(「善の誘惑」について再び考える)
前回の『コーカサスの白墨の輪』5の「善の誘惑」ですが、
私は逆の解釈をしましたという感想(コメント)を頂きました。(^^;)
ということで、今回も「善の誘惑」についての感想です。
「恐ろしきは善の誘惑」といった台詞があったのは、ミカエルが家族に
置き去りにされて、グルシャがミカエルを見捨てようかどうしようか、
迷っている時に、サゴジョウ(朝比奈さん(^^;))が語り手として、
語る台詞なんだそうです。
私、どのシーンでこの台詞が使われたのかすっかり忘れていたので、
このシーンで言われたのだとしたら、私が前回言っていた、
「自分の正義」がここでいう、善となるのかも知れませんね。
つまり、感想(コメント)に頂いたように
逆の解釈の方が自然な気がします。(^^;)
けど、そうだとすると、この「善」という言葉と「誘惑」という
言葉のアンバランスさがしっくりこなくてすごく気になるので、
もう少し考えてみました。
私の中の「誘惑」というイメージですが、
「誘惑」というのは悪いイメージがあるのと、
「誘惑」っていうのは外からのものという印象があります。
実際に国語辞書で「誘惑」の意味を調べてみました。
「心を迷わせて、さそい込むこと。よくないことにおびきだすこと」
とのことです。
最初、グルシャがミカエルを拾ったのは「善の誘惑」から。
そこにはまだ迷いがあり、覚悟には到っていない。
「かわいそうだから」という気持ちが勝っての、
その気持ちを埋めるための自己満足からの安易な行為だったのではなかろうか?
実際、彼女は途中でミカエルの面倒が見切れなくなってミカエルを
捨てようとするシーンが出てくる。
そこにはいろいろな言い訳が生じてくる。
彼女には覚悟がなかったことがそこにも表れている。
しかし、実際、捨てて自分の身勝手さに気付き、再び「善の誘惑」に
苦しむこととなる。
彼女は再び、ミカエルを自分のもとで育てようと思う。
私は思うのだけど、グルシャは何度かこういった「善の誘惑」に向き合う事で、
「善の誘惑」ではなく、自ずから「溢れ出る善」へと近付いていったのではないか?
そして、この物語りはそういった彼女の善への変化が描かれたものではないのかと
思いました。
最初拾った時は「ミカエルがかわいそうだから」という、解釈のもとの自己満足的な善。
そして、農家に捨てることで、ミカエルという重荷を失い、喜びのあとに押し寄せる
寂しさと後悔。その時に初めて彼女はミカエルを拾ったことは、
ミカエルのためではなく、自分のためだったのだということに気付く。
ここらから、彼女の覚悟は固まってきているように思う。
命がけの吊り橋渡り、そして、山奥の男との結婚。
けど、まだ覚悟は固まってなかった。
ミカエルのせいで自分は不幸なんだという思いが彼女のどこかにあったはず。
その証拠に彼女は結婚生活になかなか馴染めない。
そして、裁判。
アズダックが二回手を引かせたのには訳があるように思う。
「確認のため」
と彼は言う。何を確認したかったのか。
それはグルシャの行為が「善の誘惑」からの行為ではないかどうかってことでは
なかったのだろうか?
一度目の彼女にはまだ迷いがあった。
「何故か手に力が入らず手をひけなかった・・・・」と言った感じの事を彼女はいう。
そこには確信がまだない。覚悟もない。
しかし、ニ度目の彼女ははっきり断言する。
「手をひくことなんてできない!ミカエルの身体を引き裂くことなんてできない!」
私はニ度目の彼女の行為は「善の誘惑」ではないと思っている。
「誘惑」ではなく、「自ず」と出て来た行為。
「善の誘惑」と違うのはそこには覚悟がある。信念がある。
ミカエルの事を心から思う覚悟。そして信念。
それは自分の心を満足させるためのものでもない、見栄を守るものでもない、
寂しさをうめるためのものでもない、・・・・ただ相手をただ思う心がそうさせたもの。
迷いがあれば(善の誘惑からの善であれば)、彼女もミカエルも幸せにはなれないだろう。
しかし、ニ度目の時、彼女には覚悟が出来た。迷いはなかった。
それをアズダックは見逃さなかった。
アズダックは彼女ならミカエルを幸せにできるとその時確信できたのであろう。
ブレヒトはそういった迷いなき「善」を描きたかったのかなぁと。
一緒に観に行った友達にも「善の誘惑」ってどう思う?と聞きました。
すると「育てられないのに捨て猫を拾ってきたことを思い出した」と言いました。
なるほどなぁと思いました。
「善の誘惑」での善は自己満足的要素の強い「善」。
本当にそれが相手の為になるかならないかというよりも基準は「かわいそう」とか、
そういった満たされない感情を無意識に善を建て前に埋めようとするのが「善の誘惑」。
そんな気がしました。
うまくは言えませんが、世の中の情勢や価値観、自分の感情などに振り回されず、
自分の信念を持って行動できることが善とは何かに近付ける方法なのかも知れない。
言葉でいうのは簡単だけど、難しいなぁと思います。
でも、そんな人になれるといいなぁと思います。
けど人間、なかなか無欲にはなれないもんだよね。(^^;)
手をひかなかったグルシャは一瞬だったかも知れないけど無欲になれたんだと思います。
自分のためでなく、ただミカエルのために・・・。
<松たか子>■『コーカサスの白墨の輪』■
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