瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」番外編 ルームシェア



「大学生になったら二人で住もう」
 始まりは、翼がさらりと口にしたそのひとことだった。
 隣を歩いていた創真は、思わず「えっ?」と聞き返しながら振り向いた。にわかには理解できなかったというか、信じられなかったのだ。けれども翼は至極当然のように言葉を継ぐ。
「いずれ結婚するんだから構わないだろう」
「いや、家からでも通えるのに何でわざわざ」
「僕は早くあの家を出たいんだよ」
「ああ……」
 尊敬していた父親のひどく不適切な過去が明らかになったり、後継者として育てられていながら次期後継者に指名されなかったり、次期後継者に指名されたのが折り合いの悪い桔梗だったりで、翼が居づらさを感じるのはわかる気がした。
「じゃあ親に訊いてみる」
 一応、お伺いは立てるが、放任主義の両親が反対することはおそらくないだろう。むしろ自立への第一歩として歓迎しそうな気がする。翼もそれがわかっているからか満足そうな顔をして頷いた。

 半年後、二人とも第一志望の同じ大学に合格し、約束どおり一緒に住むことになった。
 マンションはキャンパスから徒歩数分のところだ。2LDKで、キッチン、リビング、バス、トイレなどは共通だが、他にそれぞれ自室を持つかたちとなっており、同棲というよりルームシェアといったほうが近い。

 ふう——創真は自室の片付けをあらかた終えて、息をついた。
 荷ほどきも後片付けも引越し業者に頼んでいたのだが、本棚やクローゼットの収納方法が気に入らなくてひとりで直していたのだ。業者が悪いわけではなく創真のこだわりの問題である。
 おかげでだいぶ汗をかいたし、喉も渇いた。自室を出て、冷蔵庫からペットボトルの緑茶をひとつ取ってくると、リビングの二人掛けソファに腰を下ろし、一気に半分ほど飲んで息をつく。
「部屋はもう片付いたのか?」
「ん、ああ」
 扉が開き、キャップを閉める創真に声をかけながら翼が入ってきた。冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取ってきて、どさりと隣に座る。
「けっこう長湯してしまったな」
「風呂はどうだった?」
「狭めだが、きれいで使いやすいし悪くないよ」
「ならよかった」
 創真が片付けているあいだに、翼はさっそくバスルームの確認がてら入浴したのだ。シャワーだけでなくバスタブにもつかって。内見のときに狭いのではないかと心配していたので、その反応に安堵する。
 しかし——。
 チラリと隣に横目を向ける。翼は薄そうな半袖Tシャツにスウェットパンツという格好をしている。随分と砕けているが、自宅の風呂上がりであることを考えると何もおかしくはないだろう。
 ただ、ここまで無防備な姿を見たのは初めてなのでドキリとした。胸の形がわかるし、肌は上気しているし、髪は生乾きだし、シャンプーなのかボディソープなのかほんのりといいにおいがする。
 さらにキャップを開けてミネラルウォーターを飲み始めると、その横顔が、唇が、白い喉が、なぜだか妙になまめかしく感じてどぎまぎしてしまう。それでもどうにか素知らぬふりをしていた。しかし——。
「あしたはどうする? 近所を歩きまわってみるか?」
「ああ……そうだな……」
 横からわざわざ覗き込むようにして話しかけられると、平静を装うのが難しくなる。思わず目をそらしてしまったし、声もいささか不自然になったかもしれない。翼は怪訝そうに顔を曇らせた。
「どうしてこっちを見ないんだ?」
「別に、そういうつもりはないけど」
「こっち向けよ」
 苛ついた声とともに、湯上がりの熱っぽい手で乱暴に顎をつかみ寄せられる。
 創真は驚いて再び目をそらした。それでも至近距離で見つめられているのを感じ、じわじわと顔が紅潮していく。こうなるともう逃れられない。下手ないいわけは状況を悪化させるだけだろう。
「……風呂上がりにそんな無防備な格好でくっつかれると、変な気持ちになる」
 正直に、しかし婉曲的に白状した。
 おそるおそる翼を窺うと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして動きを止めていた。やがて創真の顎をつかんでいた手をそっと下ろし、戸惑いがちに口を開く。
「それって、欲情するってことか?」
「……ごめん」
 そうあからさまな言葉にされるとすこし違うような気もするが、当たらずとも遠からずである。創真には気まずげに目を泳がせて詫びることしかできなかった。けれども翼に不快そうな素振りはない。
「まさか、おまえに性欲なんてものがあったとはなぁ」
「オレを何だと思ってるんだ」
「桔梗姉さんが全裸で迫っても平然としてたって聞いたが」
「あれは……桔梗さんのことは別に好きじゃないし……」
 実際にはそこまで平然としていたわけではなく、混浴と聞いて動揺したし、視界に入るとドキリとしたが、好きでもない相手にどうこうしたいとは思わない。
「だったら僕とセックスしてみるか」
「……は? えっ??!」
 渇いた喉を潤そうと手に取った緑茶のペットボトルが、ごとんとラグに落ちた。
 頭の中がまっしろになって固まったまま、鼓動がだんだんと速くなり、体中が熱を帯びていき、喉がカラカラに渇いていく。そんな創真を見て、翼はおかしそうにハハッと声を上げて笑った。
「いずれ結婚するんだから構わないだろう」
「それ、は……まあそうだけど……」
「まさか、おまえ怖じ気づいているのか?」
「いや……」
 最初は心の準備がなかったので激しく動揺してしまったが、決して怖じ気づいているわけではない。ただ——そっと遠慮がちに横目で表情を窺いながら尋ねる。
「翼こそトラウマになってたりはしないのか?」
「トラウマ?」
「……高校生のときに、その……拉致されて……」
「ああ」
 未遂ではあったものの、見ず知らずの男に襲われてかなりひどい目に遭っている。
 翼はようやくそのことに思い当たったようだが、顔色は変わらず、それどころか何か拍子抜けしているようにも見えた。
「いま言われるまで忘れていたくらいだから問題ないさ」
「でも、似た状況になって初めて気付くってこともあるんじゃ」
「そうだな……まあ、可能性がないとは言えないな」
 翼は真面目な顔で考え込みながらそう答えると、再び創真に振り向いた。そしてニッと不敵な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「だから試してみるぞ」
 創真は挑発的な強い視線に射止められたまま、ごくりと唾を飲んだ。


 まつげ長いな——。
 白い肌をさらしたまま静かに眠りについている翼を見下ろして、創真はふっと口元をゆるめた。足元のほうに無造作に寄せられていた羽毛布団をかけながら、その隣に自分も横になる。
 結果として、トラウマはなさそうだった。
 怯えたり嫌がったりする様子は見られなかったし、涙は流していたものの、そのころはもうトラウマとかそういう段階ではなかった。おそらく感情とは無関係にあふれたものだろう。
 しかし、その涙に創真はなぜだか感情が昂ぶってゾクゾクとした。冷静に考えるとひどい話である。翼には言えないなと思いつつ、そのきれいな顔をじっと見つめながら涙のあとを拭う。
「ん……」
 小さく身じろぎして、翼がまつげを震わせながらゆるりと目を覚ました。
 ベッドに横たわったまま至近距離で見つめていた創真と目が合うと、不思議そうな怪訝そうな顔になるが、しばらくしてようやく得心したように「ああ」とかすれぎみの声をもらす。
「寝てしまったのか」
「五分くらいだけどな」
「…………」
 翼は無言のまま目を伏せた。その顔にだんだんと恥ずかしそうな気まずそうな表情が浮かび、赤みを帯びていく。やがてこころなしか潤んだ瞳でキッと創真を睨みつけると、額をはたいた。
「イテッ」
「何なんだよおまえ。途中で急にスイッチが入ったみたいに雄の顔になりやがって。けっこう強引で容赦なかったし。いつもは淡々としているくせによりによってこんなときに。聞いてないぞ!」
 急に責め立てられて面食らったものの、思い返してみると確かにスイッチというあたりに心当たりはあるし、それ以降はいささか強引だったような気がしないでもない。はっきりとは覚えていないけれど。
「何か、ごめん」
「……別に嫌だったわけではないからな」
 そわそわと目を泳がせて言いづらそうに弁明する様子からも、本気で怒っていたわけではないということがわかる。思わずくすりと笑うと、翼はぶわりと顔を赤くして創真の髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。





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