彼女に「男性として」などという認識が通じるはずもない。こうなったら作戦を変更するしかないだろう。エリザベスはこほんと咳払いすると、急に真面目な顔になった。
「お父さまはいけません。法律でそう決まっているの」
「そう……それなら仕方ないわね」
エリザベスの言ったことは嘘である。だが、この場合は嘘も方便ということで自分を納得させた。親子間で結婚できないという法律はあるので、そう間違っているわけでもないだろう。
「それにね、女性の方から誘いかけることは、とてもはしたないことなのですよ。先ほども言いましたでしょう? 大っぴらに話してはいけないことだと」
「そうだったわね。わかったわ」
彼女のこういう素直なところはありがたい。せめてもの救いである。エリザベスは深く安堵の息をついた。それにしても――。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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