学校から帰るとすぐ、澪と遥は剛三の書斎に呼び出された。てっきり怪盗ファントムの打ち合わせだと思ったのだが、扉を開けると、二人の見知らぬ男性が執務机の前に立っていた。二人とも折り目正しいスーツを身につけており、一人は剛三と同年代、もう一人は悠人と同じくらいの年頃に見える。澪が戸惑いつつも軽く会釈すると、年配の方の男性は、にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべた。
「紹介しよう」
そう言って、剛三は立ち上がった。
「こちらは警察庁長官の楠昭彦さん、そして、警察庁警備局公安課の溝端彰さんだ」
「けっ……?!」
大声を上げそうになり、澪は慌てて指先で口を押さえる。まさか正体を知られたのだろうか? 逮捕しに来たのだろうか? 橘家も会社も何もかもおしまいなのだろうか? 絶望的な考えが、次々と脳裏を駆け巡っていく。
その横で、遥は冷静に首をひねった。
「楠って、もしかして……」
「そう、よく気付いたな。さすがは遥」
剛三は嬉しそうに声を弾ませる。
「楠長官は、悠人の父君だ」
「えっ……ええーーー?!!」
澪は有らん限りの声を上げてのけぞった。
二人をまじまじと見比べてみると、確かに、目元や顔の輪郭などは似ている気がする。楠長官が見せている穏やかな微笑みも、いつもの悠人と重なるものがあった。しかし、これまで悠人から父親の話を聞いたことはなく、それどころか実家に帰っている様子もなく、どうやら父親との仲はあまり良くなさそうだ。今も、剛三の背後に立ったまま、眉ひとつ動かすことなく無表情で前を向いていた。
もしかすると――。
ふと頭をよぎった仮説に、澪はごくりと唾を飲む。
先代ファントムをやっていたことを父親に知られてしまい、そのせいで、折り合いが悪くなったのではないだろうか。警察庁長官の息子が怪盗の一味など許されるものではない。縁を切られるどころか逮捕されても仕方がない。やはり、部下を連れて訪ねてきたのは――最悪の懸念を顔に滲ませると、まるで見透かしたかのように、剛三はニヤリと口の端を上げて言う。
「おまえたちには言ってなかったが、先代のときから取引しておってな。怪盗ファントムを黙認してもらう代わりに、要請があれば公安の手助けをすると」
「……えっ?」
澪はとっさに話が呑み込めなかった。構わず剛三は続ける。
「黙認といっても、このことを知っているのは警察庁の上層部と公安の一部だけで、ファントムを逮捕しようと躍起になっている刑事たちは、あくまでも本気でかかってくるからな。気を緩めるでないぞ」
「はぁ……」
少しずつ理解が追いついてきたが、あまりにも信じがたい話で、澪は気の抜けた返事しかできなかった。警察が怪盗を黙認というのもありえないが、その怪盗に手助けを頼むなど、常軌を逸しているとしかいいようがない。遥も同じ気持ちだったのか、隣で呆れたように大きく溜息をついていた。
「今日は仕事の依頼に来ました。よろしく頼みますよ、可愛らしいファントムさん」
楠長官は人なつこい笑みを向けて言う。
戸惑いつつも、澪はちょこんと頭を下げた。怪盗ファントム黙認の代償と言われては、釈然としない気持ちはあっても、断ることなどできるはずがない。それに――警察が怪盗にどのような仕事を頼むのか、少しだけ興味をひかれていた。
「長澤朗 衆議院議員」
「あ、テレビで見たことある」
書斎脇の打ち合わせ机には、いつもの面々に加え、楠長官と溝端が席に着いている。溝端が手持ちの写真を机の中央に差し出すと、澪は身を乗り出し、思わず野次馬のような能天気な声を上げた。隣の篤史に冷ややかな目を向けられ、慌てて身を引き、小さく肩をすくめながら下を向く。
楠長官は優しく微笑んだ。が、すぐに表情を引き締めて本題に入る。
「総理よりも力があると云われる陰の権力者だが、数多くの不透明な金の流れが噂されている」
「めずらしい話でもなかろう。公安が介入するほどの件とは思えんが」
フン、と剛三は鼻を鳴らした。
楠長官は机の上で手を組み合わせ、落ち着いた口調で続ける。
「癒着の相手が問題なのです。いくつもの過激派や宗教団体から不正に資金提供を受け、彼らの利益となるよう行動しており、今もある法案を通さないよう裏工作をしていると聞いています」
「なるほどな」
そう言うと、剛三は不敵に口の端を上げる。
「その法案とやらを通さないと、警察庁として都合が悪いということか」
「否定はしません」
楠長官は顔色ひとつ変えずに認めた。
澪はそっと眉をひそめる。過激派とか、宗教団体とか、法案とか、馴染みのない物騒な単語が飛び交い、何か途方もない話だというのはわかるが、あまりにも世界が違いすぎて、今ひとつ現実味を感じることができない。
「あの……そんなに深刻な問題なら、本職の人たちで捜査した方がいいと思いますけど」
「もちろん私たちも捜査を行ってきましたが、確たる証拠が手に入れられないのです。相手が相手だけに、こちらも慎重にならざるを得ず、警察という枠の中では限界がありまして」
楠長官は静かにそう言い、視線を上げた。
「そこで、盗みのプロであるあなた方に、ぜひご協力を賜りたいと」
「プロって……私たちお金をもらってませんし、ボランティアです」
澪は反感を露わに言い返す。もちろん、自分たちが罪を犯しているという事実は理解しているが、誰かを救うためという免罪符までは手放したくなかった。もっとも、楠長官に深い意図はなかったようで、にっこり微笑みながら優しく言いあらためる。
「それだけ凄いということだよ、澪ちゃん」
それでも、澪のもやもやした気持ちは晴れなかった。彼に悪気はないのかもしれないが、犯罪に関して褒められても、やはり素直に喜ぶわけにはいかないだろう。
「それで、何を盗めばいいの?」
それまで黙って聞いていた遥が、じれったそうに重く淀んだ空気に切り込んだ。
すぐに溝端が返答する。
「長澤議員の自宅二階にある書斎に、インターネットに接続していない、スタンドアロンのパソコンがあります。そのデータを盗み出していただきたい」
「そこに証拠があるってこと?」
「確証はありませんが、可能性は高いと思われます」
溝端は細い眼鏡をクイッと押し上げた。その官僚的な口調も、感情のない表情も、隙のない仕草も、何もかもが冷徹なエリートという雰囲気を醸し出している。対照的に、楠長官はどこまでも人当たりが柔らかく穏やかだった。
「どうでしょう、頼まれてもらえますかな?」
「良かろう。ただし、方法はこちらに一任してもらう」
剛三は厳しい表情で答えるが、それでも楠長官の笑顔は崩れない。
「もちろんそれで構いません。よろしくお願いいたします」
彼はそう言って深々とお辞儀をする。隣の溝端も、無表情のまま頭を下げた。まるで警察側が礼を尽くして頼んでいるかのように見えるが、それがただの体裁にすぎないことは、おそらくここにいる誰もが無言のうちに承知していた。
「大丈夫かなぁ」
楠長官たちの訪問翌日から速やかに準備を始め、数日後のこの日、とうとう依頼を実行に移すことになった。しかし、その方法を聞いた澪は、大きな不安を感じずにはいられなかった。
「普通にこっそり侵入した方が楽なんじゃない?」
「まあ、剛三さんだからね」
隣の悠人が軽く苦笑しながら答える。その常套句で片付けてしまうのもどうかと思うが、実際に剛三の意向には逆らえないのだから、そう答えるより他に仕方がないのかもしれない。
「ファースト、こちらの準備は完了した。実行開始だ」
『了解』
運転席に座る篤史がヘッドセットで指示を出すと、近くで待機している遥から短い応答があった。いかにも面倒くさそうな投げやりな声である。公安の手伝いが嫌なのではなく、自分の役回りを不満に思っているらしい。計画を確認しているときに、どうして自分だけ雑用なのか、もっと面白いことがしたかった、と口をとがらせてブツブツこぼしていた。
それでも、きちんと役割を果たすのが遥である。
間もなくガシャンと派手にガラスの割れる音がして、そこからモクモクと白煙が上がった。彼が二階の書斎に煙り玉を打ち込んだのだ。家政婦と思われる女性の悲鳴も聞こえる。もちろん煙は無害なものであるが、何も知らなければ、さぞや驚くだろうことは想像に難くない。
すぐに、澪の膝にのせたノートパソコンが緊急通報を受信した。本来はセキュリティ会社に送信されるものだが、長澤家のものだけこちらで受けるよう細工したのである。澪は画面を操作してヘッドセットで応対した。
「こちらはSKセキュリティサービスです」
「あのっ、煙が! 窓が割られて……!!」
年配の女性がパニックになって叫ぶ。
「はい、すぐに緊急対処員を向かわせますので、煙には近づかないようにして、落ち着いてお待ちください。警察にはこちらから通報しておきます」
「お願い、早く来てっ!」
「数分でお伺いしますので大丈夫ですよ」
慌てふためく彼女をどうにか宥めて、澪は通話を切った。ふう、と大きく肩を上下させる。上手くできたか自信がなかったが、隣の悠人に優しく微笑まれて、ようやく少し安堵することができた。
コホン、と篤史がわざとらしく咳払いした。
「何よ」
「別に」
彼は前を向いたまま澄まし顔で答える。いつもはっきりと言葉にしないので、何を知っているのかわからないが、このところ悠人とのことを冷やかすような言動が多い。別に師匠とは何でもないんだから――澪は何度もそう言いかけたが、結局、一度も口にすることは出来ていない。
ガラガラガラ――。
ワゴン車の引き戸を開けて、遥が後部座席に乗り込んできた。澪の隣に座って覆面マスクを外し、仏頂面のまま、くしゃくしゃになった髪を掻き上げる。
「さて、行きますか」
遥の無事を確認すると、篤史は軽く意気込んでヘルメットをかぶった。すでに防護ベストや警棒などは装備しており、準備は万端に整えられている。悠人も同じ格好をしていた。澪だけは別で、黒のパンツスーツに黒縁眼鏡、長い黒髪を後ろでまとめるという、地味な社会人風の出で立ちだ。三人は遥を残して車から降り、徒歩で、目的の長澤家へと向かった。
「SKセキュリティから来ました」
「私は通報を受けて警視庁から」
玄関口で応対した少しふくよかな家政婦に、三人は嘘の身分を告げた。念入りにも、澪は偽物の警察手帳を掲げて見せている。そのポーズは意識的に誠一を真似ており、こんなときにもかかわらず、少しだけ気持ちが浮き立ってしまった。しかし、家政婦はまだ動揺が治まっていないらしく、気もそぞろで、警察手帳などほとんど気に留めていなかった。
「二階に何か黒いものが投げ込まれたようで、煙が……」
「状況を確認してきますので、一階でお待ちいただけますか」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
家政婦は不安を顔に滲ませながら、深々と頭を下げた。
「刑事さん、話を聞くのでは?」
「え……? あ、はい! そのときのお話を聞かせてくださいね」
他人事のようにぼんやりしていた澪は、悠人に促されて我にかえり、慌てて家政婦に向き直ってそう言った。とっさに刑事らしからぬ口調になってしまったが、疑われてはいないようだ。まだ怯えている彼女を気遣いながら中に誘導する。その横で、悠人と篤史は一礼し、軽い足取りで二階へ駆け上がっていった。
ダイニングキッチンで、澪と家政婦は向かい合って座った。
話を聞くといっても、すべて澪たちが計画を立てたので、何が起こったかは当然わかっている。長澤議員が仕事で不在なことも、奥さんが所用で出掛けていることも調査済みだ。さらに、この家からの電話発信と着信はジャックし、相手と繋がらないようにしていたので、まだ主と連絡が取れていないことも承知していた。
つまり、この聞き取りの目的は、家政婦をここに足止めすることだけである。
もちろん彼女がそんな事実を知るはずもなく、澪が質問すると、申し訳ないくらい真面目に答えてくれた。しかし、根っからの話し好きらしく、緊張が解けるにつれ、大いに楽しそうに話を脱線させていく。澪もあれこれ質問を浴びせられて冷や汗をかいたが、何とか適当に誤魔化して切り抜けた。
「お嬢さんみたいな可愛らしい子が来てくれて良かったわぁ。刑事なんてみんな、目つきが悪くて、柄も悪い、いかつい男ばかりと思っていたから、少し不安だったのよ」
そう言って、家政婦はホホホと笑った。澪は小さく肩をすくめる。
「刑事にもいろいろな人がいますよ」
「お嬢さんはどうして刑事になったの?」
「えっ?」
想定外の質問に焦りながらも、必死に頭を巡らせ言葉を紡ぎ出す。
「えっと、世の中の役に立ちたくて……」
「まあ、若いのに立派ねぇ」
疑いもせず感嘆されたうえ、優しい眼差しを向けられ、澪は申し訳なさに居たたまれなくなる。騙す相手が悪い人ばかりであれば気が楽なのだが、必ずしもそうはいかないのがつらいところだ。
「それにしても遅いわねぇ。何をやっているのかしら」
家政婦は思い出したようにそう言うと、頬に手を置きながら二階の方へ視線を向ける。
「あっ、あちらは危険ですし、警備員に任せておきましょう」
「それもそうね。お嬢さんとお話してるのも楽しいし」
澪としてはそれも困る。これ以上、突っ込んだことを聞かれたら綻びが出そうだ。左耳のイヤホンで聞いた篤史たちの報告によると、該当のパソコンはすぐに見つかったが、パスワード解析とデータ移行に時間がかかっているらしい。どうか早く終わって、と心の中で祈りながら笑顔を作る。
すると――。
コンコン、とノックされて扉が開いた。
「確認調査、一通り終わりました。投げ入れられたものに毒性はなく、癇癪玉のようなものと思われます。おそらく近所の子供の悪戯ではないでしょうか」
「そうですか、安心しました」
悠人が説明すると、家政婦は胸に手を当ててホッと息をついた。
「簡単に片付けておきましたが、まだ破片が残っているかもしれませんので、お気をつけください」
「ご丁寧にありがとうございます」
軽く一礼して出ていく悠人と篤史を、家政婦は玄関まで送りに行く。澪も慌てて立ち上がった。
「あっ、あの! 私もこれで失礼します!」
「あら、もっとゆっくりしていらしたら?」
せっかくの話し相手を手放したくないのだろう。家政婦はにっこりとして言う。
「お気持ちは嬉しいのですが、私もそろそろ署に戻らないと……」
「そうね、お仕事中だったのよね。私ったら長々とお引き留めしてごめんなさい」
「いえ、楽しかったです」
澪は薄く微笑む。そこには少しの本心も混じっていた。嘘に気付かれないかずっと気がかりだったし、騙していることを申し訳なくも思ったが、それでも、彼女が温かく気さくに接してくれたことは、作戦とは関係なく素直に嬉しかった。
「探してるものは見つかった?」
スーツから普段着に着替えた澪は、黒髪をなびかせて剛三の書斎に入ると、打ち合わせ机で作業している篤史に尋ねた。彼は防護ベストとヘルメットを外したくらいで、まだセキュリティ会社の制服を身につけたまま、真面目な顔でノートパソコンに向かっている。
「いま捜索してるところ。しばらく待ってろ」
「うん」
澪は隣に座って頬杖をついた。その打ち合わせ机についているのは、データ捜索作業をしている篤史、それを斜め後方から見張る公安の溝端、急かさず待っている悠人と遥、そして今やって来たばかりの澪である。楠長官は今日は来ておらず、剛三は中央の執務机で他の仕事をしているようだ。
「探してるもの以外には何が入っているの?」
「ほとんどが不正の証拠になりえるデータだよ」
誰にともなく尋ねた澪に、悠人は些末なことであるかのようにさらりと答えた。
「長澤議員ならばそのくらい揉み消すことは可能だろう」
執務机の剛三が口を挟む。
「ええ、だからこそ例のデータが必要なのです」
溝端も同調する。その口ぶりは冷静だったが、眼鏡の奥の瞳は燃えたぎり、怖いくらいに鋭い光を放っていた。職務に対する忠誠心なのだろうか。それとも、彼自身の正義感なのだろうか――このときの澪には、彼の静かなる情熱の正体がまだわかっていなかった。
「おし、暗号化フォルダ開いた!」
篤史の声で、澪たちは一斉に振り向く。
これまでの捜索作業で目的のデータは見つかっておらず、残るは、唯一暗号化されていたこのフォルダのみだった。おそらく、最も秘密にしたいファイルが、ここに保存されているはずである。
「探してるものはあったの?」
「それはこれから確認するところ……って、はぁっ?!!」
澪が画面を覗き込もうとした瞬間、篤史は裏返った声を上げ、そして力まかせにノートパソコンを閉じた。壊れるかと思うくらいの勢いである。澪だけでなく、遥も、悠人も、みな不思議そうな顔をしていた。篤史は閉じたノートパソコンに手を掛けたまま、きゅっと口を引き結び、額にじわりと汗を滲ませる。
「澪と遥はあっち行ってろ」
「ちょ……! 何よそれ!!」
「子供には見せられないんだよ!!!」
カッとして噛みついた澪に、篤史はその何倍もの迫力で怒鳴り返した。彼がここまで感情的になったのは初めてである。少なくとも澪は見たことがなかった。気おされて咄嗟に言葉が出てこない。
「澪、遥、向こうで座ってて」
「……はい」
さすがに悠人に命じられては従わざるを得ない。澪はしぶしぶそう返事をして、遥とともに、示された対面側にまわって座る。篤史は険しい目つきでそれを確認すると、気持ちを落ち着けるように息をつき、悠人と溝端に覗き込まれながら、そろりとノートパソコンを開いた。
「……何だ、これは」
「さあな。お偉い議員さんの趣味だろ」
溝端が面食らったように尋ねると、篤史はキーボードに手を置き、吐き捨てるように答えた。悠人も画面を眺めながら眉をひそめている。三人とも見るからに不快そうで、何かはわからないが、それが余程のものであることが窺えた。
「こういう写真ばかりなのか? 他にはないのか?」
「ファイルは全部画像らしいが、中は開けてみないとわかんねぇよ。今やってんだから黙って待ってろ」
篤史はかなり苛立っているらしく、遥か年上の溝端に、失礼なくらいぞんざいな口調で返事をした。ただ、その間も手は動かし続けている。それを見て溝端は口をつぐんだ。書斎にはカシャカシャという乾いた打鍵音だけが残った。
「ねぇ、何なんだろう? 何だと思う?」
「普通に考えれば、エロかグロのどっちかだろうね」
画面を見ることを許されない澪と遥は、目の前の三人の様子を窺いながら、顔を近づけてひそひそと話し合う。しかし、部屋が静かだったこともあり、あまり離れていない三人には、話の内容まで丸聞こえだったようだ。
「子供が余計な詮索するなっ」
篤史は画面から目を離すことなく叱り飛ばす。しかし、さほど年齢の変わらない彼に、こうやって何度も子供扱いされては、澪としてはどうしても反発したくなる。
「そんなに子供じゃないもん」
「17歳は間違いなく子供だ!」
「澪、篤史の言うとおりだよ」
悠人が畳みかけるように篤史を援護する。そのことに、澪はますます釈然としないものを感じた。
「都合のいいときだけ子供扱いするんだから……」
許可なく強引なキスをしたり、結婚を迫ったりしておきながら、こんなときだけ子供扱いなど狡いとしか言いようがない。しかし――。
「澪は大人扱いされたいの?」
「……子供のままでいいです」
にっこりと満面の笑みで尋ねられると、そこはかとない身の危険を感じてしまい、不本意ながらも引き下がるしかなかった。
遥は二人から顔をそむけると、どちらに呆れているのか、大きく溜息を落として頬杖をついた。篤史は少しうつむき声を堪えるように笑っている。そして、執務机に向かっていた剛三は、こちらに視線を流してニッと口の端を上げた。いろいろと言いたいことはあるものの、下手すると藪蛇になりかねないので、澪はあえて知らんぷりを決め込んだ。
「でも、篤史ひとりだけで確認するのって効率悪くない?」
話を逸らそうと何気なくそう言うと、正面の三人は一斉に顔を上げた。一瞬、澪はビクリとする。
「だって、ほら、私たちには見せられなくても、師匠なら見てもいいんでしょう? 二人で分担した方が早く終わると思うんだけど。師匠だって篤史ほどじゃないけどパソコン使えるよ? 名前とか住所とか書かれてる画像があるか確認するくらいなら出来るはずだし……特殊な方法であぶり出さないと確認できないなら仕方ないけど……」
「それだっ!!」
「えっ?!」
篤史は唐突に澪を指さして大声で叫ぶと、ノートパソコンにかぶりつき、これまでの何倍もの速度でキーボードを叩き始めた。視線もせわしなくあちらこちらと動いている。その表情は真剣そのものだった。
「画像そのものに直接書かれてるんじゃなくて、画像ファイルに情報として書き込まれているかもしれない」
澪にはその意味がわからなかったが、何かをひらめいたのは確かだろう。
「出たっ!」
しばらく作業に没頭していたかと思うと、短く歓喜の声を上げ、ほっとしたように椅子の背もたれに身を預ける。その両側から、悠人と溝端が、前のめりになって画面を覗き込んだ。
「これで間違いないでしょう」
そう言って、溝端は中指で眼鏡を押し上げ、篤史にちらりと切れ長の目を流す。
「天才ハッカーにしては随分手際が悪かったですね」
「まったく、よりによって澪に気付かされるとはな」
篤史は不本意だと言わんばかりに、苦々しい顔で吐き捨てた。
「何よ、素直に感謝してくれてもいいじゃない」
澪は口をとがらせて抗議する。しかし、自分の言葉のどれがヒントになったのかは、実のところよくわかっておらず、あまり声を大きくして言うことはできなかった。
篤史は後頭部で手を組み合わせる。
「方法としては難しいわけじゃなく初歩的なものなんだよ。けど、まさかあのジジイがやってるとは思わなかったし、この画像を見て完全に逆上してたからな」
「仕方がないだろう」
悠人が体を起こしながら静かに言う。
「フォルダのパスワードを破ったとしても、この画像を見れば、それだけでたいていの人間は納得してしまう。これを隠すためにパスワードを掛けたんだとね」
「なるほど、趣味と実益を兼ねた保管方法というわけですか」
溝端は抑揚のない声で相槌を打つと、ノートパソコンの画面を冷ややかに見下ろした。
「どうやら、一つのファイルが一人または一企業の情報になっているようですね。おそらく他のファイルにも書き込まれているでしょう。すべて取り出すにはどのくらいかかりますか?」
「全ファイルにあると想定すれば1時間くらい」
「今すぐやってください」
「ああ、やっておきますので休憩してきていいですよ」
篤史はいかにもうざったそうにそう言い、再びノートパソコンに向かうと、溝端を追い払うかのごとく手をひらひらさせた。しかし、彼は鉄仮面のようにピクリとも表情を動かさない。
「私が目を離すわけにはいきません」
「勝手にしろ」
まるきり信用していないであろう口ぶりに、篤史は眉間に皺を寄せ、前を向いたまま突き放すように言う。そして、関わり合いになりたくないとばかりに、必要以上に画面に顔を近づけて作業を始めた。
「二人とも、夕食を済ませておいで」
悠人が、正面の澪と遥にそう促した。
掛け時計はすっかり夕食の時間を指している。それを見て、澪は思い出したように空腹を感じた。打ち合わせのため、昼食が早めだったせいもあるのだろう。今にもおなかが鳴りそうである。
「行こう、澪、おなかすいた」
遥も同じだったようで、そう言いながら、さっそく机に手をついて立ち上がった。つられるように澪も立ち上がる。一人で作業を続ける篤史のことが気になったが、ここにいても自分に手伝えることはない。今は、素直に悠人の言葉に甘えることにした。
「はあっ?!!」
再び発せられた篤史のただならぬ声に、書斎を出ようとしていた澪たちの足が止まった。振り返ると、彼が画面を覗き込んだまま固まっているのが見えるが、その画面に何が映し出されているのかまではわからない。
澪たちを見送ろうとしていた悠人も、怪訝な顔で振り向いた。
「どうしたんだ、篤史」
「あ、いや……」
いつになく篤史の歯切れが悪い。すると、斜め後ろにいた溝端が口を切る。
「財団法人 生体高エネルギー研究所――当然ご存知でしょうが、橘美咲女史が所長を務める研究所です。長澤議員は、不正に提供を受けた資金の多くをそこに流しています」
「……えっ?」
青天の霹靂――。
あまりにも突飛な話で思考が追いつかない。母の研究所が長澤議員から資金を受け取り、その資金というのは、過激派や宗教団体から不正に得られたもので――澪は必死に反芻するものの、内容の難しさゆえ、結局ぼんやりとしか理解できない。それでも、深刻な事態であることを感じ取り、じわりと嫌な汗が滲んでくる。遥も、隣で険しい顔を見せていた。
「知っておったのだな?」
執務机の剛三が、鋭い眼差しを溝端に投げる。それでも彼は平然とした態度を崩さない。
「証拠はないと申し上げました」
「敢えて我々に曝かせるとは、警察庁も良い趣味をしておるな」
「感謝していただきたい。あまり他には知られたくないでしょう」
溝端は一歩も引かず、百戦錬磨の剛三と渡り合っている。彼自身の性格もあるのかもしれないが、こちらの弱みを握っていることが何より大きいのだろう。だからといって、しおらしくなるような剛三ではない。逆に、今にも斬りかからんばかりに睨みつけて言う。
「あまり図に乗るでないぞ」
「ご忠告、痛み入ります」
威圧的な声にも動じることなく、溝端は軽く受け流した。
澪は僅かに目を細める。この一連のやりとりからすると、まるで美咲の不正が決定事項のようである。少なくとも、二人はそれを前提に話をしていた。しかし、にわかには信じられなかったし、信じたくもなかった。
「お母さまが不正なお金をもらってたって、本当なの……?」
「十分に有り得る話だ。研究にはいくらでも金がかかるからな」
剛三は事も無げに首肯した。すぐに悠人が補足する。
「しかし、研究一筋の美咲が主導できるものとは思えません。おそらく大地が咬んでいるのではないかと。もしかすると、美咲は何も知らないということも考えられます」
「なるほどな……」
剛三は真剣に考えながら頷く。
「問題は、なぜ長澤議員が資金を提供していたのかということだ。何の見返りもなくそんなことをする奴ではあるまい。美咲の研究で利益を享受する算段をつけていたとしか思えんが、そのあたりのことは何かわかっておらんのか」
溝端は横目でノートパソコンの画面を一瞥した。
「ファイルには書かれていないようですね。もし、何かわかりましたらお知らせいたします。ご承知いただいているとは思いますが、捜査の妨げになりますので、橘美咲女史にも、橘大地氏にも、その他の誰にも、なにとぞ今回の件はご内密にお願いします」
澪は口を引き結んでうつむいた。肩から落ちた黒髪がさらりと頬を掠める。こんな話を聞いたあとで、何事もなかったように両親と顔を合わせるなど、自分に出来るのだろうか。両親の不正を完全に信じたわけではない。だからこそ、本人の口からきちんと聞いて、話し合いたいのに、それすら許されないことがもどかしい。許されるとすれば、それは捜査が終わったときで――。
「お母さまの研究所、どうなるの……?」
「ご安心ください。この件が表沙汰になることはありません。長澤議員の罪を曝くためでなく、取引材料として、これらの証拠を使わせていただく所存ですので。当然、研究所への金の流れはストップすることになるでしょうが」
溝端はいたって事務的に答えた。非難しているようにも、嫌味を言っているようにも聞こえない。しかし、彼の思考がまったく掴めない分、澪には、その答えがかえって空恐ろしく感じられた。
澪、遥、悠人の三人は、廊下に出ると、音を立てないように書斎の扉を閉めた。当初は、澪と遥だけで夕食に行くはずだったが、急に悠人も一緒に行くと言い出してついてきた。おそらく、澪たちがショックを受けていないか、心配しているのだろう。
窓から見える風景は、もうすっかり紺色に塗り替えられていた。その下方で、黒い枯れ木が音もなく揺れる。
澪はほんのり冷えた空気を吸い込み、溜息をついた。
「これで、いいのかな」
「何が?」
遥が素っ気なく尋ねた。少し躊躇いつつ、澪は後ろで手を組んで答える。
「長澤議員も、研究所も、何の罰も受けないみたいなこと言ってたから」
「澪は、母さんや父さんが逮捕されてもいいの?」
その挑発的な物言いに、幾分ムッとしながらも冷静に言葉を返す。
「別に逮捕されてほしいわけじゃないよ。私だってそんなの嫌だし、困るし、このままずっと平穏な生活が続けばいいって思ってる。だけど……もし本当に、お母さまやお父さまが悪いことをしてるんだったら……」
「それをいったら僕らも同じだよ。窃盗してるわけだし」
「それは……そうなんだけど……」
遥の指摘があまりに身も蓋もなくて、澪は思わず言葉に詰まった。確かに自分たちも罪は犯している。が、私利私欲でなければ、他人を傷つけるものでもない。一方の長澤議員は、過激派や宗教団体と繋がり、日本を危険にさらして大金を得ているのだ。そして、その金を、本当に研究所が受け取っているのだとしたら――。
「澪」
考え込んでいた澪の頭に、悠人が優しく手を置いた。それからふっと微笑み、語りかける。
「澪の考えていることは正しい。これからもずっとその気持ちを忘れずにいてほしいと思う。だが、現実には、正義よりも最善を選択することは少なくないんだ。納得はしなくてもいい。ただ、自分ではどうにも出来ないことであれば、あまり深く思い悩まない方がいい」
それは、澪を傷つけることなく宥めるために、慎重に選んだ言葉なのだろう。けれど、どことなく、彼自身に言い聞かせているようでもあった。師匠もつらいのかもしれない――澪はそう感じたが、硬い表情のまま、ただこくりと頷くことしかできなかった。
悠人に促されて、澪たちはゆっくりと歩き出す。
誰も口を開こうとはせず、三人の靴音だけが、静寂に包まれた廊下に冷たく響いた。
…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。
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