どうしたらいい——。
その夜、自宅に帰ってからひとり書斎で煩悶した。
学生時代はリチャードのことが嫌いだったものの、いまはそうではない。しかし彼の気持ちには応えられない。アーサーは既婚者だし、そもそも男性を相手にすることは考えられないのだ。
それでも彼から向けられる恋情を不快には思っていない。むしろ悪い気はしていないというか、かすかな優越感のようなものさえ感じている。そんなことは絶対に誰にも言えないけれど。
さんざん悩んだ結果、いままでどおり何も知らないものとして接することに決めた。もし交際を迫られたら丁重に断るが、彼なら現状を犠牲にしてまで見込みのない賭けには出ない気がした。
そうして翌日からも変わらない関係をつづけた。
リチャードは王宮に来る用事があるとついでに顔を見せるし、アーサーも騎士団本部に行く用事があるとついでに顔を出している。そしてときどき一緒に昼食をとったりもしていた。
そのうち、たまに彼に誘われて休日に出かけるようにもなった。このあいだなど、アーサーが紅茶を好んでいることを知ったからか、わざわざ評判の店を調べて連れて行ってくれたりもした。
シャーロットの写真については領地に戻るたびに撮影し、彼に渡している。アーサーの気を引くためかもしれないが、彼はいつも興味を持って見聞きしてくれるので、親としてはうれしかった。
ただ、シャーロットに会いたいという要望だけは断っている。もうだいぶ時間が経過したので大丈夫かもしれないが、記憶がよみがえって再び恐怖にとらわれる可能性もなくはないのだ。
そんな折、ポートランド侯爵家のグレアムが自宅を訪ねてきた。
内密に相談したいことがあるので二人きりで会えないだろうか——という主旨の文を受け取り、あらかじめ承諾の返事をしていたのだ。深刻な話かもしれないと緊張しつつ応接室に通したのだが。
「実は、ある令嬢と結婚したいと思っているのだが、どうすればいいか……」
「は?」
肩透かしを食らった気分だった。
しかし目のまえにいる彼はひどく思い詰めた表情をしていて、本気で言っているのだということは理解できた。ただ何について悩んでいるのかまではわからない。
「縁談を申し込めばよろしいのでは?」
「それは……そうなのだが……」
広大な領地を有し、海運の要衝も抱え、強い発言力を有するポートランド侯爵家と縁続きになりたい貴族は多い。しかもグレアムは次期後継者である。普通に考えれば先方から断られる可能性は低いだろう。
「相手側に何か問題があるのでしょうか?」
「問題というか……彼女は過去に婚約解消していて……」
「なるほど、それでご両親に反対されているのですね?」
「いや、両親はクレランス侯爵家なら歓迎だそうだ」
クレランス侯爵家ということは相手はロゼリア嬢だろう。彼女はリチャードと婚約解消したことで傷物とみなされている。夜会でも敬遠され、ひとり壁の花になっているのをときどき目にしていた。
そうなったのは自分のせいかもしれないという後ろめたさもあり、アーサーは何度かダンスに誘っている。実際に話してみると凜としていながらも意外と可愛らしくて、ますます好感を持った。
だから彼女にはぜひとも幸せになってほしいと願っている。グレアムが相手であれば家柄的にも人柄的にも言うことはない。彼に結婚する気があるのなら全力で応援したいところだが——。
「では、あなた自身の気持ちの問題でしょうか?」
「……おそらく彼女はまだ元婚約者を忘れられずにいる。きっと傷も癒えていない。わたしのことを男として意識さえしてくれていない。ダンスを踊ったときの感触だと嫌われてはいないと思うが」
侯爵家の次期後継者でもう二十代も半ばだというのに、あまりにも青いことを言うので驚いた。思わずあきれたような胡乱なまなざしになってしまう。
「それで、自分のことを好きになってくれるまで待ちたいと?」
「……彼女の気持ちを蔑ろにしてはかわいそうだ」
「だからといって手をこまねいていたら掻っ攫われますよ」
それは決して大袈裟な物言いではない。
「婚約解消からもう二年です。あなたが好意を寄せるくらい魅力的な女性ですし、何よりクレランス侯爵家と縁続きになりたい家は多い。彼女のご両親もそろそろ次の縁談を考える頃合いでしょう」
「…………」
彼はグッと押し黙ったまま葛藤しているようだった。額にはうっすらと汗がにじんでいる。その様子をアーサーはしばらく無言で見守っていたが、やがて静かに口を開く。
「結婚してから信頼関係を築いていくというのも、悪くないと思いますよ」
その言葉はアーサー自身の経験によるものだ。
もちろんひとそれぞれなので押しつけるつもりはないが、彼が後悔しない選択をするための一助になればいい。そう願いながら、まだ躊躇っている様子の彼にやわらかく微笑みかけた。
まもなくグレアムとロゼリアは婚約し、一年の後、領地に戻って結婚した。
今後、グレアムは後継者として領地経営をすこしずつ引き継いでいくという。アーサーはまだ王都にいる予定だが、いずれ領地に戻ったときには仕事方面でも彼と関わることになるだろう。
結婚式にはアーサーも妻を伴って参列した。
グレアムが好きな女性と結ばれたことには素直に祝意を表し、ロゼリアが良縁に恵まれたことにはひそかに安堵した。彼女の婚約解消にはいささか責任を感じていたので、勝手ながら肩の荷が下りた思いだ。
ただ、二人ともまだどこか遠慮がちでぎこちなさが窺える。きっとこれから時間をかけて信頼関係を築いていくのだろう。この結婚を望んだひとりとして、二人が幸せになれるよう願わずにはいられなかった。
その後も王都で文官として働き、ときどき領地に戻るという生活をつづけていた。
リチャードとは友人としてそれなりに親しくしているが、想いを告げられたとかそういうことはない。やはりアーサーとどうこうなりたいわけではないのだろう。だからといって結婚して身を固めるような気配もなかった。
ある日——何の前触れもなく、そんな日常を打ち破る出来事が起こった。
父親であるグレイ伯爵が急死したという一報が入ったのだ。事故ではなく、急に倒れてそのまま亡くなったらしい。急いで領地に戻り、葬儀を執り行い、諸々の手続きをすませて伯爵位を継いだ。
領地経営も継ぐので文官の仕事は辞めざるを得ない。事情が事情だけに引き留められることはなかったが、突然だったので申し訳なく思う。上司にも同僚にも迷惑をかけることになってしまった。
「大変だったな」
「ええ……」
父親の死亡は公表済みなので、説明するまでもなく事情はわかっていたのだろう。文官を辞して領地に戻ることを告げると、リチャードはただ静かに寄り添うような言葉をかけてくれた。
本当に慌ただしくて、大変で、悲しむ暇さえなかった。
それでも落ち着いていたし意外と平気だと思っていたのに、彼の言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れて目頭が熱くなるのを感じた。そのとき初めて心が憔悴していたことに気付いた。
そんなアーサーの様子に、彼はつらそうに痛ましそうに顔を曇らせた。そして何かに操られるようにそろりと手を上げかけたが、途中で戻し、代わりにごまかすような微苦笑を浮かべて言う。
「また王都に来たら顔を見せてくれ」
「はい」
今後も何らかの用事で王都に来ることはあるだろう。
ただ、彼もいつまでもこのまま王都にいるわけではない。その現実に思い当たり、アーサーは追い打ちをかけられたかのように感じて、うっすらと目を潤ませたままそっと静かにうつむいた。
「シャーロット、おいで!」
まばゆいくらいの陽光が降りそそぐ芝生の庭で、二人の弟と楽しそうにじゃれあっている彼女を呼ぶと、ぱあっと顔をかがやかせて駆け寄ってきた。ドレスにも髪にもあちこちに細かい芝がついている。
「写真を撮るのね」
「そう、だけどまずは準備だな」
「はい!」
彼女は満面の笑みで元気よく返事をすると、邸宅のほうへ駆けていく。
今日、写真を撮るということはあらかじめ伝えてあった。五歳のころから少なくとも年二回は撮影しているので、もう慣れっこである。何を準備するのかということもわかっているのだ。
写真はリチャードに送るためのものである。
領地に戻ってからの慌ただしさが一段落したころ、シャーロットの写真を添えて彼に手紙を出したところ、近況をしたためた返事が来て、そこからゆるやかに文を交わすようになったのだ。
写真については別に求められたわけではないが、手紙だけというのは何となく気恥ずかしくて、毎回、言い訳のように添えている。彼もそれなりに楽しんでいるようなので構わないだろう。
「旦那様、写真技師の方がいらっしゃいました」
「すぐに行く」
そう返事をして、アーサーも邸宅のほうへと足を進めた。
そんな楽しくて賑やかで平和な日々を積み重ねて、シャーロットは十五歳になった。
少なからず親の欲目はあるのかもしれないが、本当にいい子に育った。明るくて、素直で、穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい。気がかりなのは聞き分けが良すぎることくらいで——。
結局、あの日からずっと敷地外に出ない生活を強いてしまったが、彼女は一度も文句を言わなかった。
だからといっていつまでもこのままというわけにはいかない。十六歳になるまえにすこしずつ外を見せていかなければ。あまりに世間知らずでは社交デビューにも差し障りがあるだろう。
そんなことをのんびりと考え始めていた矢先、グレイ家に激震が走った。
「は……っ……?!」
ウィンザー公爵家から前触れもなく正式な書状が届いたが、何なのか見当もつかず、おそるおそる開封して緊張しながら中に目を通したところ——驚愕のあまり頭がまっしろになった。
それは、シャーロットに対する縁談の申し入れだった。
相手はウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードだ。そう、あのリチャードなのだ。しかもどういうわけか国王陛下の口添え状まである。何もかもが想定外すぎて現実を受け止めきれない。
どうして、こんなことになった——。
静寂に包まれた書斎でアーサーはひとり頭を抱え、執務机に突っ伏した。
やがてどうにか落ち着きを取り戻すと、妻を書斎に呼んだ。
ローテーブルを挟んで互いに向かい合わせに座り、無言で例の書状を渡す。彼女は不思議そうな顔をしてそれに目を落とすが、すぐに息を飲み、ほっそりとした色白の手でそっと口元を覆った。
「ウィンザー公爵家って……陛下の口添えまで……」
驚愕しながらも、取り乱すことなく念入りに読み込んでいく。やがて腑に落ちない表情でそっと書状を置いた。
「ウィンザー公爵家がどうしてそこまでしてうちを選んだのでしょう。正直、うちと縁続きになっても先方に利があるとは思えません。口添えを頂戴したのなら他にもっといい選択肢があったはずです」
その疑問に、アーサーは答える義務がある。
彼女をここに呼んだ時点ですべて打ち明けるつもりでいたが、あらためて覚悟を決めて話していく。彼が十年前に婚約解消したのは男色に目覚めたからだということ、そしてそのころからアーサーに懸想しているということを。
「本当は結婚したくなかったが避けられなくなったのだろうな」
「では、グレイ家に縁談を申し入れたのは……」
「ウィンザー家ではなく彼個人の希望ではないかと思う」
「あなたとは結婚できないからせめて姻戚関係にということ?」
「せめてわたしの血を引いた娘をということかもしれない」
「それって、身代わり……ですよね」
アーサーにはそれを否定することができなかった。つらそうな顔をしている彼女から曖昧に視線を外し、いま言える精一杯のことを絞り出す。
「悪いやつではないんだ。シャーロットを蔑ろにはしないと思う」
「……そう祈るしかありませんよね」
国王陛下の口添えがある以上、縁談は断れない。
妻にはもはや祈ることしかできないだろうが、リチャードに懸想されているアーサーになら、もうすこし何かできることがあるかもしれない。シャーロットにつらい思いをさせないために——。
「わかりました」
縁談について告げると、シャーロットはやわらかく微笑んでそう応じた。
さすがに相手が男色だとかそのあたりのことについては話していないが、それでも異例ずくめの急な縁談なので、少なからず動揺したりショックを受けたりするだろうと思っていたのに——。
「わたしは貴族の娘ですから、家のために結婚するのは当然だと思っています。陛下のお口添えがあるのなら従うしかありませんし、相手が公爵家なら当家にとっても悪い話ではありませんよね」
「シャーロット……」
「そんなお顔をなさらないでください。相手がどのような方なのかはわかりませんが、どうせならお父さまとお母さまのようないい夫婦になりたいですし、そうなれるよう努力するつもりです」
そんなことを言ってニコッとかわいらしく笑う。まだ幼さの残る少女の顔で。
泣かれるのもつらいが、これほどまで殊勝なのもやりきれない——アーサーは返す言葉が見つからずに目を伏せる。その隣で、妻はこらえきれずに顔を覆って嗚咽した。
ウィンザー家に承諾の返事を送り、ほどなくしてアーサーはひとり王都に赴いた。
久しぶりに訪れた騎士団本部はあのころとあまり変わっていない。懐かしく思いながら受付でリチャードへの面会を申し入れたところ、すこし待たされてから騎士団長の執務室に案内された。
その奥の執務机にリチャードはいた。
いつのまにか騎士団長になっていたらしい。騎士服はいささか立派なものになっていたが、彼自身の見目はあのころのままである。一礼すると、彼は気まずそうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「久しぶりだな」
「はい」
部下を下がらせてアーサーに応接ソファを勧めると、向かい合わせに座る。
「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」
「来てくれてうれしいよ」
リチャードがやわらかい微笑を浮かべるのにつられて、アーサーの頬も緩んだ。
何となく縁談には触れないまま互いに近況を話していく。しかしすぐに話題は尽き、二人きりの部屋に息の詰まるような沈黙が落ちた。アーサーは腿のうえで組み合わせた手に力をこめる。
「……シャーロットは」
目を伏せたまま、どうにか決意を固めて本題を切り出した。
「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」
そこで顔を上げると、まっすぐにリチャードの目を見据えて訴える。
「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」
彼女のために自分ができるのはせいぜいこのくらいのこと。しかし他ならぬアーサーが頼むからこそ効果がある。そう信じて、仕事が忙しいにもかかわらず自らここまで足を運んだのだ。
「ああ……必ず幸せにすると約束する」
リチャードは目をそらすことなく受け止めてくれた。
本当にシャーロットが幸せになれるかは別にして、きっと努力はしてくれる。少なくとも蔑ろにはしないはずだ。彼の言葉で、表情で、態度で、どうにか自分をそう納得させることができた。
非常識に短い婚約期間は着々と過ぎていき、婚儀の日が迫る。
リチャードは騎士団の仕事が忙しく、いまだにデートどころか婚約の挨拶にさえ来られないままだ。無理して来なくてもいいと言ったのはアーサーなのだが、やはり微妙な気持ちにはなる。
ただ、両親のウィンザー公爵夫妻は当人抜きで挨拶に来てくれた。どちらも物腰が柔らかい印象だ。シャーロットには申し訳ないことをしたと頭を下げられて、こちらが恐縮したくらいである。
婚儀の準備についてはすべてウィンザー家に任せてあるが、進捗に問題はないと聞いている。さすがは公爵家というべきか。ウェディングドレスもいっさい手を抜かずに間に合わせたらしい。
そして、とうとうシャーロットがグレイ家で過ごす最後の日になった——。
婚儀までにはまだ数日あるが、ウェディングドレスの最終調整や段取りの打ち合わせがあるので、すこし早めにウィンザー家へ向かうことになっているのだ。アーサーたち家族も同行する予定である。
「お父さま、お母さま、今日はひとりで考えたいことがあるので、部屋にいます。夜までそっとしておいてもらえませんか?」
「……わかった」
おそらくまだ心の整理がついていないのだろう。アーサーとしてはやはり家族と過ごしてほしかったが、それを押しつけるわけにはいかない。残念に思いながらも彼女の意思を尊重することにした。
「ありがとうございます」
シャーロットは申し訳なさそうに微笑むと、昼食用のサンドイッチと紅茶を用意して二階の自室にこもってしまった。なのでアーサーもひとり書斎にこもって仕事を片付けていたのだが——。
「お嬢さまが部屋から消えていました」
「どういうことだ?」
夕方になり、青ざめた侍女からそんな報告を受けた。
「部屋の窓がずっと大きく開いたままで、物音ひとつ聞こえなくて、お声をかけてもまったく返事がなくて……奥様に相談して扉を開けてみたら、お嬢さまの姿はどこにもありませんでした」
結婚が嫌で逃げた、のか——?
部屋にはサンドイッチも紅茶も手つかずで残っていた。置き手紙は見当たらない。カーテンがゆるくはためく窓のほうへ目を向けると、すぐ近くに木が見える。木登りの得意な彼女ならそこから庭に降りられそうだ。
だが、逃げるとしてもどこへ。金を持っていないので遠くへは行けないはずだが、彼女に同情して手引きした者がいないとも限らない。彼女と面識があるのは親族、教師、使用人くらいだろうか。
「エリザは手の空いているものと敷地内をくまなく探してほしい。メイソンはシャーロットと面識のある人物すべてに当たってほしい。同時に自警団にも捜索を依頼しておくように」
「畏まりました」
冷静に指示を出すと、控えていた侍女と家令はともに一礼して部屋をあとにする。すぐに侍女のパタパタという軽い足音が聞こえてきた。本来であればいくら急いでいても走るべきではないのだが、いまは咎める気になれない。
「わたしも探してみます」
動揺していた妻も、気を取り直したように足早に部屋から出て行った。
「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
さっそく外から侍女の声が聞こえてきた。
敷地内にいるのなら本気で逃亡する気はないだろうから、呼びかければ出てくるかもしれない。問題は本気で逃亡しようと敷地外に出てしまった場合だ。取り返しのつかない事態になっていないことを祈るしかない。
アーサーは執務机につき、かすかに震える両手を組み合わせてうつむく。
すまない、シャーロット——。
そこまで嫌なら断ってやりたいが、陛下の口添えに従わなければ叛意ありとみなされてしまう。爵位と領地を没収されるくらいですめばまだいいが、家族もろとも処刑ということもあり得るのだ。
結論の出ないまま胃が痛くなるようなことばかり考えていると、にわかに書斎の外がざわめく。すぐにバタバタと足音がして、開けっ放しにしていた扉の向こうから侍女のエリザが飛び込んできた。
「お嬢さまがお戻りになりました!」
アーサーは息を飲み、はじかれたように椅子から立ち上がった。
「シャーロット!」
リビングに駆け込むと、彼女は普段とすこしも変わらない姿でそこにいた。アーサーの姿をみとめて気まずげな顔になったものの、すぐさま我にかえったように表情を引き締めて一礼する。
「お父さま、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。結婚するまえに、どうしても一度カーディフの街に行ってみたかったのです」
「……逃げ出したのではないのか?」
「そんなつもりはありません。最初に言ったように結婚は受け入れていますから。いつか誰かとすることですもの。あ、これおみやげです」
ふと思い出したようにローテーブルの上の紙袋を手に取り、アーサーに渡す。
中にはいくつかの茶葉の瓶と小さな包みが入っていた。ローテーブルの上にはまだ同じ小さな包みが三つあるので、家族みんなに買ってきたのだろう。中身はおそらくハンカチではないかと思う。しかし——。
「おまえ、お金なんて持っていなかっただろう?」
「ネックレスをひとつ売りました。申し訳ありません」
「それは構わないが……」
ほとんどのものはここに置いていくことになっているので、最後に役に立てたのならよかったが、未成年が売るとなると裏通りの治安のよくない店しかない。下手したら無事ではすまなかったと今更ながらヒヤリとする。
「……街は、楽しかったか?」
「はい、劇場でお芝居を観ましたし、カフェにも行きました。移動販売でサンドイッチも食べたんです。とても楽しくて……本当に、夢みたいで……」
最初はニコニコと無邪気に声をはずませていた彼女が、途中で言葉を詰まらせる。ここではないどこかにせつなげなまなざしを向けて。その表情にアーサーは胸を締めつけられてしまい、何も言えなくなった。
翌日、予定どおり馬車でウィンザー家に向かった。
夜更けに到着すると、公爵夫妻はにこやかな笑顔で歓迎してくれたが、結婚する当人であるリチャードはまだ来ていなかった。どうしても外せない仕事ができたので少し遅れるとのことである。
仕方ないとは思いつつも、婚約者どうしの顔合わせもまだなのにと不満は募る。結婚式に間に合うかも不安だ。シャーロットもそういう素振りは見せないものの、同じ気持ちではないかと思う。
ただ、彼女にはそれなりにやることがあったのでよかった。ウェディングドレスのサイズ調整をしたり、結婚式の段取りを確認をしたり、公爵夫人とお茶をしたりであまり悩む暇はなかっただろう。
だが、結婚式当日の朝になっても夫となるひとが到着していないと聞くと、さすがに不安をにじませた。公爵夫妻もひどい顔色である。それでも時間までには来ると信じて支度を進めるしかなかった。
シャーロットを幸せにすると約束してくれたはずなのに、さっそくこんな——。
アーサーも心配と不安でどうにかなりそうだった。自分たちの支度をすませると、他にすることもないのでひたすら気を揉むしかない。グッと奥歯を噛み、まだ姿を見せない彼に内心で苦言を呈したそのとき。
「リチャード様が到着しました! いま大急ぎで支度をしているそうです!」
「そう、か……よかった……」
グレイ家の控え室に飛び込んできた執事の報告にほっとして、全身から力が抜けた。開始時刻に間に合うのかはまだわからないので、安心するのは早いが、それでも最悪の事態は避けられたと思っていいだろう。
「お嬢さまのお支度が終わりました」
つづいて侍女が報告に来た。
アーサーも妻もまだ一度もウェディングドレス姿を見ていない。そわそわしながら花嫁の控え室に向かい、先導していた侍女の手でゆっくりと扉が開かれると——アーサーは大きく息を飲んだ。
そこにいたシャーロットは、まるで天使か妖精のようだった。
純白のウェディングドレスは公爵家が用意しただけあって見事なもので、その方面に詳しくないアーサーにも上質で精緻であることが窺えた。そして何より彼女自身の可憐で清浄な美しさがそれに負けていないのだ。
「きれいよ、シャーロット」
ふいに隣の妻が感極まったようにそう声を震わせる。
アーサーも実感をこめて頷いた。ただ、本当に嫁いでいくのだという現実をあらためて突きつけられて、いまさらながら胸がつぶれそうなほど苦しくなってしまった。
「シャーロット、夫のウィンザー侯爵のことで何かあれば言ってきなさい。わたしのほうからできることがあるかもしれない」
「でも、あまり実家が出しゃばるのはよくないですよね?」
「まあ、そうだが……それでも本当に困ったときは躊躇わずに言ってきなさい。実家というより友人として話すつもりだから」
自分が頼めば、リチャードはそれなりに聞き入れてくれるはずだ。
彼の恋心を利用するようでいささか気が咎めるが、そもそも彼が恋心を暴走させたせいで彼女が犠牲になったのだから、このくらいのことは許されてしかるべきだろう。
「……はい」
シャーロットは当惑したような面持ちで話を聞いていたが、一呼吸して肯定の返事をすると、あらためて姿勢を正してまっすぐにアーサーたちを見据えた。
「お父さま、お母さま、これまで本当にありがとうございました。わたし、お二人のように幸せになります。だから、どうか心配なさらず笑って送り出してください」
そう告げてふわりと花が咲くように笑った。
アーサーは思わず隣の妻と目を見合わせてしまったが、すぐに二人してシャーロットのほうに向きなおると、彼女の願いどおりに微笑んでみせた。寂しさと不安と後ろめたさは心の中にしまいこんで。
花嫁の控え室を退出すると、そのすぐ傍らでグレイ家の執事がひっそりと待ち構えていた。そろそろ参列者が聖堂に入る時間だと知らせに来てくれたのだ。
「君は子供たちを連れて先に行ってくれ」
「あなたはどうするのです?」
「ウィンザー侯爵が間に合うか見てくる」
妻を執事に任せて、アーサーはそのまま花婿の控え室へ向かった。
扉のまえで足を止めてコンコンと軽くノックすると、どうぞと応じる声が中から聞こえてきた。それは間違いなくリチャード本人のものだ。急激に緊張が高まるのを自覚しながら、そろりと扉を開く——。
「アーサー!」
リチャードはパッとうれしそうに顔をかがやかせ、立ち上がった。
後ろから従者が黒髪を整えていたところのようだが、もう十分に整っているし、衣装もきっちりと着ているし、見たところだいたい支度は終わっているようだ。アーサーはほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
リチャードは悪戯っぽく肩をすくめる。パブリックスクール時代を思い起こさせるやりとりに、アーサーもつい表情が緩んでしまう。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
仕事なら責められないが、花嫁の父として心配するくらいのことは許されるだろう。そう思ったが、彼はどういうわけか急に怖いくらい真剣な顔になり、一気に間を詰めてアーサーの背後の扉にドンと勢いよく手をついた。
えっ——。
さらに息がふれあうくらいにグイッと顔を近づけ、覗き込んでくる。
思わずアーサーはびくりと体をこわばらせて息を殺した。まさか——これから娘と結婚しようというのに、この教会で宣誓しようというのに、よりによってどうしていまここでこんなことを。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
冗談であってほしい、そう願いながらおずおずと探るような言葉を向ける。
それでも彼の表情はすこしも変わらなかった。アメジストのような紫の双眸で鋭くアーサーを射竦めたまま、さらに顔を近づけてくる。こらえきれずにアーサーはギュッと目をつむったが——。
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
驚いて目を開くと、彼は呆れたような冷ややかな半眼でこちらを見ていた。しかしアーサーとしては何がなんだかわからないままで、困惑の声しか出ない。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
はぁ、と彼は盛大な溜息をついて体を起こした。
彼の顔が離れてアーサーはようやくほっと息をつくが、彼の言ったことはまだ信じきれずにいた。じっと訝しむような探るような目を向けていると、彼は何とも言えない微妙な面持ちで腕を組む。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
そう告げると、彼は眉をひそめながら首をひねる。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
確信したのはそのときなのではっきりと覚えているのだが、彼は記憶にないらしい。本当に懸想などしていないというのなら、いったいどういうつもりでそんなことを言ったのだろうか。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
彼はどこか緊張した面持ちでアーサーに向きなおり、口を開く。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
十年も待った? シャーロットのことが十年前から好きだった??
確かに十年前の誘拐事件のときにシャーロットと出会っているが、彼女はまだ五歳だった。そのときから結婚を意識していたというのはさすがに無理がある。写真で成長を見守るうちにということだろうか。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
肩を押され、半ば強引に控え室から追い出された。
詳しく話を聞こうと思ったところだったので、何となくごまかされた気がしないでもないが、確かにもう時間はない。釈然としない心持ちのまま身を翻して歩き始める。
カツッ、カツッ、カツッ——。
無機質な靴音が一定のリズムを刻む。
それを意識することなく耳にしているうちに、何か言いようのない苦しさと寂しさが湧き上がり、足が止まった。たったひとつの音が消えた冷たい廊下にひとり佇む。
——シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだから。
——おまえのことは友人としか思ったことがない。
それが事実なら、きっとシャーロットのことを大事にしてくれるだろう。身代わりなどではなかったのだから。もうアーサーが心配する必要もないのかもしれない。ただ——。
「いっそ、嫌いなままでいたかった」
幽かな声がこぼれ落ちた。
瞬間、ハッと我にかえって顔を上げる。さいわい周囲を見まわしても誰ひとりいなかったが、それでも何か気まずくて、その場でゆっくりと深呼吸をして仕切りなおした。
よし——。
再び聖堂へ向かって歩き始める。その足が途中で止まることは、もうなかった。
◆目次:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
その夜、自宅に帰ってからひとり書斎で煩悶した。
学生時代はリチャードのことが嫌いだったものの、いまはそうではない。しかし彼の気持ちには応えられない。アーサーは既婚者だし、そもそも男性を相手にすることは考えられないのだ。
それでも彼から向けられる恋情を不快には思っていない。むしろ悪い気はしていないというか、かすかな優越感のようなものさえ感じている。そんなことは絶対に誰にも言えないけれど。
さんざん悩んだ結果、いままでどおり何も知らないものとして接することに決めた。もし交際を迫られたら丁重に断るが、彼なら現状を犠牲にしてまで見込みのない賭けには出ない気がした。
そうして翌日からも変わらない関係をつづけた。
リチャードは王宮に来る用事があるとついでに顔を見せるし、アーサーも騎士団本部に行く用事があるとついでに顔を出している。そしてときどき一緒に昼食をとったりもしていた。
そのうち、たまに彼に誘われて休日に出かけるようにもなった。このあいだなど、アーサーが紅茶を好んでいることを知ったからか、わざわざ評判の店を調べて連れて行ってくれたりもした。
シャーロットの写真については領地に戻るたびに撮影し、彼に渡している。アーサーの気を引くためかもしれないが、彼はいつも興味を持って見聞きしてくれるので、親としてはうれしかった。
ただ、シャーロットに会いたいという要望だけは断っている。もうだいぶ時間が経過したので大丈夫かもしれないが、記憶がよみがえって再び恐怖にとらわれる可能性もなくはないのだ。
そんな折、ポートランド侯爵家のグレアムが自宅を訪ねてきた。
内密に相談したいことがあるので二人きりで会えないだろうか——という主旨の文を受け取り、あらかじめ承諾の返事をしていたのだ。深刻な話かもしれないと緊張しつつ応接室に通したのだが。
「実は、ある令嬢と結婚したいと思っているのだが、どうすればいいか……」
「は?」
肩透かしを食らった気分だった。
しかし目のまえにいる彼はひどく思い詰めた表情をしていて、本気で言っているのだということは理解できた。ただ何について悩んでいるのかまではわからない。
「縁談を申し込めばよろしいのでは?」
「それは……そうなのだが……」
広大な領地を有し、海運の要衝も抱え、強い発言力を有するポートランド侯爵家と縁続きになりたい貴族は多い。しかもグレアムは次期後継者である。普通に考えれば先方から断られる可能性は低いだろう。
「相手側に何か問題があるのでしょうか?」
「問題というか……彼女は過去に婚約解消していて……」
「なるほど、それでご両親に反対されているのですね?」
「いや、両親はクレランス侯爵家なら歓迎だそうだ」
クレランス侯爵家ということは相手はロゼリア嬢だろう。彼女はリチャードと婚約解消したことで傷物とみなされている。夜会でも敬遠され、ひとり壁の花になっているのをときどき目にしていた。
そうなったのは自分のせいかもしれないという後ろめたさもあり、アーサーは何度かダンスに誘っている。実際に話してみると凜としていながらも意外と可愛らしくて、ますます好感を持った。
だから彼女にはぜひとも幸せになってほしいと願っている。グレアムが相手であれば家柄的にも人柄的にも言うことはない。彼に結婚する気があるのなら全力で応援したいところだが——。
「では、あなた自身の気持ちの問題でしょうか?」
「……おそらく彼女はまだ元婚約者を忘れられずにいる。きっと傷も癒えていない。わたしのことを男として意識さえしてくれていない。ダンスを踊ったときの感触だと嫌われてはいないと思うが」
侯爵家の次期後継者でもう二十代も半ばだというのに、あまりにも青いことを言うので驚いた。思わずあきれたような胡乱なまなざしになってしまう。
「それで、自分のことを好きになってくれるまで待ちたいと?」
「……彼女の気持ちを蔑ろにしてはかわいそうだ」
「だからといって手をこまねいていたら掻っ攫われますよ」
それは決して大袈裟な物言いではない。
「婚約解消からもう二年です。あなたが好意を寄せるくらい魅力的な女性ですし、何よりクレランス侯爵家と縁続きになりたい家は多い。彼女のご両親もそろそろ次の縁談を考える頃合いでしょう」
「…………」
彼はグッと押し黙ったまま葛藤しているようだった。額にはうっすらと汗がにじんでいる。その様子をアーサーはしばらく無言で見守っていたが、やがて静かに口を開く。
「結婚してから信頼関係を築いていくというのも、悪くないと思いますよ」
その言葉はアーサー自身の経験によるものだ。
もちろんひとそれぞれなので押しつけるつもりはないが、彼が後悔しない選択をするための一助になればいい。そう願いながら、まだ躊躇っている様子の彼にやわらかく微笑みかけた。
まもなくグレアムとロゼリアは婚約し、一年の後、領地に戻って結婚した。
今後、グレアムは後継者として領地経営をすこしずつ引き継いでいくという。アーサーはまだ王都にいる予定だが、いずれ領地に戻ったときには仕事方面でも彼と関わることになるだろう。
結婚式にはアーサーも妻を伴って参列した。
グレアムが好きな女性と結ばれたことには素直に祝意を表し、ロゼリアが良縁に恵まれたことにはひそかに安堵した。彼女の婚約解消にはいささか責任を感じていたので、勝手ながら肩の荷が下りた思いだ。
ただ、二人ともまだどこか遠慮がちでぎこちなさが窺える。きっとこれから時間をかけて信頼関係を築いていくのだろう。この結婚を望んだひとりとして、二人が幸せになれるよう願わずにはいられなかった。
その後も王都で文官として働き、ときどき領地に戻るという生活をつづけていた。
リチャードとは友人としてそれなりに親しくしているが、想いを告げられたとかそういうことはない。やはりアーサーとどうこうなりたいわけではないのだろう。だからといって結婚して身を固めるような気配もなかった。
ある日——何の前触れもなく、そんな日常を打ち破る出来事が起こった。
父親であるグレイ伯爵が急死したという一報が入ったのだ。事故ではなく、急に倒れてそのまま亡くなったらしい。急いで領地に戻り、葬儀を執り行い、諸々の手続きをすませて伯爵位を継いだ。
領地経営も継ぐので文官の仕事は辞めざるを得ない。事情が事情だけに引き留められることはなかったが、突然だったので申し訳なく思う。上司にも同僚にも迷惑をかけることになってしまった。
「大変だったな」
「ええ……」
父親の死亡は公表済みなので、説明するまでもなく事情はわかっていたのだろう。文官を辞して領地に戻ることを告げると、リチャードはただ静かに寄り添うような言葉をかけてくれた。
本当に慌ただしくて、大変で、悲しむ暇さえなかった。
それでも落ち着いていたし意外と平気だと思っていたのに、彼の言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れて目頭が熱くなるのを感じた。そのとき初めて心が憔悴していたことに気付いた。
そんなアーサーの様子に、彼はつらそうに痛ましそうに顔を曇らせた。そして何かに操られるようにそろりと手を上げかけたが、途中で戻し、代わりにごまかすような微苦笑を浮かべて言う。
「また王都に来たら顔を見せてくれ」
「はい」
今後も何らかの用事で王都に来ることはあるだろう。
ただ、彼もいつまでもこのまま王都にいるわけではない。その現実に思い当たり、アーサーは追い打ちをかけられたかのように感じて、うっすらと目を潤ませたままそっと静かにうつむいた。
「シャーロット、おいで!」
まばゆいくらいの陽光が降りそそぐ芝生の庭で、二人の弟と楽しそうにじゃれあっている彼女を呼ぶと、ぱあっと顔をかがやかせて駆け寄ってきた。ドレスにも髪にもあちこちに細かい芝がついている。
「写真を撮るのね」
「そう、だけどまずは準備だな」
「はい!」
彼女は満面の笑みで元気よく返事をすると、邸宅のほうへ駆けていく。
今日、写真を撮るということはあらかじめ伝えてあった。五歳のころから少なくとも年二回は撮影しているので、もう慣れっこである。何を準備するのかということもわかっているのだ。
写真はリチャードに送るためのものである。
領地に戻ってからの慌ただしさが一段落したころ、シャーロットの写真を添えて彼に手紙を出したところ、近況をしたためた返事が来て、そこからゆるやかに文を交わすようになったのだ。
写真については別に求められたわけではないが、手紙だけというのは何となく気恥ずかしくて、毎回、言い訳のように添えている。彼もそれなりに楽しんでいるようなので構わないだろう。
「旦那様、写真技師の方がいらっしゃいました」
「すぐに行く」
そう返事をして、アーサーも邸宅のほうへと足を進めた。
そんな楽しくて賑やかで平和な日々を積み重ねて、シャーロットは十五歳になった。
少なからず親の欲目はあるのかもしれないが、本当にいい子に育った。明るくて、素直で、穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい。気がかりなのは聞き分けが良すぎることくらいで——。
結局、あの日からずっと敷地外に出ない生活を強いてしまったが、彼女は一度も文句を言わなかった。
だからといっていつまでもこのままというわけにはいかない。十六歳になるまえにすこしずつ外を見せていかなければ。あまりに世間知らずでは社交デビューにも差し障りがあるだろう。
そんなことをのんびりと考え始めていた矢先、グレイ家に激震が走った。
「は……っ……?!」
ウィンザー公爵家から前触れもなく正式な書状が届いたが、何なのか見当もつかず、おそるおそる開封して緊張しながら中に目を通したところ——驚愕のあまり頭がまっしろになった。
それは、シャーロットに対する縁談の申し入れだった。
相手はウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードだ。そう、あのリチャードなのだ。しかもどういうわけか国王陛下の口添え状まである。何もかもが想定外すぎて現実を受け止めきれない。
どうして、こんなことになった——。
静寂に包まれた書斎でアーサーはひとり頭を抱え、執務机に突っ伏した。
やがてどうにか落ち着きを取り戻すと、妻を書斎に呼んだ。
ローテーブルを挟んで互いに向かい合わせに座り、無言で例の書状を渡す。彼女は不思議そうな顔をしてそれに目を落とすが、すぐに息を飲み、ほっそりとした色白の手でそっと口元を覆った。
「ウィンザー公爵家って……陛下の口添えまで……」
驚愕しながらも、取り乱すことなく念入りに読み込んでいく。やがて腑に落ちない表情でそっと書状を置いた。
「ウィンザー公爵家がどうしてそこまでしてうちを選んだのでしょう。正直、うちと縁続きになっても先方に利があるとは思えません。口添えを頂戴したのなら他にもっといい選択肢があったはずです」
その疑問に、アーサーは答える義務がある。
彼女をここに呼んだ時点ですべて打ち明けるつもりでいたが、あらためて覚悟を決めて話していく。彼が十年前に婚約解消したのは男色に目覚めたからだということ、そしてそのころからアーサーに懸想しているということを。
「本当は結婚したくなかったが避けられなくなったのだろうな」
「では、グレイ家に縁談を申し入れたのは……」
「ウィンザー家ではなく彼個人の希望ではないかと思う」
「あなたとは結婚できないからせめて姻戚関係にということ?」
「せめてわたしの血を引いた娘をということかもしれない」
「それって、身代わり……ですよね」
アーサーにはそれを否定することができなかった。つらそうな顔をしている彼女から曖昧に視線を外し、いま言える精一杯のことを絞り出す。
「悪いやつではないんだ。シャーロットを蔑ろにはしないと思う」
「……そう祈るしかありませんよね」
国王陛下の口添えがある以上、縁談は断れない。
妻にはもはや祈ることしかできないだろうが、リチャードに懸想されているアーサーになら、もうすこし何かできることがあるかもしれない。シャーロットにつらい思いをさせないために——。
「わかりました」
縁談について告げると、シャーロットはやわらかく微笑んでそう応じた。
さすがに相手が男色だとかそのあたりのことについては話していないが、それでも異例ずくめの急な縁談なので、少なからず動揺したりショックを受けたりするだろうと思っていたのに——。
「わたしは貴族の娘ですから、家のために結婚するのは当然だと思っています。陛下のお口添えがあるのなら従うしかありませんし、相手が公爵家なら当家にとっても悪い話ではありませんよね」
「シャーロット……」
「そんなお顔をなさらないでください。相手がどのような方なのかはわかりませんが、どうせならお父さまとお母さまのようないい夫婦になりたいですし、そうなれるよう努力するつもりです」
そんなことを言ってニコッとかわいらしく笑う。まだ幼さの残る少女の顔で。
泣かれるのもつらいが、これほどまで殊勝なのもやりきれない——アーサーは返す言葉が見つからずに目を伏せる。その隣で、妻はこらえきれずに顔を覆って嗚咽した。
ウィンザー家に承諾の返事を送り、ほどなくしてアーサーはひとり王都に赴いた。
久しぶりに訪れた騎士団本部はあのころとあまり変わっていない。懐かしく思いながら受付でリチャードへの面会を申し入れたところ、すこし待たされてから騎士団長の執務室に案内された。
その奥の執務机にリチャードはいた。
いつのまにか騎士団長になっていたらしい。騎士服はいささか立派なものになっていたが、彼自身の見目はあのころのままである。一礼すると、彼は気まずそうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「久しぶりだな」
「はい」
部下を下がらせてアーサーに応接ソファを勧めると、向かい合わせに座る。
「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」
「来てくれてうれしいよ」
リチャードがやわらかい微笑を浮かべるのにつられて、アーサーの頬も緩んだ。
何となく縁談には触れないまま互いに近況を話していく。しかしすぐに話題は尽き、二人きりの部屋に息の詰まるような沈黙が落ちた。アーサーは腿のうえで組み合わせた手に力をこめる。
「……シャーロットは」
目を伏せたまま、どうにか決意を固めて本題を切り出した。
「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」
そこで顔を上げると、まっすぐにリチャードの目を見据えて訴える。
「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」
彼女のために自分ができるのはせいぜいこのくらいのこと。しかし他ならぬアーサーが頼むからこそ効果がある。そう信じて、仕事が忙しいにもかかわらず自らここまで足を運んだのだ。
「ああ……必ず幸せにすると約束する」
リチャードは目をそらすことなく受け止めてくれた。
本当にシャーロットが幸せになれるかは別にして、きっと努力はしてくれる。少なくとも蔑ろにはしないはずだ。彼の言葉で、表情で、態度で、どうにか自分をそう納得させることができた。
非常識に短い婚約期間は着々と過ぎていき、婚儀の日が迫る。
リチャードは騎士団の仕事が忙しく、いまだにデートどころか婚約の挨拶にさえ来られないままだ。無理して来なくてもいいと言ったのはアーサーなのだが、やはり微妙な気持ちにはなる。
ただ、両親のウィンザー公爵夫妻は当人抜きで挨拶に来てくれた。どちらも物腰が柔らかい印象だ。シャーロットには申し訳ないことをしたと頭を下げられて、こちらが恐縮したくらいである。
婚儀の準備についてはすべてウィンザー家に任せてあるが、進捗に問題はないと聞いている。さすがは公爵家というべきか。ウェディングドレスもいっさい手を抜かずに間に合わせたらしい。
そして、とうとうシャーロットがグレイ家で過ごす最後の日になった——。
婚儀までにはまだ数日あるが、ウェディングドレスの最終調整や段取りの打ち合わせがあるので、すこし早めにウィンザー家へ向かうことになっているのだ。アーサーたち家族も同行する予定である。
「お父さま、お母さま、今日はひとりで考えたいことがあるので、部屋にいます。夜までそっとしておいてもらえませんか?」
「……わかった」
おそらくまだ心の整理がついていないのだろう。アーサーとしてはやはり家族と過ごしてほしかったが、それを押しつけるわけにはいかない。残念に思いながらも彼女の意思を尊重することにした。
「ありがとうございます」
シャーロットは申し訳なさそうに微笑むと、昼食用のサンドイッチと紅茶を用意して二階の自室にこもってしまった。なのでアーサーもひとり書斎にこもって仕事を片付けていたのだが——。
「お嬢さまが部屋から消えていました」
「どういうことだ?」
夕方になり、青ざめた侍女からそんな報告を受けた。
「部屋の窓がずっと大きく開いたままで、物音ひとつ聞こえなくて、お声をかけてもまったく返事がなくて……奥様に相談して扉を開けてみたら、お嬢さまの姿はどこにもありませんでした」
結婚が嫌で逃げた、のか——?
部屋にはサンドイッチも紅茶も手つかずで残っていた。置き手紙は見当たらない。カーテンがゆるくはためく窓のほうへ目を向けると、すぐ近くに木が見える。木登りの得意な彼女ならそこから庭に降りられそうだ。
だが、逃げるとしてもどこへ。金を持っていないので遠くへは行けないはずだが、彼女に同情して手引きした者がいないとも限らない。彼女と面識があるのは親族、教師、使用人くらいだろうか。
「エリザは手の空いているものと敷地内をくまなく探してほしい。メイソンはシャーロットと面識のある人物すべてに当たってほしい。同時に自警団にも捜索を依頼しておくように」
「畏まりました」
冷静に指示を出すと、控えていた侍女と家令はともに一礼して部屋をあとにする。すぐに侍女のパタパタという軽い足音が聞こえてきた。本来であればいくら急いでいても走るべきではないのだが、いまは咎める気になれない。
「わたしも探してみます」
動揺していた妻も、気を取り直したように足早に部屋から出て行った。
「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
さっそく外から侍女の声が聞こえてきた。
敷地内にいるのなら本気で逃亡する気はないだろうから、呼びかければ出てくるかもしれない。問題は本気で逃亡しようと敷地外に出てしまった場合だ。取り返しのつかない事態になっていないことを祈るしかない。
アーサーは執務机につき、かすかに震える両手を組み合わせてうつむく。
すまない、シャーロット——。
そこまで嫌なら断ってやりたいが、陛下の口添えに従わなければ叛意ありとみなされてしまう。爵位と領地を没収されるくらいですめばまだいいが、家族もろとも処刑ということもあり得るのだ。
結論の出ないまま胃が痛くなるようなことばかり考えていると、にわかに書斎の外がざわめく。すぐにバタバタと足音がして、開けっ放しにしていた扉の向こうから侍女のエリザが飛び込んできた。
「お嬢さまがお戻りになりました!」
アーサーは息を飲み、はじかれたように椅子から立ち上がった。
「シャーロット!」
リビングに駆け込むと、彼女は普段とすこしも変わらない姿でそこにいた。アーサーの姿をみとめて気まずげな顔になったものの、すぐさま我にかえったように表情を引き締めて一礼する。
「お父さま、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。結婚するまえに、どうしても一度カーディフの街に行ってみたかったのです」
「……逃げ出したのではないのか?」
「そんなつもりはありません。最初に言ったように結婚は受け入れていますから。いつか誰かとすることですもの。あ、これおみやげです」
ふと思い出したようにローテーブルの上の紙袋を手に取り、アーサーに渡す。
中にはいくつかの茶葉の瓶と小さな包みが入っていた。ローテーブルの上にはまだ同じ小さな包みが三つあるので、家族みんなに買ってきたのだろう。中身はおそらくハンカチではないかと思う。しかし——。
「おまえ、お金なんて持っていなかっただろう?」
「ネックレスをひとつ売りました。申し訳ありません」
「それは構わないが……」
ほとんどのものはここに置いていくことになっているので、最後に役に立てたのならよかったが、未成年が売るとなると裏通りの治安のよくない店しかない。下手したら無事ではすまなかったと今更ながらヒヤリとする。
「……街は、楽しかったか?」
「はい、劇場でお芝居を観ましたし、カフェにも行きました。移動販売でサンドイッチも食べたんです。とても楽しくて……本当に、夢みたいで……」
最初はニコニコと無邪気に声をはずませていた彼女が、途中で言葉を詰まらせる。ここではないどこかにせつなげなまなざしを向けて。その表情にアーサーは胸を締めつけられてしまい、何も言えなくなった。
翌日、予定どおり馬車でウィンザー家に向かった。
夜更けに到着すると、公爵夫妻はにこやかな笑顔で歓迎してくれたが、結婚する当人であるリチャードはまだ来ていなかった。どうしても外せない仕事ができたので少し遅れるとのことである。
仕方ないとは思いつつも、婚約者どうしの顔合わせもまだなのにと不満は募る。結婚式に間に合うかも不安だ。シャーロットもそういう素振りは見せないものの、同じ気持ちではないかと思う。
ただ、彼女にはそれなりにやることがあったのでよかった。ウェディングドレスのサイズ調整をしたり、結婚式の段取りを確認をしたり、公爵夫人とお茶をしたりであまり悩む暇はなかっただろう。
だが、結婚式当日の朝になっても夫となるひとが到着していないと聞くと、さすがに不安をにじませた。公爵夫妻もひどい顔色である。それでも時間までには来ると信じて支度を進めるしかなかった。
シャーロットを幸せにすると約束してくれたはずなのに、さっそくこんな——。
アーサーも心配と不安でどうにかなりそうだった。自分たちの支度をすませると、他にすることもないのでひたすら気を揉むしかない。グッと奥歯を噛み、まだ姿を見せない彼に内心で苦言を呈したそのとき。
「リチャード様が到着しました! いま大急ぎで支度をしているそうです!」
「そう、か……よかった……」
グレイ家の控え室に飛び込んできた執事の報告にほっとして、全身から力が抜けた。開始時刻に間に合うのかはまだわからないので、安心するのは早いが、それでも最悪の事態は避けられたと思っていいだろう。
「お嬢さまのお支度が終わりました」
つづいて侍女が報告に来た。
アーサーも妻もまだ一度もウェディングドレス姿を見ていない。そわそわしながら花嫁の控え室に向かい、先導していた侍女の手でゆっくりと扉が開かれると——アーサーは大きく息を飲んだ。
そこにいたシャーロットは、まるで天使か妖精のようだった。
純白のウェディングドレスは公爵家が用意しただけあって見事なもので、その方面に詳しくないアーサーにも上質で精緻であることが窺えた。そして何より彼女自身の可憐で清浄な美しさがそれに負けていないのだ。
「きれいよ、シャーロット」
ふいに隣の妻が感極まったようにそう声を震わせる。
アーサーも実感をこめて頷いた。ただ、本当に嫁いでいくのだという現実をあらためて突きつけられて、いまさらながら胸がつぶれそうなほど苦しくなってしまった。
「シャーロット、夫のウィンザー侯爵のことで何かあれば言ってきなさい。わたしのほうからできることがあるかもしれない」
「でも、あまり実家が出しゃばるのはよくないですよね?」
「まあ、そうだが……それでも本当に困ったときは躊躇わずに言ってきなさい。実家というより友人として話すつもりだから」
自分が頼めば、リチャードはそれなりに聞き入れてくれるはずだ。
彼の恋心を利用するようでいささか気が咎めるが、そもそも彼が恋心を暴走させたせいで彼女が犠牲になったのだから、このくらいのことは許されてしかるべきだろう。
「……はい」
シャーロットは当惑したような面持ちで話を聞いていたが、一呼吸して肯定の返事をすると、あらためて姿勢を正してまっすぐにアーサーたちを見据えた。
「お父さま、お母さま、これまで本当にありがとうございました。わたし、お二人のように幸せになります。だから、どうか心配なさらず笑って送り出してください」
そう告げてふわりと花が咲くように笑った。
アーサーは思わず隣の妻と目を見合わせてしまったが、すぐに二人してシャーロットのほうに向きなおると、彼女の願いどおりに微笑んでみせた。寂しさと不安と後ろめたさは心の中にしまいこんで。
花嫁の控え室を退出すると、そのすぐ傍らでグレイ家の執事がひっそりと待ち構えていた。そろそろ参列者が聖堂に入る時間だと知らせに来てくれたのだ。
「君は子供たちを連れて先に行ってくれ」
「あなたはどうするのです?」
「ウィンザー侯爵が間に合うか見てくる」
妻を執事に任せて、アーサーはそのまま花婿の控え室へ向かった。
扉のまえで足を止めてコンコンと軽くノックすると、どうぞと応じる声が中から聞こえてきた。それは間違いなくリチャード本人のものだ。急激に緊張が高まるのを自覚しながら、そろりと扉を開く——。
「アーサー!」
リチャードはパッとうれしそうに顔をかがやかせ、立ち上がった。
後ろから従者が黒髪を整えていたところのようだが、もう十分に整っているし、衣装もきっちりと着ているし、見たところだいたい支度は終わっているようだ。アーサーはほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
リチャードは悪戯っぽく肩をすくめる。パブリックスクール時代を思い起こさせるやりとりに、アーサーもつい表情が緩んでしまう。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
仕事なら責められないが、花嫁の父として心配するくらいのことは許されるだろう。そう思ったが、彼はどういうわけか急に怖いくらい真剣な顔になり、一気に間を詰めてアーサーの背後の扉にドンと勢いよく手をついた。
えっ——。
さらに息がふれあうくらいにグイッと顔を近づけ、覗き込んでくる。
思わずアーサーはびくりと体をこわばらせて息を殺した。まさか——これから娘と結婚しようというのに、この教会で宣誓しようというのに、よりによってどうしていまここでこんなことを。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
冗談であってほしい、そう願いながらおずおずと探るような言葉を向ける。
それでも彼の表情はすこしも変わらなかった。アメジストのような紫の双眸で鋭くアーサーを射竦めたまま、さらに顔を近づけてくる。こらえきれずにアーサーはギュッと目をつむったが——。
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
驚いて目を開くと、彼は呆れたような冷ややかな半眼でこちらを見ていた。しかしアーサーとしては何がなんだかわからないままで、困惑の声しか出ない。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
はぁ、と彼は盛大な溜息をついて体を起こした。
彼の顔が離れてアーサーはようやくほっと息をつくが、彼の言ったことはまだ信じきれずにいた。じっと訝しむような探るような目を向けていると、彼は何とも言えない微妙な面持ちで腕を組む。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
そう告げると、彼は眉をひそめながら首をひねる。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
確信したのはそのときなのではっきりと覚えているのだが、彼は記憶にないらしい。本当に懸想などしていないというのなら、いったいどういうつもりでそんなことを言ったのだろうか。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
彼はどこか緊張した面持ちでアーサーに向きなおり、口を開く。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
十年も待った? シャーロットのことが十年前から好きだった??
確かに十年前の誘拐事件のときにシャーロットと出会っているが、彼女はまだ五歳だった。そのときから結婚を意識していたというのはさすがに無理がある。写真で成長を見守るうちにということだろうか。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
肩を押され、半ば強引に控え室から追い出された。
詳しく話を聞こうと思ったところだったので、何となくごまかされた気がしないでもないが、確かにもう時間はない。釈然としない心持ちのまま身を翻して歩き始める。
カツッ、カツッ、カツッ——。
無機質な靴音が一定のリズムを刻む。
それを意識することなく耳にしているうちに、何か言いようのない苦しさと寂しさが湧き上がり、足が止まった。たったひとつの音が消えた冷たい廊下にひとり佇む。
——シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだから。
——おまえのことは友人としか思ったことがない。
それが事実なら、きっとシャーロットのことを大事にしてくれるだろう。身代わりなどではなかったのだから。もうアーサーが心配する必要もないのかもしれない。ただ——。
「いっそ、嫌いなままでいたかった」
幽かな声がこぼれ落ちた。
瞬間、ハッと我にかえって顔を上げる。さいわい周囲を見まわしても誰ひとりいなかったが、それでも何か気まずくて、その場でゆっくりと深呼吸をして仕切りなおした。
よし——。
再び聖堂へ向かって歩き始める。その足が途中で止まることは、もうなかった。
◆目次:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい