竹林亭白房

一朝「酢豆腐」★落語

□本日落語二席。
◆春風亭一朝「酢豆腐」(TBSチャンネル『落語研究会』)。
東京三宅坂国立劇場小劇場、令和4(2022)年6月29日(第648回「TBS落語研究会」)。
『増補 落語辞典』によると、「酢豆腐」の原話は宝暦13(1763)年刊行の『軽口太平楽』だとある。そして、Wikipediaには出典不明の情報として「これを明治時代になって初代柳家小せんが落語として完成させた」との説明がある。

そして、「酢豆腐」と何らかの関係があると思われる「ちりとてちん」については、興津要『古典落語続』(講談社)を引いた説として、「初代柳家小はんが改作した物」だとある。また、出典不明の情報として、その「ちりとてちん」が「後に大阪へ輸入され、初代桂春団治が得意とした。『ちりとてちん』はもう一度東京へ逆輸入され、桂文朝等が演じた」ともある。

どうも、「酢豆腐」と「ちりとてちん」の相関関係は、出典不明の情報が流布されて、本当のところはわかっていないのではないだろうか。確かなことは『軽口太平楽』に「酢豆腐」という噺が載っているということだけか。
東京と上方の先行関係については、これも一般的には、東京から上方へ移植された数少ない噺ということになっているようだ。この移植のことは、出典を明らかにしていないが、川戸貞吉『落語大百科』にもそう書かれている。

ただ、「ちりとてちん」で一つわかることがある。大正12(1923)年3月1日『文藝倶楽部』二十九巻四号に載った二代目柳家つばめの速記(今村信雄速記)があり、そこでつばめは「此のお話は先年大阪へ参りました時に、彼地(あちら)の染丸さんに精(くは)しく口伝されましたのを、手前の演宜(やりよ)いやうに聊か訂正をして申して居ります」とある。

ここで出てくる染丸は、三代目笑福亭松鶴の弟子で後に五代目笑福亭松喬を襲名した、二代目林家染丸のことだろう。この五代目松喬は、笑福亭を離れて明治45・大正元(1912)年5月以後、二代目林家染丸を名のっている。二代目つばめが「先年大阪へ参りました時」と言った時期と符合する。

Wikipediaなどに見られる流布説で、「ちりとてちん」が「後に大阪へ輸入され、初代桂春団治が得意とした」とあるが、二代目染丸が「ちりとてちん」を演っていたときと、初代春團治が同話を演っていたときと、さほどかわらないように思うのだが。
ただ、初代春團治は、「ちりとてちん」の音を残しているので、初代春團治が上方に「ちりとてちん」を広めたかのように思われているだけで、そのころ、二代目染丸も演っていたように、多くの上方の落語家たちによって、「ちりとてちん」は演じられていたようにも思える。

だから、「ちりとてちん」は「ちりとてちん」として、上方から東京へ移植されたのでは?それが二代目つばめを嚆矢とするのかどうかはわからない。
ちなみに、二代目つばめの速記を読むと、この噺は、気に入ったのならたくさん食えと言われた男が「イエ、此のチリトテチンは一口のものです」と言って落げになる。つまり、「酢豆腐」と同じなのである。

一方上方では、初代春團治の音や速記が残っているが、「エヘッ、ちょうど豆腐の腐ったような香(かざ)ですわ」である。これは現在の「ちりとてちん」と同じもの。もし、二代目染丸も同じように演っていたのだとしたら、二代目つばめはそこを「手前の演宜(やりよ)いやうに聊か訂正」したことになるが。

◆『笑点』(特大号)弟子大喜利:春風亭昇太(司会)/三遊亭遊かり・春風亭㐂いち・林家あずみ・林家けい木・三遊亭とむ・春風亭昇也/(座布団運び)立川小春志(こはる改メ)(BS日テレ『笑点』特大号第451回)。
日テレ麹町スタジオ、令和5(2023)年5月10日OA。
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