さて、寺子屋の「結び」として、「大導寺信輔の半生」からの引用をありがとうございました。
これを読んで思ったのですが、「大導寺信輔の半生」が芥川の自伝的小説とすると、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」に、かなり相当するものがあるのではないかと。そんな感じがしました。
「トニオ・クレーゲル」は読まれましたでしょうか。上述したように、これもマンの自伝的青春小説なのですが、そこに描かれているのは、文士・作家の絶対的な孤独、またそれが必然であることの苦悩とある種の悦楽、そして、トニオは学徒であったころの自らに、美しい薔薇色をした薄明りの反射を見、憧れるのです。
もちろん、貼り付けてくださったのは、ほんの一部の引用に過ぎませんが、この短い一節が、「トニオ・クレーゲル」のほぼ全てに重なり合って見えたのです。
芥川とマンが、それぞれ異なる地点から同一のものを見ていた。当然のことなのでしょうが、やはり文学や芸術には普遍的な共通する一本の道が貫かれているのでしょうね。
これを読んで思ったのですが、「大導寺信輔の半生」が芥川の自伝的小説とすると、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」に、かなり相当するものがあるのではないかと。そんな感じがしました。
「トニオ・クレーゲル」は読まれましたでしょうか。上述したように、これもマンの自伝的青春小説なのですが、そこに描かれているのは、文士・作家の絶対的な孤独、またそれが必然であることの苦悩とある種の悦楽、そして、トニオは学徒であったころの自らに、美しい薔薇色をした薄明りの反射を見、憧れるのです。
もちろん、貼り付けてくださったのは、ほんの一部の引用に過ぎませんが、この短い一節が、「トニオ・クレーゲル」のほぼ全てに重なり合って見えたのです。
芥川とマンが、それぞれ異なる地点から同一のものを見ていた。当然のことなのでしょうが、やはり文学や芸術には普遍的な共通する一本の道が貫かれているのでしょうね。